2013年05月 アーカイブ

ひさしぶり。

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 ひさびさにリールを購入。ショップに行き、上位クラスから全てひとつひとつ手に取り捲いてみた感覚や全体的なデザインや重量などで決定したモデルです。これを買ったからといって新しい技が増えるわけでもないですが、まぁ、定期的にツールは新しいのを買って適度・適正!?に新鮮に楽しむがいい。

 とにかく、スピニングタックルが手元に3セットないと落ち着かないので、あとはこれにマッチするロッドをどこかで探そうかな・・・という感じですね。さぁ、シーズンがいよいよ始まります。

 今年は大会が二つあるので、連戦連勝と行きたいですね。

NEW PCが2台。

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 いやいや、新しいパソコンは新鮮な気持ちになりますね。只今、2台をセットアップ中。一台はお客様用に明日お引き渡しで、もう一台のワークステーションは新兵器。

 昔は、あんなにこんなに高価なデスクトップが今では・・・ってぐらい安価で高性能になりました。これも世の中が、スマホ・タブレット・ノートで浮かれている恩恵だと言えますね。あくまでも使用活用目的は仕事のツールだから、余計なデザインとか逆にいらない。いつの頃からかそんなベクトルになったので、アップルには心が響かなくなった。何故、響いていたのかさえ・・・状態。仕事として必要なOSだから会社にあるが、その響きはもう私の心には存在しないですね。それを価値だと捉えて機能以外のコストをかけるっていう時代が終わったということ。浮世に漂う無数のアプリがどんだけのものか知らないが、全く興味はない。それは仕事のツールではない。というよりもプロが仕事で使うツールではない。

 だから、コストと機能・スペックが納得できればどんどん装備したいと考えているが正解だと思います。まぁ、アマや一般の人のニーズはもっと多様だからそれを肯定も否定もしませんが、私は120%仕事優先。だから、高性能のデスクトップが一番。別にシルバーに輝いている必要なし。別に薄くて軽い必要なし。別に筐体のフォルムで自分自身の直感が鈍るとは考えていない。

孔子が言っている。

 孔子が言っている。「古きをたずねて、新しきを知れ。」と。何故、この言葉が残っているのだろう。また、「唯一不変なるもの、それは変化だ。」とも。これらの言葉が何故長く伝わる力のある言葉だったのか。適当な解釈で納まりのいいコンパクトなロジックに変換することはできるが、心理の琴線にことさら近いこの言葉の価値を古きを訪ねながら、変化を楽しみながら、見極める努力を怠りたくないですね。

 その次に読んだのは、岡本綾子さんの言葉。後輩達への説教として言われたそうですが、「悩んでいる悩んでいると後輩からアドバイスを求められるが、悩んでいるということは比較的対応が難しいことが多い。そんな時は悩むよりも考えて行動しなさい。と言っている。」と。ゴルフスイング、コースマネージメントしかり、大切なことはテンポとリズム。スキルとセンスは今その時、どうにもすることはできるが、メンタルとフィジカルを整えていれば、リズムとテンポはコントールできると。なるほどなるほど。

 鉄の歴史が現代の人類の歴史だと記した書籍にも書いてあったが、それはつまり戦争の歴史だと言える。スティングは「人間は歴史から学ばない。」と言っているが、学びたくなと思えるほどの残酷で支離滅裂でアンモラルな歴史の一枚下層のレイヤーに潜む「新しきもの」を知り、鉄がもたらした「変化」を私達は今このタイミングで悩むことのターゲットとせず、考えて行動することで次に進むしかないのだろう。と、孔子が生きていたらツイッターにつぶやくかもしれないのかな・・・。

検事生活26年。

 「「目を見えて話せ」は逆だった!嘘の見抜き方」という若狭勝氏の書籍がある。たちまち増刷ということで、弁護士であり元検事という方の「嘘」を見抜く方法は!みたいなコンセプトの書籍。例えば、「表情の継続時間に注意せよ。」とか「つま先の方向は正直だ。」とか「嘘を言わずにカマをかける方法」とか「イエス・ノーで答えさせない。」などなどの非常にキャッチーなフレーズが散りばめられている。まぁ、その道のプロなわけでそれぞれにいろいろなプロの技術があることだろう。

