直線的な思考パターン。

 ロジックの組立方が直線的だと大人数で共有する組織にはとても有効なのですが、実際、何かを起案して予算化して実動するまでの起案からアクションまでには複合的で多面的な要素が交錯することが多い。意思統一を重んじるばかりに議論が直線的になる傾向があるように思います。実際、時間軸に議題を並べて是非を問う会議が一般的であり、起案する際のプレゼンテーションについても同様で、起案理由や背景や具体的な効果と予算の効率からプロジェクトのディテールなど理解を得るためにのストーリー作成は直線的であるべきだ・・・という空気がどこでもセオリー。しかし、実際の現場は多面的であり複合的な要素が複雑に絡み合う事が多く、優先順位をつけるにしても、どの価値を優先するか、どの意見を重要視するかで議論が炎上する。それを本題に対する建設的で創造的なヒートアップと勘違いするとまともな結論が出ないことがしばしば。日本はまだ炎上ありきの文化・慣習ではないから、スムーズな組織がまかり通り経済大国という称号を手にしたかに見えたが、それも、結果、多面的な意味で泡だったという悲劇。でも、それに懲りず基本的な洞察・分析・仮説立てのポテンシャルは同じ。何か目的を設定したら必ずフィッシュボーンに頭から尾に向かう時間の活用術が一般的なんだと思います。そんな会議の場でそんな空気を読まず異論を発しようなものなら、失笑を買うばかり。その意見にタイマンを張る勇気の欠如からか、ポテンシャルの低さからか、逆転の発想からか、その空気は失笑のフェードアウトで意見もフェードアウトするという不思議なムラ文化。それは国家がそういう構造になっているからか、国家を形成する個体がそのタイプのカスタムから覚醒できないからなのか、理由も多面的だろうが、結果、直線的に是非を問い、多数決で出された結論を飲みこむ体質が常。

 で、クリティカル・シンキングというフレーズがある。これは、否定的だ!とする語感にパブリックでは浸透していなような風潮があり、この手法を導入する場合の条件があるように思う。ただの「論理的で構造的に考えること。」なのだが、それすらアレルギーを持って錠剤片手の会議になる始末。ただ、論理的であればどうなんだ、構造的であればどうなんだという逆説も確かにあるが、それさえも俯瞰で捉えなければ出せる結論も直線的議論と同じ。論理とは何か、モラルだとも言えるし、知恵・知識だとも、スキルだとも言えるこの論理でつばぜり合いをするには何が必要ということ。

 私達は学校の頃から黒板を見て思考している。社会に出ればホワイトボードに書かれた図表や文字列で思考をしている。PCのモニターからタブレット、疑似的に3Dな表現はあるが、思考は常に平面的になりがち。だけど、そこに時間軸が加わるだけでも、平面的ではないのだから、実際は多面的というか、立体的な思考をしているはずなのである。でも、共有する時に言語を用い、平面的な視覚的情報を共有するばかりに、アウトプットした段階で思考は平面化するのだ。平面のデザインを仕事にしている人間だから、そこを疑問視する必要もないし、映像であれ立体グラフィックスであれどうにでもできるから、そこは平面的なクリエティブに結果アウトプットするんだからいいじゃんという自分と、いやいや、そもそも思考が立体的な構造で行われているのに、無理やり平面化するのはやっぱり無理があるんじゃない?という自分がいる。

 デッサンなどは、目からインプットされる情報と後輩効果と言われるインテリジェンスの部分が手の筋肉を動かし平面化させているとも言える。ここに上手い下手という基準は存在しなのですが、有量の世界だからそこは表裏一体なのだ。無量の世界ならば、両手を合わせて煩悩を捨てたようなパントマイムで事は済むが、実際の思考はやはり立体的であるはず。これは何に起因しているかと考えると、つまり、首の上に保管された大きな臓器の仕組みと同じということ。

 まぁ、きっかけはこの程度にして、残りはまたどこかに記そう。