2013年02月 アーカイブ

なるほどこれが原型か・・・。

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 なるほどなるほど、これが原型なのか。

FORCE LIVE DVD

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そうですか、やはり、出ますか。

じゃ!買わないとということで、アマゾンで予約完了。

4月3日が非常に待ち遠しいぞ・・・。

猿の手。

 猿の手、特に高い木の上で生活している猿は動体視力や空間認知能力に優れているらしい。さらに、枝から枝へ飛び移るために手が発達している。木から落ちるということは命に関係することであり、天敵から逃れる、餌を捕食するために、その能力はいかんなく発揮されるべく進化しているらしい。その手の特長とは、自然に力を抜いた状態で手は握り締められているのだそうだ。つまり、人間の手とは逆で、握るために筋肉が発達しているというよりも、開くための筋肉が発達している。この微妙な調整を身体能力でコントロールしながら高い木の上での生活を手に入れたのだ。

 進化の過程で人間は大きな脳を手にいれた。二足歩行と手の機能の発達は人間を人間たるポジションに据えたと言える。このことを考察すると、開く筋肉と握る筋肉の違いがどういうことに影響しているのだろうという次の仮説に向かうことができる。木から下り知能と技術を得た人間が手を常に握りしめている状態から解放され、自分の生命を維持するためにその手を開いた時から、新しい進化が始まったのだろう。投げる、掴む、抱きしめる、道具を使う、道具を作るという作業のバリエーションの進化がこうして今、デルのキーボードを打たせているのだろう。

 で、開く筋肉と握る筋肉の違いについて、「リラックス」している時、筋肉は潤滑に動く。作業でも動作でも競技でも、緊張して筋肉が委縮しているとポテンシャルを発揮できないというスポーツ競技などにいうあれである。イップスなど過去に失敗を重ねていると、いざという場面で、それを回帰し筋肉が委縮して操作性が低下するというテイである。過去の失敗を繰り返さないために人は新しいプラン・戦略を頭で考えるが、それは、精神的な重圧・ストレスを中和させようとしているに過ぎない。しかし、世の中、戦略戦略で時間を浪費する傾向にあるのは何故か?恐らく、開く筋肉と握る筋肉の関係性のジレンマだろう。勝負に勝てない、結果が残せないと、戦略をいくら重ねても実は動きにリミッターをかけているのではないだろうかという仮説が頭の中で構築される。ホームランを打った時、何を考えていたか?一様にその答は「何も考えていなかった。」が正解であり、自然とバットが出たとなる。このリラックス感こそが、高い技術に裏付けられた人間の進化の過程であるのだから、思考でも行動でも集中するとは筋肉に乳酸を溜めることではないと知る。

 感覚的になろうと、頭で理解している内はロジックが先行している。本当に感覚的になるためには、人間の場合、こぶしを開いている状態がベスト。猿は握っていたが・・・。

 それを理解していれば、高い技術を持っていればいるほど、道具はなんでもいいとなる。高いスキルがあるからこそ、人間の手は開くのであろう。道具に依存するのは文化の証だと思いたいが、生物としての人間のDNAはそこを実はストレスだと感じているのかもしれない。だから、高い技術と自律したモチベーションがあり、その上で目的を設定したなら、道具や戦略や方法論における、勝負に勝てない要素を排除し負けないスキルを、というか、負けないモードを手に入れる必要がある。

 それが、フォースなんだろう。

 心を解放するのは難しいが、両手を開き太陽に向けることは誰でもできる。手の内を明かすということではなく、重力に向かって手を開き進化の箍を解除しましょうということ。

いい子とは?

 時代と共に「いい子」の定義が変容している。今も昔も変わらず「いい子」はいい子だろうが、社会の構造や経済の仕組み、教育や文化の変化した側面を社会的に捉えると、そこに存在する規範に対しての「いい」が社会構造にリフレクトしてチューニングされている。だから、当然、その影響を受ける「いい子」はいい子でその対応を本能で感じ取り、自分自身が「いい子」であることに努力するから。これが社会が担う大きな責任でもあり、学校教育の在り方と経済の構造を相関させるひとつのラインになっているはず。いつの時代も「いい子」と「いい先生」の関係は存在していただろうし、学校教育の中で、システムや構造から離脱する子どももいた。その場面その場面で適正な判断を先生がしているのだろと考えたいが、先生とて人の子、万能ではないから、自分のテリトリーでキャパはMAXだろう。でも、教育者への社会からの依存はどんどん時代と共に大きくなり、その重圧というかタスクを果たして現場の先生方はどこを受け止めどこをいなしているのだろう。理想的な教育者像はこうであるべきだと、現実、職業としての教師というスタンスの間にどんな深い谷があるのだろう。その谷にかけられた吊り橋の上で子どもたちが右往左往しないように、両方の崖で親は見守るしかないのだろう。

 学校で「いい子」が、家で「いい子」が実は心に深い闇をかかえていたというニュースをよく見るにつけ、そのSOSを何故受け止めることができなかったのか的な結果論が蔓延しているが、そこを掘っても結局骨しか出てこない。私達は真剣に問題に対峙しています・・・ということが伝えたいのなら、もっと、別のボキャブラリーがあってもいいのかなと思う。「いい先生像」「いい教育像」を追いかけ過ぎて、等身大のリアルを黙認してはいないかと・・・。この考え方は教育の現場にいない無責任が親ならではの発言に他ならないが、親は何をすればいいか?という自問自答があり、自ら苦汁の決断をした「いい子」がこの考えを親に伝える術を持たなかったという悲劇だけはなんとしても回避しなければいけない。教育は学校だけでは成立しないのだから。学校に先生に何ができるのか?というテーマは厚い教育委員会の資料には記述できないはずだし、それぞれの子ども気持ちをビックデータにログれるアプリもまだ開発されていないのだから、そこは、それぞれの立場で人間が自分で考えて悪い信号を中和するようなアルゴリズムをアウトプットしなければならないのだろう。

 で、私自身は結局、「いい子」だったのか?と回帰しても、それを推し量る計測機器はない。だから、「いい子」「悪い子」「普通の子」とカテゴライズすることなく、子どもを一人の人間としてリスペクトして、補足・育成・誘導するではなく、いつもONE TO ONEの関係で親も子から学ぶ姿勢でいたいと私は考えている。

 地元の中学に入学した初日、教室の黒板の上に掲示してあった文字を今でも克明に覚えている。この言葉がこの歳になっても目に焼き付いているということが、実は、教育が担える唯一の美学なのかもしれないと思う。あの長期間、あの空間で同年代の子どもと過ごしてきたのに、教科書の中身などさほど社会に出て伸びしろはなかった。学校の頃の友人でさえ、価値感の相違で疎遠になっているケースが多い。結局、どこへ行っても人間はONE TO ONEなのだ。だから、こそ、その教室に貼ってあった言葉が意味を意義を成す。社会に出ると何が始まりで何が終わりかは自分で制御する必要があるが、とある新しい世界にダイブする時の気持ちこそが実は最も大切な重要な軸なのだと。

 「初志貫徹」。なかなか質量のある言葉である。T.K.先生、お元気かな?