 しかし、「嘘」を見抜くとはその言葉の真意を見極めるということだろうが、「嘘」なのか「嘘」ではないのか?という判断は何らかのロジックの食い違いや表情との誤差でパターン化されているだろうから、そこをプロ26年の経験値で見極めるのだろう。が、まず、なぜこのタイプの書籍がヒットするのか?どのような人達がこの書籍を何のために買うのか?という素朴な疑問がある。私の仕事はマーケティングではないので、その割合を知ったところであまり意味はないし、仮に一般的な嘘のルールを知ったところで、まるで、誰もが「嘘つきかもしれない」ありきで対人するのは、できればやめたい。どこかでそのようなニュアンスのフィーリングになったとしても、この法則だからこれは「嘘」だとか、もし、この書籍のテンプレートで対人的なシチュエイションで感じてしまったとしたら、それは、自分にとってメリットなのかな?と疑問。

 よりも、その人の言葉の中にある「真実」の質量を見極める方法が知りたいものです。だから、必ずしも「嘘」はいけないとは思わない。誰もが清廉潔白でありたいと理想をもっているだろうが、人生はケースバイケース。「嘘も方便」ではないが、時には「効果的な嘘」が脚色となり潤滑油となりより対比された真実を強調させるということもあるだろうし、常に正直であることなど人間社会で可能か?と自問自答すれば、そんなことこそ至難の技のような気がする。人の心を傷つけるような嘘や悲しませるような悪意のある嘘はナンセンスとして、「嘘」を見抜けたとして、その「嘘」に対する適正な対処方法までをケアしている検事生活26年ならこの著者は素敵だ。

 検事生活26年というモノサシが一般の私達のようなモノサシとは明らかに異なり、タフなモノサシに仕上がっていることだろうが、人はそんなに根本で悪い生物ではないと思いたいですね。

 デザインの仕事生活26年のモノサシはどの程度なのだろう?自分自身はデザイン生活26年でどんなモノサシがあるのだろう?

自分で自分の首をしめる!?

 昨日優勝した女子ゴルフの森田さんが師匠である岡本綾子さんから頂いた貴重なアドバイスが「自分で自分の首をしめてみなさい」的なことだったらしい。岡本綾子さんならでは素敵なアドバイスである。その真意は他のプレイヤーのこをと気にするよりも、自分のプレイに集中しないさいということであり、自分の目標をしっかり設定したらそれに集中することが大切。優勝は二の次だと言いたいのでしょうね。これも岡本綾子さんだから言えるアドバイスであり、なかなか、昨今の時代の傾向で、自分で自分の首を絞めるという意識にはなりにくい。他人の首は締めても自分の首は守りたいもの。これは女子ゴルフのプロの世界だけではなく、全ての仕事やライフワークに適用できる素晴らしい金言だと思います。

今年こそ。

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 今年こそこのような50アップを釣りたいものです。いつから釣っていないのだろうか・・・、もう忘れてしまった。それだけフィールドに行っていないってことなんだろうけど、やはり、メジャーをあてて50を超えている時の刺激は忘れられない。

 琵琶湖では60や70が出ていると聞くと、心が震えるが、外来魚に対する琵琶湖周辺の取り組みや規範の中に潜む「大きな嘘」を黙認してルアーを投げる気には到底なれない。釈然としないまま眼の前のエンジョイにフォーカスできるほど私自身が大人ではないのだろう。だから、私は琵琶湖ではバスを釣りたくない。

 環境を守る人も釣りを楽しむ人もこの地で商いをする人も、皆がもっと、フラットにニュートラルになり、一部の嘘つきに振りまわされないフィールドになった時、清い気持ちで昔のように琵琶湖に対峙したいと思っています。それまで琵琶湖をバスフィッシングフィールドとして見ることができないのが正直なところだ。

 自分自身の指針で突き詰める事を放置・容認して見切り発射的な微弱な規範に振りまわされているような人が決めたルールに自分自身の大切なモチベーションを浪費したいくないが現段階での正解。

