カトマンズ。

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 世界遺産カトマンズの風景。この地に脈々と流れる信仰へのベクトルは依存とか義務とか期待とかという言葉では軽過ぎるとても質量のある実態のようだ。この街に暮らす人の生活・人生・価値感が全て崇高な信仰の上に成立していると。さて、こう聞くと何か人間の存在が信仰で束縛されているようなニュアンスになるが、決してそうではない。この街に暮らす仏像を彫り続けている職人は、木の固まりに自らの宗教観や芸術に対するイメージを木槌とシンプルなのみで具象化していく。その創作を始めてから恐らくその命尽きるまで彼はこの街で自らのイメージを木から創造する。そこに一滴の淀みもジレンマも迷いもない。う~ん、何故だ?

 いや、すでに「何故だ?」さえ、存在していない純粋な創造があるようだ。彼の作品は街にある寺院中に建造物の一部として組み込まれることが目的あったり、芸術価値として世界からバイヤーの依頼があとを絶たない。うん、これこそが創造の本来の姿だと痛感した。彼は寺院や海外のバイヤーのために作品を創り続けているが、自分自身の感覚でいい出来だった場合は、どんなに高い売値が付いたとしても、手放すことなく、自分の部屋に飾るんだと言う。この至高の青天井さは何だろう?高い、あまりも高いスキルと大きなテーマを彼はたった一本ののみで木に刻む。世界遺産カトマンズ、素晴らしい。

 その街からは当然、エベレストが見える。神の棲む山か・・・。

 さて、日本はどうか?最近、テレビや雑誌に「富士山」の写真をよく見る。これだけデジタル化が浸透した社会でさえ、人間の本能は「山」をリスペクトし、「海」に安らぎを感じるのか。富士山、琵琶湖が世界遺産になるならないは別の次元としても、本来の信仰が希薄なれば街は人は衰退するということなのか。デジタルコンテンツの中に神の存在が融合するとは思えないが、どこかでその作業に取り組まねば衰退はやがてやってくるのかもしれない。

 さて、木槌は持っているのか?のみは持っているのか?クリエーターはそれぞれのイメージを持っているのか?カトマンズに行けば自分自身のポテンシャルを確認することはできるのだろうか?

 どうも、「プロメテウス」を観て、「カトマンズ」の風景を観て、クリス・アンダーソンの書籍を読んでいると、何故がどこまもその触手を無尽蔵に伸びていく感覚である。大きなテーマである。そして、人類の最終的なテーマだろうと思う。