反教育論~猿の思考から超猿の思考へ~

 「なぜ思考できない人間が増えるのか?「貧しい教育」「子どものため」という言葉で子どもの成長をじゃまする大人たち。注目の精神科医が現代の子育て・教育常識に強烈なダメ出し!」という「反教育論」という書籍がある。「よい子ほどダメになる!」というテーマは非常にインパクトがある。この場合の「よい子」とはどんな存在なのか?「貧しい教育」とは具体的に何を指してどうすればいいのか?教育現場の人間ではないから、「教育」については学校機関に任せるしか・・・が恐らくこのような社会構造にした一番大きな原因だろう。決して世の中の教育者を否定ているわけではなく、頑張ってほしいが、何をどう具体的に頑張ってほしいかは見えていません(見る立場ではないのだろう・・・)。こんなことを思ってしまう段階で無責任極まりないピアレンツのひとりなのかもしれない。子どもの成長はこうあるべきというシステムがあれば、そのシステムにそってカリキュラムを実動するのが教育現場のプロだという気持ちが不完全なのだろう。

 以前、一瞬でも美術の教師になることを大学時代にイメージしたことのある人間だから、自分自身と教育現場の距離感を推量した経験からの意見ですが、どういうタイプというか素養を持っている人が教師であるべきなんだろう・・・と考えてしまいます。時代が変わり、変容と均衡の時代に教育はどうあるべきか。非常に大きなテーマだが、韓国やインドやシンガポールは試行錯誤しながら結果を出している。その結果というか成果が正解か否かは誰にも分からないとして、全ての教育の理想が幸福に向かっていることを願う。

 そこで、「反教育論」・・・と、一体どういう書籍だろう?この書籍本体で世の中の何がどう変化を及ぼすか分からないが常に正解を求めず、安易なシステムに依存せず、大きな変化も小さな変化も柔軟に受け止め、飽和する情報の中から自分に有効なヒントを見極め、吸収し消化しエネルギーに変換さえできれば、あとは、モラルの形成のレシピが肝心。誰がレシピで何がレシピなのか?きっと、こちらも正解はないだろうから、「小さい期待」と「小さい感謝」をひとつひとつ蓄積することが最適な有効な捉え方なんじゃないかと思います。

最高の離婚。

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 先週第7回が終わった。あと4回、物語はどうなるのか?非常に楽しみです。ここまでテレビドラマに喰いついたのは何年ぶりだろう。「リッチ&プア」も非常に良かったがそれから特筆するようなテレビドラマはなかった。俳優・女優さんは第1戦級でも脚本がつまらないつまらないの連続で、これは何が違うのかとチェックし続けているとこういう最高のドラマが登場する。

 こちらの4人がとてつもなく旬であることが最大の原因だろうが、ただそれだけでもない。「離婚」というテーマをこれだけ自分像を克明に表現し絡み合う物語のディーテルたるや最高傑作である。あと4回だろうが今から終わってしまうのがとても残念です。

 で、世の中的にはこのドラマの評判はどうなんだろう?と気になるがまぁそれはどうでもいい。このドラマを観て他の現在平行しているドラマを観るにつけ、なんとも物足りない。ドラマづくりのテッパンだけど演者や脚本でこうもハネるのかと・・・。

電脳の浸食。

 この場合「進化」と言わず、「浸食」とするあたり人間は誠に勝手である。コンピューターが人間の仕事を奪う的な文章を読むたびに奢りと過信の狭間で見動きできないムンクの叫びのような人間像を見る。真剣に捉えるべきことかもしれないが、そろそろガチのお話のようです。いろいろな職場で人の領域が侵されているという現実をどう受け止めるか?フェイスブックやツイッターのログに一喜一憂している内はいいが、そろそろだろう。それらは工場のような製造業に浸食をし、オフィス空間にもその触手を伸ばしているとか。雇用や賃金がどうのこうのという問題ではなく、人の仕事がガチでなくなる社会へのカウントダウンが始まっている。赤いデジタルの数字はいったいどこまで減ったのだろう?

 ドカン!とそれが起爆した時、できるだけ人間らしい空間でそれを煙草を吸いながら人間らしく傍観していたいな。

 「機械が人の仕事を代替する動きはゆっくりと進むので、人間でないとできない分野に労働力を移す必要がある。」と偉い先生が語っているが、人間も安く見積もられたものである。では、人間だけに出来る仕事とは?恐らく次に出て来るキーワードはどんな記事も同じで「高付加価値」となる。さてこの摩訶不思議な言葉のベクトルはどこへ向かっている?付加価値とはそもそもこの場合、具体的に何を示唆しているのか?それが一番の「浸食」の対象ではないのか?と。

 人とパソコンの冷たい戦争が始まってしまった以上、どちらが眠る獅子なのか?どこがそのボーダーラインなのか?見極める前にボーダーラインを超えてしまったら、もう、スピードがどうのとか呑気に語っている暇はない。電脳という言葉にストレスを感じている人が一番やばいはず。ふん!電脳なんて、スイッチを切ればただの粗大ゴミだぐらいでちょうどいいのに、そのスマホがあたなの心のペースメーカーになる前に本当の心臓の鼓動のままにその歩を進めたい。

必ず結果を出すリーダーの?

 「必ず結果を出すリーダーのマネジメント4ステップ」「企業採用も続々!就活中の学生にもオススメ!」「これからのリーダーに求められるのは日常業務+アルファの実績 計画・実行・評価・改善の4ステップで確実に目標を達成する」「リアルに役立つコツ満載!!の一冊」。という書籍があり、これが絶好調8万部と。そういう側面もある時代なんだろう。

 「なぜ、PDCAサイクルが回らないのか?→全ての原因は「計画のダメ」さにアリ・目標と目的を混同していませんか?」って、モノゴトはそんな単純ではなのだから、回らなくて当然。回らない回るではなく、スタート前に実は結果は出ているとも言えるし、一瞬で変化を受け止めれば新しい結果が確実にやって来る。それをどう受け止め続けるかが前進するというリアりティー。

 「計画策定段階で勝負は90%決まる」という幻想・期待に唯一価値があるとすればそれは保険感だけだろう。ダイブするのに安心したいから、戦略を練り策略を講じる。しかし、悲しいかなできることとできないことがある。それはどれだけ秀逸な戦略を講じても一瞬で変化するということ知らなければ、求めている結果は絶対に達成できないだろう。

