火の中の栗。

 やっかいな人はいる。やっかいな存在は在る。やっかいな心の衝動は誰でもあるだろう。誰もが「嫌がる仕事」の中に宝石が眠っていると言われても、なかなか、箍を外し先入観をクリアにしてそれを拾う勇気は相当のエネルギーが必要だと思う。癖は癖に反応し、否定は否定を生む。あれに見えるのが宝石の原石だから、やけどをするかもしれないが手を伸ばそうと、人類の最初の勇気ある先祖が人類の現在を開拓してくれたんだと大きく捉えると、日々の小さい「やっかいなこと」はすでにDNAのレシピの中の想定内であるはず。まぁ、一昨日のような隕石が落ちてきた場合は講じる手はないが。

 時にあえて損だと思われる役回りに身をゆだねることで大きなこれまでののびしろを大きく超えることができるのかもしれない。火の中で焼けている美味しそうな「栗」を拾うのか拾わないのか?火の中で香ばしい香りを漂わせていることを確認しても、美味しい栗を勇気を出して拾ったつもりが、犬のウンコだったってことにならぬよう、見極める、というか、自分自身は今、その栗が必要か必要でないかをいい状態で判断できる心地でいたいと思う。それは判断力であったり洞察力・分析力・観察力の類だろうが、常に手を出さない理由は生きていればいくつか手の中にあるはず。それを否定する勇気はキラメク宝石を目視しても絞り出すは難しい。

 宝石とはガラスケースの中でキラキラしているから価値があるのかもしれないし、手にした瞬間ただの小さな石になる可能性はある。また、勇気を出して伸ばした触手が違うモノを掴んでも、それは、次ののびしろの設計図かもしれない。自分のカルテは自分で書こう的な衝動がブログかもしれないし、自己治癒の処方箋がアウトプットした文脈の中に書き記しているかもしれないし。

 入れるためには出さないと・・・みたいなことなのかもしれない。