ブログらしいブログって。

 何事も正解はひとつではない。と言葉にするのは簡単ですが、正解がないから想像力が必要だという論理もメンドクサイ。直感で生きてこそクリエイターだという理論も多面的過ぎてよく掴みどころがないに等しい。ただ言葉遊びだけに戯れたいのなら何でもいいが、言葉にするということは必ず質量を伴う。質量保存の法則ではないが、重力下で人間の細胞分裂が微妙なバランスを均衡しているように、コミュニケーションという地球上に存在する重力下では必然的に言葉が刀だとすると、人それぞれの鞘があるはず。いきなり一刀両断に切りつけるマナーがあれば、お互い鞘から刀を抜かずに間合いを詰めるというルールもあるはず。では、昨今のSNSはどういう構造になりどういう機能性があるのかと分析・洞察してみると、意外と単純だったりする。が、それでも質量はどこに保存されているのか?という疑問と、そもそも、この機能の中に質量は適用できるのか?という乱暴な仮説が頭をよぎる。しかし、ビックなデータは解析され新しいデータに改編され実しやかに質量らしきリアリティーが交錯している。負けるが勝ちなのか、勝者こそが正義なのか?イントロが大変長くなったが、ブログらしいブログって何だろう?

 最近、ある映画の記事を書いたら、「いいかげんなことを書くな!お前にその映画を語る資格はないわ」というコメント頂いた。そもそも、映画関係者でもない私が映画について好き勝手に書いていることに資格があるとは思っていないし、「映画と資格」の関係を確認したい気持ちの側面もあったが、夏でもないのに水を掛け合うことは避けた。確かに根拠のないことを書いたし、私に映画を語る資格はないのが現実である。だから、あながちこのコメントにむやみにテンションは上がらなかった。「まぁ、そう言えばそうかな・・・」と。しかし、最近、「あなたのブログは素晴らしい!」という言葉を頂いた。誰が見てるか分からないという乱数にいろいろなベクトルが浮遊しているものです。人間だから、褒めていただければ嬉しいが、何が素晴らしいのか?明確に書かれていないため、五臓六腑はに落ちない感じ。でも、「お前に資格はない!」と言われるよりも「素晴らしい」と言われると嬉しい。

 さて、この多面的なコミュニケーションのログをどう捉えるべきか。いずれも、たわいもないことですが、いろいろな感情を引き起こされた。ショックだったり嬉しかったり。で、この言葉の質量をこれまた自分勝手な物差し・秤で計測しようとするのですが、いずれも、メモリが0なことに気がついた。これらのコメントの言葉の質量は0gだった。意味がないとか価値がないとかという表現ではなく、あくまでも質量として計測不可能だった。これは何故か?ブログのコメントだから?いずれも会ったことのない人だからか?言葉本体のレイヤーがスキャンできなかったからか?いろいろ考えたが、答は出ていない。

 つまり、「想像力とは正解へ導かない。」という3段論法が成立した。

 さて、このブログという存在、いかなるものなのだろう???では、電話の会話なら質量はあるのか?面と向かって話合えば質量はあるのか?お互い刀を構え対峙すれば質量は交換できるのか?インターネットのことを先日観た映画では、「ライン」と言っていた。なるほど、ただの「ライン」なんだとその時、妙に納得してしまった。さて、点と点の間を何色の何ポンドの何フィートの糸(ライン)で繋げようか・・・。