 「実行段階のジレンマ」という想定外の事態で何が用意できているかではなく、何故か?どのようにを瞬間瞬間でリセットできるか否かが実は全ての結果を左右している。

 「改善策が見えてくる!評価の進め方」の評価ほど自分の都合で推量している事実を、自分自身がどう受け止めるか。これは評価とは少しニュアンスが違う。

 「次の計画につなげるステップ」とよく言うが、次に繋がる結果など出ているはずがない。それは、自分のさじ加減ひとつ。今回は今回、次は次。

 私はそいうリーダーが結果を出す時代なのではないかと思う。

会津は盛り上がっているだろう。

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 大河ドラマにあまり心は震えないが、この「八重の桜」はちょっといい。というかかなりいい。きっときっと、会津は盛り上がっているだろうな、いい感じに。旅に別段興味がないし、日本の歴史にあまり特筆するモノを感じないが、なんとなく、このドラマを観ていると会津の街をぶらりしたくなる。なんかいい・・・がこれからの大きなキーワードなのかもしれない。

 ロジックはどこかに置いておいても、「なんかいい」がいろいろな動機になるような気がする。

いつもながら・・・。

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 ほんとに素敵な展開力です。グーグルさんは素敵ですね。

美味しいコーヒーの飲み方。

 「美味しいコーヒーの飲み方」か・・・。わざわざテレビで紹介するようなネタかな?この豆の特長?ドリップする温度?方法?カップは?なんのこっちゃのテイをいかにもモードで言われても、そのコーヒーが美味しい蘊蓄は美味しくない。いわゆる、こういう啓蒙が昔ならテレビから落ちてくれば、「御代官様、はは~っ」っつて崇めて奉っていたが、もうそんな時代ではないぞ。誰のどんな美味しい飲み方よりも、世の中のコーヒーが好きな人達はそれぞれに自分スタイルの美味しいコーヒーを知っている。つまり、情報の流れ方がそういうことになっているのに気が付かず、スマートな入れ方でドリップしている人、あまりカッコ良くないですね。これは一事が万事で、音楽もそう、仕事もそう、生き方もそうなっている。それが「自律性」の部分だろう。だから、私の美味しいコーヒーとあなたの美味しいコーヒーの間にメディアや専門家が介入してほしくないということ。その空気を読まずに高い原価の豆をスタイリッシュなミルを使って、この方法が美味しいですはもう成立しないような気がする。

 例えば、仕事がそう。報酬(給料)を目的にやらされている仕事に価値を感じることはない。そこに何か自分自身の自律性が介入しなければ、刑務所の作業の方が生産的である。そこに仮にノルマ的なことを組織で決定しそれを報酬と比較して正確に推し量る物差しはない。在るとすればその会社のトップの誠に勝手な物差しを会社に属している段階で渡されているはずだからそれで計測して自分の尺度と比較しながら与えられた時間の有効性の中で右往左往試行錯誤する。これが働くということ。自分がそのシステムに組み込まれたくないという何かしらのモチベーションを持っている人はそこをテイクオフ。日本の製造業が・・・とか、日本の教育が・・・経済が・・・とロジックで捉えることは簡単だが、その根幹に在るモチベーションの本質を見誤るとスパイラルはどこまでも底なしの下降を始める。何故か?それが代謝と複製を使命づけられた生物の能力・性能・本質なのである。それを知っている歴代の王達はタスクを報酬に置き換えて価値感を共有させたがその寿命は想定以上に短く、平和を求めれば求めるほど、その均衡は崩れることを知っている。

 美味しいコーヒーからかなり離脱してしまったが、私の場合、記憶にある美味しいコーヒーベスト3は、恐らくこんな感じ。第3位は大学の頃、自転車で南河内郡から実家(福井県高浜町)まで帰った夏の日、最後の峠に向かう前に立ち寄った喫茶店のアイスコーヒー。第2位は年頭に登った伊吹山で頂いたホットコーヒー。第1位は仕事場で仕事をしながらタバコを吸いながら頭がフル回転している時に飲む日々のコーヒー。吉野家のオリジナルカップがまたその美味しさを強力にバックアップしてくれる。

 仕事も美味しいコーヒーも結局、TPOが重要であり、TPOって結局、自分自信の自律性の上に積み上げてきたからそれが美味いのである。と同時に美味しくない時間を過ごしがちな人は逆にそれをエンジョイしているのだろう。「嫌い嫌いも好きの内」的な感じであり、リスクやジレンマやノイズこそがリアリティーだと感じられる能力を持っている耐久力のある人なのだろう。

 今、ある書籍のカバーデザインを構想中なのですが、これが、保育関連の書籍のブックカバーです。そのテーマはとても素晴らしく「いい子とはどんな子か?」という大きなテーマ。ルールやしつけを守れない子どもは悪い子かいい子か?教育の根幹の部分ですね。頭のいい子と悪い子を勉強というモノサシで判断してきたこの国が実は地殻の活断層の上だったみたいなことにならぬよう、地熱を有効なエネルギーに変換したいものです。そもそも勉強って何のため?と次の論点が移行しそうですが、それは、また、いつかいい考察かサインかキリクチが思いついたら書きます。

イミテーション・ゴールド。

 オハイオ州立大学の教授が「コピーキャット」という書籍を出しているらしい。世界10カ国で翻訳された逆転の戦略編。「真の先駆者は誰も覚えていない。あのイノベーターもコピーキャットだった。」と。それはどの世界にダイブしていても同じことなのだから、取り立てて「模倣こそがイノベイトだ!」みたいな書籍だとしたら買う価値はない。芸術というアプローチに精通していない人ならば、入場料を支払い、しばし自分の中の何かに浸れる存在がアートかもしれないが、それを人生の使命とわずかでも考えているならば、そのチュートリアルはすでに終わっているはずだから。模倣について日本の慣習は否定的なニュアンスがあるから・・・的なことももうどうでもいい。それぐらコピーキャットに対する自らの姿勢というか倫理というかモラルをどの程度保有するかでこの書籍の価値は大きく振幅する。

 革新と模倣が全て。そして、代謝と複製の動的均衡を経て万象は成立している。

 それは何故なのか?答えは一つ。それが脳の最大の機能だからである。単純なことを複雑に分解することも創造だと勘違いすることは誰でもできるが、複雑なことを単純化するこが破壊だと意識するには、それ相当のチャレンジを経て辿りつかなけばならないピーク(山頂)である。

 人間の歴史の中に「金」を一番高い山だとする慣習・歴史・価値感がある。これを代用して物流が進化した結果、工業もデジタル仮想世界も生まれた。ただ、人間の頭がこのスピードに正確に反応できているるのかということが一番重要な問題で、おばばの言葉を借りれば、「大きすぎる火は何も生み出さない。」のだろう。

 アメとムチに翻弄され続けるか、己の「自律性と熟達と目的」で新しいスタイルを受け入れるか。まず、大きな分岐点はそこにあるような気がしますね。

火の中の栗。

 やっかいな人はいる。やっかいな存在は在る。やっかいな心の衝動は誰でもあるだろう。誰もが「嫌がる仕事」の中に宝石が眠っていると言われても、なかなか、箍を外し先入観をクリアにしてそれを拾う勇気は相当のエネルギーが必要だと思う。癖は癖に反応し、否定は否定を生む。あれに見えるのが宝石の原石だから、やけどをするかもしれないが手を伸ばそうと、人類の最初の勇気ある先祖が人類の現在を開拓してくれたんだと大きく捉えると、日々の小さい「やっかいなこと」はすでにDNAのレシピの中の想定内であるはず。まぁ、一昨日のような隕石が落ちてきた場合は講じる手はないが。

