美しさ。

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 人は何かを判断するとき自分の「経験のものさし」と社会に偏在する「セオリーや観念の規範」を基準にする。それは時に「幸福加減」にも適用される。基本的にデザインという仕事はこの「ものさし」と「規範」の相関性の中で成立するものであり、この相関性を例えば「費用対効果」などの指標で有効性や優位性を判断していると言える。硬いお話になるが、これらを言語的ロジックと直感的センスで思考してこそ適正なオブジェクトが見えてくる。しかるに「アート」についても同じテンプレートが適用できるので、そこに数多の万象の規範が機能・適用されながら時間上に乱数的に配置されていくのだろう。

 で、「美しさ」と基準でそれぞれの慣習の規範があり、そこに個人さや文化レベルの影響があるわけですが、やはりというか、「美しい」「美しくない」の基準はどこかの深層心理の部分で、ショーン・ヤングの存在が大きい。ミロやミュシャ、モナリザ、アングル、ロートレックあたりのものさしも必然的に「美」に対しての規範であることは当然だし、現代のビューティーについてもそのものさしは有効なのですが、どこかに軸を設定していたとすれば、ブレードランナーのレイチェルはかなり比重も割合も大きい。

 不思議なもので、それがどこかのタイミングで別のものに代用されてもいいぐらい人間の価値感や世の中の基準は革新に革新を重ね変容しているはずなのに、意外とそれはひとりの人間の中では不動になっている不思議感がある。何故か?という愚問はさて置き、それを受け入れることが軸を意識する上で非常に重要なことであり、実はこの軸を持っていない人の緩さは決定的な共有性を失うから怖い。アーティストは何故アーティストたるのか?クリエーターはどうしてクリエーターたるのか?これらを表面的なロジックで処理しようとしても、セオリー通りのチュートリアル程度の経験値で座標化しようとしても、吹けば飛ぶのは、その蓄積された一物に質量が欠けているから。

 必然的に、プロはそれを見抜くから、アウトプットする時に注意する必要がある。右に習えでいい人は見えている必要はないが、軸を持ちたいならそんな思考錯誤を日々繰り返すマイスタイルな鍛錬を怠ってはいけない。ライフスタイルありきで表面的にアートに親しみたいなら親しめばいいが、親しむと追求することは異物だと理解すべき。自らの手を動かさず鑑賞し続けたいなら貧弱なロジックは要らないと知るべき。

 それほど、このレイチェルは美しい。