何故ヒーローは戦うのか?

 ふと、そんなことを考えてしまった。設定上の「悪」をこらしめるために弱い者に変わって戦うのがヒーローだったが、これは古今東西永遠の設定だろう。でも、戦わなければならない設定だから戦うが、ヒーローも実は悪者を傷つけたりすることは不本意だったはず。苦しみながら苦渋の決断の末に世の中の規範に対してそれを破るからこらしめられるということ。本当に悪いことは悪いことなのか?これは簡単な決断ではない。ビルを壊す怪獣でさえ破壊する理由があったはず。人間が中心の世界が大前提だから、その生命を脅かせば、言葉が通じない相手に武力で攻撃をするのがヒーロー。

 戦国時代、江戸時代、サムライは刀を持っていた。そして、攻撃する相手に対して、その刀で切り込み命を奪っていた。それが社会の規範として成立していた時代である。お互いの領土を守るため、民を守るため、家族を守るため、敵を弓やで火で槍で殺す・・・が成立していた時代を、どうも美化している物語が好きになれない。戦国時代のヒーローをゲームプログラムに代入して仮想の中で殺した殺されたにアドレナリンを高める世代の価値感ってさて、生産的な意義があるのか?ブロックを崩せた崩せなかったレベルなら、愛嬌のある主人公がキノコを食べて大きくなったどこか下の方へ落ちていったレベルなら、深く追求する必要もないし、それが楽しいとも思えないということでスルーすればいいが、ヒーローが登場する設定でそこがどうも五臓六腑に落ちない。輪をそれでもかけるなら、「アルジェリア」のゲームを作成すればいいがそれはタブーで棚に上げるデベロッパー。

 また、恋愛ゲームだの人生ゲームだのその手法は巧みというか荒唐無稽だが、それが全て「刺激」という言葉で可決するのはいかなものか。「ゲーム文化」はデベロッパーにとって大きな市場だから、そこをそんな風に否定されれば、無味乾燥な世界になるかもしれないが。

 で、「善と悪」の歴史を上手く立ちまわってきたヒーローが不在になると、それはそれで、不思議な空洞化が起こるだろう。糸の切れたカイトのように風に吹かれるままに経済や文化や教育がどこかへ消えてしまより、このジレンマをかかえつつ、切ったの切られたのを繰り返していれば、均整が維持できるなら、仮想でも現実でも、ヒーローはずっとそのポテンシャルで戦う世界が便宜上の「平和」なのかもしれないと・・・「サイボーグ009」のDVDをチェックしながら感じた。

 海外では「疑似政府」をデベロッパー達がコード化しアプリ化してデバイスを介して市民は政治にできないことをひとつひとつ地域単位で取り組んでいる。さて、日本の地域は何をしている?台風の眼から吹きだす風に応戦一方であり、五右衛門がばらまく小判に一喜一憂しているだけのような気がするぞ。コードが何を変えられるかあまりにも未知数だが、片手落ちのヒーローを中途半端な設定でゾンビ相手みたいなヒーローで満足するのではなく、ホントのヒーローは自分自身だとチャンネルを切り替えれば、コードに対する、デバイスに対する、コンテンツに対する正しい姿勢が維持できるのではないかな。