 時にあえて損だと思われる役回りに身をゆだねることで大きなこれまでののびしろを大きく超えることができるのかもしれない。火の中で焼けている美味しそうな「栗」を拾うのか拾わないのか?火の中で香ばしい香りを漂わせていることを確認しても、美味しい栗を勇気を出して拾ったつもりが、犬のウンコだったってことにならぬよう、見極める、というか、自分自身は今、その栗が必要か必要でないかをいい状態で判断できる心地でいたいと思う。それは判断力であったり洞察力・分析力・観察力の類だろうが、常に手を出さない理由は生きていればいくつか手の中にあるはず。それを否定する勇気はキラメク宝石を目視しても絞り出すは難しい。

 宝石とはガラスケースの中でキラキラしているから価値があるのかもしれないし、手にした瞬間ただの小さな石になる可能性はある。また、勇気を出して伸ばした触手が違うモノを掴んでも、それは、次ののびしろの設計図かもしれない。自分のカルテは自分で書こう的な衝動がブログかもしれないし、自己治癒の処方箋がアウトプットした文脈の中に書き記しているかもしれないし。

 入れるためには出さないと・・・みたいなことなのかもしれない。

存在感。

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 ふと気が付けば、13日からブログを書いていなかった。ネタが思いつかないわけでもなく、ブログがメンドクサイことになった訳でもない。ただ、他にやらなければいけないこと、考えなければならないことがあり、いわゆる、忙しかった。これはいいことなのかもしれないのかな・・・とブログにまつわる不思議なモチベーションに昨晩ふと気がついた。ほとんど純粋にただの「WEB-LOG」なので、誰がどのように何を感じるかはあまり気にせずライトダウンしているのが、ふと3日間ほどブランクになると、逆にブログを意識している自分がいました。それほど「便利」というか「依存」というか「頼り」にしているんだなぁ~と。

 で、「ノルウェーの森 上・下」は発行された時に読んだ。いい小説だっただけに、そこ頃は!?H.M.の小説は素晴らしいと感じていた。だが、その期待が次の作品で残念になり、あまりいい印象がなく、というよりも、あまりにもダメダメだったことや、その原因を探り、いろいろな書評を読んだが、そこに弁護の余地はなかった。だから、H.M.さんからは離れた。恐らく小説をということになると、自分の中で、かなり遠くに置いている。が、「ノルウェーの森 上・下」は良かった。そして、20数年、映画になることを知った。あの頃読んだ「ノルウェーの森」の世界観が映像になる。松山ケンイチさんで。観たいと直感で感じたが、何分、H.M.さんは私の中で遠くに押しやっている存在だから、映画にもDVDも反応しないでいた。しかし、サインは水原希子さんという女優さんの存在です。そうかそうかそうか、緑は水原希子さんだったのか・・・と。変なスイッチが入る。20数年ぶりに屋根裏に仕舞い込んだ「ノルウェーの森」を出してこようかなと感じている。

 恐らく、この小説を遠くに押しやり、ずっと、手を出さなかった理由は、好きだ嫌いだというレベルを超えた、実は芯を「やられていた。」のだろう。そのトリガーが水原希子さんだという不思議な感覚です。

 人にはそれぞれ人生の物語がある。出会った人、別れた人、出会うことのない人、これから出会うであろう人。全て、必然であり偶然である。絵や映画や物語やマテリアル万象につき、全てに何かのサインがあると思う。自分の器量で精一杯否定し続けていたことが実は心が渇望していたことだったみたいな。そのトリガーとなりえるモノはパターン的になんだろうと考えると、「自分自身が考える自分という存在の対極に在るモノ」のような気がする。これ、意外とテンパンな普遍不燃な相対性の法則です。

自主性・熟達・目的か・・・。

 なるほどなるほど、21世紀型の強い動機づけは「自主性」と「熟達」と「目的」らしい。それはなんとなく理解できますね。実際、自分自身が何故デザインの仕事を選んだのか・・・と自問すると、何周か回ってそこに辿り着く。逆に、20世紀は「アメとムチ型」の動機付けが重宝されたらしい。システムの中でゴールが見えている状況では報酬型の動機が有効なんだけど、21世紀は逆にそれが仇になるとかならないとか。つまり、高い給料は目的にならず、莫大な富でさえ、時に争いの原因にしかならない的なアプローチだ。確かにそれらしいことが世界のそこかしこで起こっているからこれは小説より奇なりである。

 で、自主性・熟達・目的をどう噛み砕くか・・・?言葉にすればこれだですが、あなたの「ロウソク問題」はどちらのタイプ?ということらしいですね。

 人が何で動くか?自分はどんな理由でデザインという仕事にアートというジャンルに対峙すべきか?その答がこの三つのキーワードに内在している。システムの中の歯車が軋むのは油が足りないのではなく、中途半端な報酬が悪い作用を及ぼしているとかしていないとかっていうお話。

こんなタッチも。

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 これはサンプルイラストとして描いた作品です。ペンとカラーインクです。もっともっとこんな作品をいっぱい描きたいのですが、なかなか仕事に追われているとそういうテンションになれないなれない。でも、自分の作品づくりってそんな中でも時間を作って描かなければならいのだと思います。時間に余裕がある時に・・・ということを期待していたら、そんな時間など永遠に来ない・・・ぐらいの心意気がないとダメなんでしょうね。仕事を忙しくさせもらっているからこそ自分の世界も作品としてコンスタントに描けるというもの。イラストボードもキャンバスもその時をずっと待っているのですが、なかなか、そういう衝動が起こる隙がないのが辛い。でも、辛いから描くみたいなサイクルを今年こそはしっかり自分のスタイルにしていきたいと思っています。昔の作品を見ると「気合いが入っていたなぁ~」とか「安易に描いているなぁ~」とか「これはいい感じいい感じ」という自己評価をしながら、やはり、最近はガチで描いていないなぁ~となります。時間は作らないと・・・。

吉野家さんオリナルカップ!

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 吉野家さんのキャンペーングッズを本日頂きました。牛丼&豚丼7杯でこのカップですから、なかなか素晴らしいキャンペーンでしたね。こういうコツコツな感じがとても好き。これって、同じようなカップをお金を出して購入するのとまた違った価値感でオリジナルカップってもカワイイし、吉野家さんのスピリッツみたいなことも手元に残る素敵な素敵なアイテムですね。今日から仕事中のコーヒーはこれで。

クリエイターへの夢!?

