存在感。

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 ふと気が付けば、13日からブログを書いていなかった。ネタが思いつかないわけでもなく、ブログがメンドクサイことになった訳でもない。ただ、他にやらなければいけないこと、考えなければならないことがあり、いわゆる、忙しかった。これはいいことなのかもしれないのかな・・・とブログにまつわる不思議なモチベーションに昨晩ふと気がついた。ほとんど純粋にただの「WEB-LOG」なので、誰がどのように何を感じるかはあまり気にせずライトダウンしているのが、ふと3日間ほどブランクになると、逆にブログを意識している自分がいました。それほど「便利」というか「依存」というか「頼り」にしているんだなぁ~と。

 で、「ノルウェーの森 上・下」は発行された時に読んだ。いい小説だっただけに、そこ頃は!?H.M.の小説は素晴らしいと感じていた。だが、その期待が次の作品で残念になり、あまりいい印象がなく、というよりも、あまりにもダメダメだったことや、その原因を探り、いろいろな書評を読んだが、そこに弁護の余地はなかった。だから、H.M.さんからは離れた。恐らく小説をということになると、自分の中で、かなり遠くに置いている。が、「ノルウェーの森 上・下」は良かった。そして、20数年、映画になることを知った。あの頃読んだ「ノルウェーの森」の世界観が映像になる。松山ケンイチさんで。観たいと直感で感じたが、何分、H.M.さんは私の中で遠くに押しやっている存在だから、映画にもDVDも反応しないでいた。しかし、サインは水原希子さんという女優さんの存在です。そうかそうかそうか、緑は水原希子さんだったのか・・・と。変なスイッチが入る。20数年ぶりに屋根裏に仕舞い込んだ「ノルウェーの森」を出してこようかなと感じている。

 恐らく、この小説を遠くに押しやり、ずっと、手を出さなかった理由は、好きだ嫌いだというレベルを超えた、実は芯を「やられていた。」のだろう。そのトリガーが水原希子さんだという不思議な感覚です。

 人にはそれぞれ人生の物語がある。出会った人、別れた人、出会うことのない人、これから出会うであろう人。全て、必然であり偶然である。絵や映画や物語やマテリアル万象につき、全てに何かのサインがあると思う。自分の器量で精一杯否定し続けていたことが実は心が渇望していたことだったみたいな。そのトリガーとなりえるモノはパターン的になんだろうと考えると、「自分自身が考える自分という存在の対極に在るモノ」のような気がする。これ、意外とテンパンな普遍不燃な相対性の法則です。