いい子とは?

 時代と共に「いい子」の定義が変容している。今も昔も変わらず「いい子」はいい子だろうが、社会の構造や経済の仕組み、教育や文化の変化した側面を社会的に捉えると、そこに存在する規範に対しての「いい」が社会構造にリフレクトしてチューニングされている。だから、当然、その影響を受ける「いい子」はいい子でその対応を本能で感じ取り、自分自身が「いい子」であることに努力するから。これが社会が担う大きな責任でもあり、学校教育の在り方と経済の構造を相関させるひとつのラインになっているはず。いつの時代も「いい子」と「いい先生」の関係は存在していただろうし、学校教育の中で、システムや構造から離脱する子どももいた。その場面その場面で適正な判断を先生がしているのだろと考えたいが、先生とて人の子、万能ではないから、自分のテリトリーでキャパはMAXだろう。でも、教育者への社会からの依存はどんどん時代と共に大きくなり、その重圧というかタスクを果たして現場の先生方はどこを受け止めどこをいなしているのだろう。理想的な教育者像はこうであるべきだと、現実、職業としての教師というスタンスの間にどんな深い谷があるのだろう。その谷にかけられた吊り橋の上で子どもたちが右往左往しないように、両方の崖で親は見守るしかないのだろう。

 学校で「いい子」が、家で「いい子」が実は心に深い闇をかかえていたというニュースをよく見るにつけ、そのSOSを何故受け止めることができなかったのか的な結果論が蔓延しているが、そこを掘っても結局骨しか出てこない。私達は真剣に問題に対峙しています・・・ということが伝えたいのなら、もっと、別のボキャブラリーがあってもいいのかなと思う。「いい先生像」「いい教育像」を追いかけ過ぎて、等身大のリアルを黙認してはいないかと・・・。この考え方は教育の現場にいない無責任が親ならではの発言に他ならないが、親は何をすればいいか?という自問自答があり、自ら苦汁の決断をした「いい子」がこの考えを親に伝える術を持たなかったという悲劇だけはなんとしても回避しなければいけない。教育は学校だけでは成立しないのだから。学校に先生に何ができるのか?というテーマは厚い教育委員会の資料には記述できないはずだし、それぞれの子ども気持ちをビックデータにログれるアプリもまだ開発されていないのだから、そこは、それぞれの立場で人間が自分で考えて悪い信号を中和するようなアルゴリズムをアウトプットしなければならないのだろう。

 で、私自身は結局、「いい子」だったのか?と回帰しても、それを推し量る計測機器はない。だから、「いい子」「悪い子」「普通の子」とカテゴライズすることなく、子どもを一人の人間としてリスペクトして、補足・育成・誘導するではなく、いつもONE TO ONEの関係で親も子から学ぶ姿勢でいたいと私は考えている。

 地元の中学に入学した初日、教室の黒板の上に掲示してあった文字を今でも克明に覚えている。この言葉がこの歳になっても目に焼き付いているということが、実は、教育が担える唯一の美学なのかもしれないと思う。あの長期間、あの空間で同年代の子どもと過ごしてきたのに、教科書の中身などさほど社会に出て伸びしろはなかった。学校の頃の友人でさえ、価値感の相違で疎遠になっているケースが多い。結局、どこへ行っても人間はONE TO ONEなのだ。だから、こそ、その教室に貼ってあった言葉が意味を意義を成す。社会に出ると何が始まりで何が終わりかは自分で制御する必要があるが、とある新しい世界にダイブする時の気持ちこそが実は最も大切な重要な軸なのだと。

 「初志貫徹」。なかなか質量のある言葉である。T.K.先生、お元気かな?