 「「本当はデザイナー、クリエイターになりたかった」「芸術系の学科を卒業したけれど気付けば全然関係ない仕事に・・・」「クリエイティブな仕事って就職先が不安で・・・」ひとつでも当てはまる方、もう一度夢を追いかけてみませんか?」というテイのなんだかとても魅力的な文章を読むことが多い。例の資格取得サポートのあれでも、このテイ(アプローチ)はよく見る。でも、「本当は・・・」って、何故その道へ進まなかったのか?まず、それが一番大きな壁である。その判断の時に自分自身にどんなリミッターがあったのか、どんな種類のブレーキがそうさせなかったのか?それを家庭の事情でとか、タイミングがとか、先生のアドバイスで・・・などと外因的な要素で決断していたなら、恐らく、今回も難しいでしょう。だって、そいうテイのチラシやネットを見て「本当は・・・」って考えているのだから同じ。

 デザイナー・クリエーターになりたい!という自分自身の内側からのモチベーションがないのに、クリエーターにはなれないなれない。逆にアーティスト・クリエーターに本当はなりたかったのに、今は別の仕事をしている・・・って、その仕事はそんなに安易な仕事なのか?とならないか。では、何が軸なのか?迷いは当然誰にでもあるが、そこそこで折り合いを自分自身にどこかの人生のタイミングでつけた人は、それが癖になっている。慢性化しているはず。すると、同じ種類の決断の場面で、よほど腹を括るか、とてつもないグッドなタイミングに見舞われない限り、その癖(リッター)が機能・作用するはず。

 上記のような文章は心をくすぐる非常に有効な文脈だが、ガッツリと魂を揺さぶることはないが正しい。ボールを打つ気なら、グっと前へ踏み込まないと、カーブもフォークも打てないし、ストレートさえ打ち損じるだろ。体重移動ができているか?腰は鋭く捻れているか、両腕のしなやかさはあるか、迷いはないか?バットの芯に当たればボールは適正にフェンスを越えていくだろう。

PinkFloydカッコイイなぁ・・・。

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 この御歳でカッコイイなぁ・・・もう!

中国人の気質か・・・。

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 「中国と一口に言ってもとてつもなく広い。東北地方から海南島まで、沿海部から青海省、チベットまで、住んでる民族もちがえば、文化もちがう。顔がちがう、食物がちがう。「反日デモ」で大騒ぎする報道の向こう側で、どんな人が住み、どんな暮らしがあるのか。住んでいる地域別に人びとの気質を体験的に説いた、面白い中国人論。」と。確かに、ちょっとあるコンテンツ用に上海と蘇州をリサーチしてきたが、まだ全然感覚的に人間像が掴めない。日本で中国を読み物にする場合、どうしても、過去のことが著者の主観で捻じ曲げられているような印象を受ける文脈が多い。しかし、情報を介して中国人像を捉えようとするれば、書籍やネットから以外にあとはそこで暮らすしかない。それは難しいから、誰かが再編集した情報を頼りにするしか仕方ない。その情報からディテールからイメージを再構築しなければならないのですね。確かに広く31省というのは多様である。それぞれの気質などよくこの著者はリサーチしたものである。逆に日本人の気質を分類したらどうなるのだろう。地域別とか世代別とか、まぁ、中国ほどの多様性はないだろうが、そこそこ分類できそう。

 で、中国人の気質がどれぐらい日本人のライフスタイルと異なるのか?という視点でリサーチし始めたが、これは恐らく不可能だろう。だって、日本人のライフスタイルが分からない。何を平均値とするべきかなどまったく何をどう捉えれば・・・状態。なのに、中国人気質との比較など絶対に無理。だから、入手できる情報をひとつひとつ丁寧に自分なりに集めて構築するしかない。これが、どんな色になりどんなフォルムになるか、それこそ、神のみぞ。意外と創造(クリエイティブ)って最後の最後でそういうところありますね。こっちを振り向いてくれない後ろ姿美人みたいに。

 まぁ、このあたりの詳細は、今書き下ろしている自分の書籍用に温存しておこう・・・。

青い像!?

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 「思考を変えれば、一瞬で幸せになれる。 満足したり、幸福を感じたりするのは、頭の中の状態に左右される。あなたが何を考えるのかということが、健康や人生の充足感に決定的な影響を与えるのだ。
本書であなたを“思考の世界"へと誘うのは、ドイツでマインド・リーダーとして活躍するトルステン・ハーフェナーと、医師で健康のエキスパートであるミヒャエル・シュピッツバートだ。 医学博士による思考についての医学的な考察とマインド・リーダーの体験を組み合わせながら、思考を自由にするためのトリックやメソッドを紹介する。 シリーズ50万部突破『心を上手に透視する方法』の著者による、待望の最新刊。」という書籍。

 「思考の世界」とは?一足飛びにプロメテウスに乗って異星を訪ねるか、万象からのサインをひとつひとつ紐解くか、現存するブレインとビックデータからその答を導くか。いろいろアプローチがあるだろうが、ここまで捻じれた絡みあった思考の世界を誰かが紐解くということは恐らく不可能だろう。もっともっと高いところで最高の高さから俯瞰しなければその全体像を見ることはできないだろうし、マントルぎりぎりの深度までマリアナの深度まで深く潜ればDNAに書きこまれた思考の世界のスイッチが自動で起動するかもしれないですね。1Gで進化した生物だから、結論は常に1Gなのだろうと思います。地球の中心で愛を叫ぶなら364万気圧で5500℃で生命を維持する必要がある。

 さて、「青い像」とは?

NEW PC

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 とりあえずのセットアップ完了です。早い、早すぎる、確かに。感覚では操作している状態で動作が早過ぎて少しPCの方が作業の流れを追い越す感じです。まだ、何も作ってはいませんが、この感覚だと能率・効率は格段に上がっているようです。重いデータをレンダリングしてさて?というところでしょうけれど、確かに3~4倍の体感速度ですね。

 まぁ、この富士山をずっとデスクトップに配置することは色調の関係でないですが、デフォルトで富士山の写真が装備されていたので・・・という感じです。

 ここへ、いろいろソフトをセットアップしてニューマシンの完成という流れですね。

 それにこのIPSのモニターがキレイなのにもビックリです。ビデオカードもいいのを入れたので、現在、取り組みたいドキュメントは相当いい状態で取り組めそうです。いい買い物でした。

マイケル・サンデル氏

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 今日買った書籍に「5000人の白熱教室」というタイトルで紹介されていたマイケル・サンデル。恐ろしくいろいろなことを知らないので、こんなことも知らないというテイでひらきなおり、直感で単純でシンプルな興味が湧いた。恐ろくだから、何の情報もない。ハーバード大学の教授であること以外は。情報に対峙する姿勢はこの直感が大切。誰でも入手可能な情報がネットの地層には295エクサバイト蠢いているらしいじゃん。この鉱脈はさて?

PREDATOR到着!

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 本日入荷!Wさんありがとうございました。これで頑張ってさらに仕事の品質を引き上げていきたいと思います。このスペックを使いこなせるように、さぁ!スタートです。この気持ち何回経験しても心地良いですね。

社会とどう関わりたい・・・か。

 高校2年生の娘がこんなテストの資料を持っていた。「小論文実戦テスト」。その中にはいろいろなカテゴリーと解答形式があり、それぞれの分野での問題が全15問。第1問目はこんな感じです。「あなたは仕事を通して、社会とどう関わりたいと考えているか。縦書き800文字以内で述べなさい。」となっている。

 さて、自分自身が高校2年生の時、この問題を目の当たりした時どんな解答をひねり出しただろう。恐らく何も出てこなかっただろう。いろいろ考えていることはあったが、「社会との関わり?」なんだろう?ぐらいから始まり、落とし所はたぶん「美術」のことだっただろう。

 私は硬式野球をしているが美術に興味がある。野球を始める前から絵画については興味があり、子ども心に野球をしている時と絵を描いている時を比較したら、野球などのスポーツよりも、白い紙に向かっていたいと考えている子どもだったからである。結果、何故、絵が好きになったからよりも、絵に関連する大人との接点の中に社会という存在を意識することが楽しく思えたからだろう。勉強はさて置き、野球と絵という選択肢を社会というフィールドに適用したら、というより、野球と絵を通して社会生活を見ることでしか、考え方の道筋を構築できなかったが正しいかもしれない。そこで、絵を通して社会を見ると~ってな具合のなんとも高校生らしい論文になっただろう。

 で、現在、そのテイストはどうなったか?恐らく、ベクトルは同じである。そして、どう関わってきたか?これからどう関わっていきたいか?についても、全くぶれることはないという確証はある。これがいいのか悪いのかについては誰かのモノサシでは絵空事だが、誰かの基準ではリアルなのだろう。しかし、この「小論文」というテストはいろいろなことが判断できるいいテストだと思う。娘は違うテーマで小論文を書いたらしいが、楽しんだのだろうか?素直にアウトプットしたのだろうか?ちょっとななめに考察しのだろうか?とても興味がある。

 社会とどう関わりたいか・・・か。たかがとされどの間の谷が意外と深い。

根拠のない自信。

 何事もではないかもしれないが、大きな潮流や長年のセオリー上で物事を発想・着想すると複製物のように同じサイズのドングリになる。飛び抜けることも控え過ぎるとそれがスタイルになってしまうから危険信号である。さりとてなかなか飛び出せる勇気は何か大きな根拠や背景や要因がなければ・・・と考えがちだし、熟考することで無駄な肉をそぎ落とすことができれば、それは理想のように思えるが、必要な筋肉をダイエットしてカロリーの計算上のベストコンディションが必すしもモノゴトのベストではないと知る人は少ない。何を言いたいかと言えば、別段、結論を出したいという訳ではないし、結論が継続性を持っているという側面を知れば知るほど結論とは次の結論までのマイルストーンであると知る。

 さて、企画をすることに根拠を求めると、これだけ情報過多になった時代、ビックデータの中には、ありとあらゆる根拠が蠢いている。無作為にどれを引き抜いても恐らくそれは根拠として自立していることである可能性が高い。これを逆算すれば、アタリと適正な根拠の違いこそが情報の質量・品質を左右するという仮説がたつ。なぜ、そのような仮説が必要か、検証するためだけの仮説なら必要ないが、原因と結果の法則、代謝と複製の方程式に何を代入するかが一番のキモ。簡単に根拠というレシピからセオリー通りに創られた創造物に人間のDNAが反応するとは考えにくい。脳幹と感覚との関係は従来無根拠であったはず。求め過ぎた結果、同じベクトルに収束され、労が報われないことだけは回避したい。が、根拠のなかっただけに何がどうなるか不安は常につきまとう。想定内の達成感に美味い酒を飲む人生か、想定外の連鎖に苦汁をなめる人生かと、極論を突き付けらたら、自分自身はどちらをチョイスする?

 で、こんなことを考えている段階で、そっち側ではないことは分かっている。どこが分岐点だったかはもう知る術はないが、このまま根拠のない自信といい関係でいられれば、自分の行きたい場所に行けると信じるしかない。同じところ(例の場所)へ行かないためにも、自分の中にある根拠を疑い続けていきたいものです。

 自信とはそもそも根拠がない・・・という設計図でもいいかもしれない。

表現の自由。

 思わず「いいね!」でコメントをしてしまったつぶやきがあった。これだこれだ!ずっとモヤモヤしていた気持ちがシャキンとなる瞬間。これはかなりロングテールになりそうだ。美術でもデザインでも文学でもメディアでもインターネットでもそんじょそこいらの会議の場でも、どこか違和感を感じることってありますよね。それが何か分からないまま過ごしているとその感覚が退化する。勿論、何事も郷に従うことはある側面では大切だし、コミュニケーションする上で、規範や法律やタブーを意識しなければただの暴れん坊の無頓着野郎になる。空気を読むって読み過ぎて酸欠状態になっているような世界って、実は、今、この現代のことかなとガツンとなった。そうだそうだそうなんだ。まさに、「タブーを意識し過ぎて表現力が乏しい」ことを棚に上げて、いわゆる品行方正な発言・表現・行動で何かを成そうとするから閉塞感が漂っているんだ。それって正に今の日本じゃん!さおりさんさすがです。これは、ちょっと、根が深いので、これきっかけにいろいろ洞察の畑を掘り起こそう。そうなんだそうなんだ、SNSもゲームもコンテンツも何か物足りないいんだ!それは何かフォーカスできなかったが、さおりさんのつぶやきでピントが合った感覚です。表現力のリミッターが強すぎるんだ!だから、感受性が退化するんだ!

どこの国だろう?

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 イメージナビさんからの「著作権フリー写真素材」の販促メルマガが到着した。で、なんとなくこの写真が気になった。いったいこれはどこの国だろう?WEB版サイズで購入したら¥5,250という設定です。この写真ならこれぐらいの値段は適正です。しかし、どこの国だろう?とても気になる。

 というか、正確には「何故?気になるんだろう」普通にスルーできなくない写真のようですが、どこか気になる。これが逆に気にならない写真を見ても「何故?気にならないのか」と考える。でも、この段階で、「気にならない」と感じていても、実際は気になっているということ。「日本を取り戻す!」みたいな安直なポスターを見て残念になる気持ちと、この「気にならない」とは大きく異なる。では、気にならなないと気にしたくない絵が存在することになり、これは肯定?これは否定?あれ、いつどの段階で気にならないが気になるになり、否定になったのか?このプロセスも曖昧模糊なのが実は人間。

 どんなことでも、忘れる対象になり、飽きる対象になり、嫌いになる可能性を秘めつつ、覚えていること、飽きていないことと、好きなことで個性が成立している。個性的とはそういう基準だから、デザインの仕事はこれらを包括しつつ、主観と客観のパラレルな関係をしっかり並走する必要があるように思う。これは比較的どの書籍にもない仮説であり、属性は同じでも系統を変えている仮説です。

 たかが、「どこの国だろう?」程度の一枚の写真から人間は小説(物語)を創造するわけだから、いやいや、大したものである。国境の長いトンネルを抜けると雪国だった・・・なのである、。

ずる。

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 「『予想どおりに不合理』著者最新作 ◎ばれる確率が低くなっても、ごまかしは増えない? ◎共同で仕事をすると、不正が増える? ◎偽ブランドを身につけると、ずるしやすくなる? たいていの人は、不正をするのは一握りの極悪人だけで、自分は正直者だと思っている。しかし本当は、だれもがちょっとした「ずる」をしたり、嘘をついたりする。そしてその小さなごまかしが大きな不正につながることも。だったら、そのしくみを解明して、不正を減らす方法を探すべきなのでは? この難問に行動経済学研究の第一人者ダン・アリエリー教授がとりくんで、不正にまつわる一見意外なさまざまな事実を見出した。たとえば、創造性の高い人ほどずるしやすいし、不正請求は書類の署名の位置を変えるだけで減らすことができるのだ。」という紹介文がアマゾンには掲載されている。

 創造力の高い人ほとずる賢いとは!?なんとも素敵な切り口だろう。素敵と言ってしまうと語弊があるだろうが、この視点を行動経済学的にどう分析・洞察するのだろう?なかなかそういう意味で素敵な書籍だと思います。

 そもそも「不正」ってどのレベルまで不正か?ある人の不正がある人には正だったり、ある国の不正はある国では正だということは世の中誰でも知っている。全て白と黒の人間に分けようというルールでもできた日には、もしかして、地球上の人類がいなくなるかも・・・?そんな極端なことはないだろうが、清廉潔白抗菌人間はいない。いないから「不正」も存在し続ける。と、想像しながら、ずるい仮説が頭に浮かぶ。

 つまり、自分のモラルや規範をしっかりもっている人ほど、世の中の慣習がルールや社会の方程式に限界を感じて「ずる」をするのだろうか?「ずる」の本質はある国では白でもある国では黒ってことになるだろうから、混色することがなければどうなる・・・っても、どうにもならないから「ずる」なんだろう。

 ということでここまで気になれば、アマゾンでtakeするしかない。

 厳格厳重品行方正頑強無敵のシステムでさえ、セキュリティー上の情報漏れは80%以上が「人為的」なのだから・・・。根を掘り葉を掘れば100%は人為的かもしれない。すると、いかにシステムのセキュリティーが優秀か知ることになるわけですが、それを開発したのも人為だしと、どこまでも「ずるい」分析は止まらない。あっ!そうかそうか!ということは、僕はずるい人間なんだ!ということか???

絶えずThirsty...

「ないものねだり、それでいいじゃん!」か。

確かに、芯を喰っているメッセージ。

自分の世界を変える。そんなに簡単じゃない。

言語、非言語、
何をどうしようとも、ないものねだりかもしれない。

コミュニケーションの大切さ、コミュニケーションの無効化、
コミュニケーションの構造と性能。

誰も多かれ少なかれこの壁に対峙するエネルギーの大きさに疲れている。

でもここを怠ると弱い孤立に陥ると知っているから、
強い孤立を期待しながら、自己との共有に試行錯誤する。

絶えず枯渇な感じが埃のように払ってもまとわりつくように、
それとつきあう術を持っているかいないか。

深い洞察が浅い見聞が辛い時は自分を確認することが大切なんでしょうね。

どこのレンジが一番心地いいかを。

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 今日は朝から頭が痛くてモニターを見るのが辛いので絵を描きました。銅版画をやりたい。

中毒にご注意か・・・。

「facebookは最初の踏ん張りがとても大切です。

その踏ん張りどころで力を抜くと、継続できないです。

ただ、ある一定のfacebook友達が増えると、

「いいね!」や「メッセージ」を貰うのがうれしくなり、
簡単に継続できると思います。

しかしご注意いただきたいのは、「facebook中毒」です。

facebook中毒とは、以下のような傾向のようです。
(「gooリサーチ」調べ)

1位:投稿してすぐに「いいね!」が付くかどうかを気にしている
2位:出先でもすぐに携帯から確認してしまう
3位:投稿した後周りからのリアクションがないと悲しくなる
4位:遊びに出かけた際に「いいね!」が付きそうな写真を撮ろうと頑張る
5位:気になる人のページを常にチェックしている

ドキッとした方いませんか?」


 というメルマガ到着した。結局、これだけ注目されている旬なツールだから貴方の活用術次第でプライベイトでもビジネスの現場でも活用しなければ・・・という啓蒙の書である。さて、この短い文脈の中にいくつ真価が潜んでいるだろう。この文脈を書き出した人のポテンシャルはどこが軸だ?それで、このボキャブラリーはパラレルにはどう解釈するべきか?で、真理・真価は?文節を分解するとういことは、壁に貼ったピンを糸で繋ぐような作業だとある作家が言っていたし、言語の仕組みは文化そのものだから、設計図として俯瞰するとあらゆる相関関係が見えて来るらしい。時に立体的に時にレイヤーを設定して文章を分解して設計図にレシピ状態にリバースすると真価が見えてくるらしい。

 で、どこにフォーカスするかとなると、恐らく「ある一定のfacebook友達」の部分だろう。これが、このライターの言いたいことである。例えば「中毒」の定義・語感をどう想定するかなんて不可能だし、まして「ドキッと」などどうにでもなる。だから、「ある一定のfacebook友達」からこの文脈を分解すると、これ以外の物語が見えてくるとか見えてこないとか。

 さてさて、「ある一定のfacebook友達」は何だ?文字通りのこと以上・以下でもないだろうが、そもそも、「いいね!」とは「like」だそうがだが、「好き」と翻訳すると「いいね!」ではなくなる。そもそもこの小さな誤差が「ある一定のfacebook友達」にまでになると、想像以上の格差になっているはず。このことを、世俗的に科学的にデジタルコンテンツ的に洞察・分析すると、さて、これがどうビジネスツールになるのか・・・となってしまわないか?しかし、そんなことは時代の旬、四の五の言わず活用しながら考えればいいと1500万人が活用しているらしい。

 ここの部分を指して「中毒にご注意ください。」が適正のような気がします。毒か薬か?タッチパネルで何をどう匙加減すれば適正な処方箋が見つかるのだろう?実に実に不思議なコミュニケーションルートです。100年後、このビックデータを小学生達は閲覧して文明開化のビープ音を聞くことだろう。

何故ヒーローは戦うのか?

 ふと、そんなことを考えてしまった。設定上の「悪」をこらしめるために弱い者に変わって戦うのがヒーローだったが、これは古今東西永遠の設定だろう。でも、戦わなければならない設定だから戦うが、ヒーローも実は悪者を傷つけたりすることは不本意だったはず。苦しみながら苦渋の決断の末に世の中の規範に対してそれを破るからこらしめられるということ。本当に悪いことは悪いことなのか?これは簡単な決断ではない。ビルを壊す怪獣でさえ破壊する理由があったはず。人間が中心の世界が大前提だから、その生命を脅かせば、言葉が通じない相手に武力で攻撃をするのがヒーロー。

 戦国時代、江戸時代、サムライは刀を持っていた。そして、攻撃する相手に対して、その刀で切り込み命を奪っていた。それが社会の規範として成立していた時代である。お互いの領土を守るため、民を守るため、家族を守るため、敵を弓やで火で槍で殺す・・・が成立していた時代を、どうも美化している物語が好きになれない。戦国時代のヒーローをゲームプログラムに代入して仮想の中で殺した殺されたにアドレナリンを高める世代の価値感ってさて、生産的な意義があるのか?ブロックを崩せた崩せなかったレベルなら、愛嬌のある主人公がキノコを食べて大きくなったどこか下の方へ落ちていったレベルなら、深く追求する必要もないし、それが楽しいとも思えないということでスルーすればいいが、ヒーローが登場する設定でそこがどうも五臓六腑に落ちない。輪をそれでもかけるなら、「アルジェリア」のゲームを作成すればいいがそれはタブーで棚に上げるデベロッパー。

 また、恋愛ゲームだの人生ゲームだのその手法は巧みというか荒唐無稽だが、それが全て「刺激」という言葉で可決するのはいかなものか。「ゲーム文化」はデベロッパーにとって大きな市場だから、そこをそんな風に否定されれば、無味乾燥な世界になるかもしれないが。

 で、「善と悪」の歴史を上手く立ちまわってきたヒーローが不在になると、それはそれで、不思議な空洞化が起こるだろう。糸の切れたカイトのように風に吹かれるままに経済や文化や教育がどこかへ消えてしまより、このジレンマをかかえつつ、切ったの切られたのを繰り返していれば、均整が維持できるなら、仮想でも現実でも、ヒーローはずっとそのポテンシャルで戦う世界が便宜上の「平和」なのかもしれないと・・・「サイボーグ009」のDVDをチェックしながら感じた。

 海外では「疑似政府」をデベロッパー達がコード化しアプリ化してデバイスを介して市民は政治にできないことをひとつひとつ地域単位で取り組んでいる。さて、日本の地域は何をしている?台風の眼から吹きだす風に応戦一方であり、五右衛門がばらまく小判に一喜一憂しているだけのような気がするぞ。コードが何を変えられるかあまりにも未知数だが、片手落ちのヒーローを中途半端な設定でゾンビ相手みたいなヒーローで満足するのではなく、ホントのヒーローは自分自身だとチャンネルを切り替えれば、コードに対する、デバイスに対する、コンテンツに対する正しい姿勢が維持できるのではないかな。

カトマンズ。

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 世界遺産カトマンズの風景。この地に脈々と流れる信仰へのベクトルは依存とか義務とか期待とかという言葉では軽過ぎるとても質量のある実態のようだ。この街に暮らす人の生活・人生・価値感が全て崇高な信仰の上に成立していると。さて、こう聞くと何か人間の存在が信仰で束縛されているようなニュアンスになるが、決してそうではない。この街に暮らす仏像を彫り続けている職人は、木の固まりに自らの宗教観や芸術に対するイメージを木槌とシンプルなのみで具象化していく。その創作を始めてから恐らくその命尽きるまで彼はこの街で自らのイメージを木から創造する。そこに一滴の淀みもジレンマも迷いもない。う~ん、何故だ?

 いや、すでに「何故だ?」さえ、存在していない純粋な創造があるようだ。彼の作品は街にある寺院中に建造物の一部として組み込まれることが目的あったり、芸術価値として世界からバイヤーの依頼があとを絶たない。うん、これこそが創造の本来の姿だと痛感した。彼は寺院や海外のバイヤーのために作品を創り続けているが、自分自身の感覚でいい出来だった場合は、どんなに高い売値が付いたとしても、手放すことなく、自分の部屋に飾るんだと言う。この至高の青天井さは何だろう?高い、あまりも高いスキルと大きなテーマを彼はたった一本ののみで木に刻む。世界遺産カトマンズ、素晴らしい。

 その街からは当然、エベレストが見える。神の棲む山か・・・。

 さて、日本はどうか?最近、テレビや雑誌に「富士山」の写真をよく見る。これだけデジタル化が浸透した社会でさえ、人間の本能は「山」をリスペクトし、「海」に安らぎを感じるのか。富士山、琵琶湖が世界遺産になるならないは別の次元としても、本来の信仰が希薄なれば街は人は衰退するということなのか。デジタルコンテンツの中に神の存在が融合するとは思えないが、どこかでその作業に取り組まねば衰退はやがてやってくるのかもしれない。

 さて、木槌は持っているのか?のみは持っているのか?クリエーターはそれぞれのイメージを持っているのか?カトマンズに行けば自分自身のポテンシャルを確認することはできるのだろうか?

 どうも、「プロメテウス」を観て、「カトマンズ」の風景を観て、クリス・アンダーソンの書籍を読んでいると、何故がどこまもその触手を無尽蔵に伸びていく感覚である。大きなテーマである。そして、人類の最終的なテーマだろうと思う。

オーバースペック!?

 パソコン本体(OS:Windows7「Acer Predator G AG3600シリーズ」 ◎CPU:Core i7 i7-3770 3.4GHz ◎Memory:16GB ◎HDD:1TB ◎Blu-Ray Drive BD-R/RE(書き込みソフト付) ◎Video Card:NVIDIA GeForce GTX 660 ◎モニタ:LG 23型ワイド IPSパネル IPS23)がやってくる。このスペックを早く体感したものです。この(今使っているメインマシン)パソコンをほぼ3年使ったが、ススメて頂いた方の言葉を借りると比較すると「格段の体感スピード」らしい。ちょっと、オーバースペックかもしれないですね・・・って、そんな・・・。いずれにしても楽しみなプラットフォームです。楽しみ楽しみ。

 しかし、これだけのスペックが・・・という部分なのですが、3年前よりも結果購入価格は安くなっているのです。えっ!そうなんですか・・・という価格だったのですが、こういうパソコン機器の市場は改めてそうんなんだという感覚でした。どんどん高性能なPCが安くなるというとは、何を意味しているのか?ネット回線が早くなり端末・デバイスが多様化し、デジタルの潮流はどこまで行くのだろう?映像制作についてもかなりこのマシンへの期待度は高く、ブルーレイのドライバをカスタマイズしましたし、ということは、必然的に1920pxの映像を作成できることになり、十数万円のパソコンでかなりの標高まで辿りつこうと思えば、あとは創り手のポテンシャル次第ということ。ありがたい嬉しい反面、誰しもコンテンツビジネスに触手を伸ばせる時代だということ。つまり、この市場での競争率が激化するということ。

 未だにグラフィックデザイナーやWEBデザイナーはMACに固執ているということも聞きますが、それも王道だろうし、道具なんだから、安くて高性能であればPCは何でもいいかな・・・も王道だと思います。まぁ、最終的には「何をあなたは創れますか?」でこのモンスターを活かすも殺すも状態なんだろう。そう考えると、豚に真珠にならぬようガツガツ使っていこうと思っています。逆にこの鼓舞する部分でオーバースペックぐらいがちょうどいいのかも・・・。3年後には「3年前は凄いと感じたが、ちょっと今ではものたりないな・・・」ぐらいのところまで辿り着いていたいものです。