 「外来魚駆除」って、人間はいつからそんなに偉くなった。そんなに奢って何を守りたいのか?琵琶湖を守る?君たちの考えや行動で琵琶湖が何から守られるのか?環境問題のイタチごっこは答の出ない問題。地球環境を人間がなんとかしようなどとひらめいた段階でその方向性は終わっていると判断できなかった瞬間にもう一度、戻れればいいのに。共存・共生・つながり・絆・・・絶滅においこまれた生物達が人間の言葉を話すことができたら口を揃えてこう言うだろうな、「なんでやねん!」って。言語的ロジックの中でしか結論を出さない種の不思議な不思議な進化論である。

掘ケンさんか・・・。

 毎回、見事な解答が出るイッポングランプリ。第9回目の優勝はホリケンさんか。10名のトッププロの問題への凄まじいアプローチ。あの短時間であれが出て来るミラクルこそがテレビライブの最強コンテンツ。リアルタイムだからこそのこの質感は何度見ても見れば見るほど・・・である。しかし、よくもまぁ、あれだけの捻り出しができるものですね。お互いに採点ボタンを持ちつつ相手ブロックを審査しながら、ただただ、自分の中にある技やセンスや直感で勝負している真剣勝負。変幻自在の解答が醸し出す
不思議な空気、張り詰めた空気、解放された空気。「至極の笑い」という複雑怪奇な方程式が飛び交う仕掛け。それを仕切る松本さんのポテンシャルの大きさと高さがいろいろな心の部位を刺激する。稀に見る素敵なテレビコンテンツですね。トッププロであることの条件はその技術とセンスと直感のさらに上のレイヤーが必要だということ。う~ん、素晴らしい。発想力、想像力、選択力、表現力、検証力。ただ高さとか大きさだけでは通用しない「笑いの方程式」。尾引く至極の解答群でした。

議論の花。

 「これまでに身のまわりで「議論の花」が咲くのを見たことや経験したことがありますか。」というはじめに~ではじまる書籍を本日購入した。齊藤孝さんの「頭が良くなる議論の技術(講談社現代新書780円(税別))」という書籍です。

 内訳は序章が「ネットと議論 ネットの可能性」。第一章が「議論とは何だろう」。第二章が「議論のジャンル」。第三章が「議論の技術 基本は西洋流」。第四章が「新しい日本の議論」。第五章が「根本的な議論をしてみないか」となっている。これはすべて「効率的で生産的な議論進行」に向けて論じられているのだろうと想像していますし、齊藤先生の「頭が良くなる」とは学校のテストで満点をとるための、高学歴だっつ~だけで何かが消えてしまうような「頭」のお話ではないだろうと期待しています。

 特にネットにおけるコミュニケーションの重要性が問われてるが、「コミュニケーション」って具体的に何を指しているか?だからどのようにすればどうなるのかぐらいは検索すればどこかのコンサルティングの先生が視覚化して論じているだろう。しかし、潤滑な手法を取り入れても双方がポンコツならば、足してもかけてもポンコツなコミュニケーションに帰着するだろう。

 そうではなく、議論なのだから、「かみ合う」感じとお互いがその議論で「覚醒」する感じがあってはじめてコミュニケーションに価値が生まれる。その議論で関係が終わるとしてもそれは意義のある始まりかもしれないのだから。

 議論の花か・・・、最近、咲いたのはいつだったっけ?

80歳のエベレスト。

 三浦雄一郎さん80歳のエベレストか・・・、テンションが上がる。骨折や不整脈を80歳で克服してエベレストか・・・。植村直己さんもこの地球のどこかでこの偉業にニヤリなことだろう。う~ん、凄まじい人間のエネルギー。三浦さんはインタビューで高い目標を設定することで「根性」や「諦めない力」が強くなる的なことを言っておられた。まぁ、この場合、三浦さんの言葉はエベレストよりも標高が高い。一瞬の躊躇や見極めの緩さが自分の命に直結している世界なだけにその行動こそが偉業であり、その存在こそが偉業。8848のピークには何があるんだろう・・・。

藁の楯。

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 「盾」じゃなく「楯」なんだ。ちょっと期待しています。で、松嶋さんだったんだ。大沢さん、藤原君はいいとして・・・。

ピラミッドストラクチャー。

 「ピラミッドストラクチャは事実や観察事項を基にして、そこから「何がいえるのか? (So What?)」という思考法により抽象化した上位概念を求めて行くことで構造化し、 全体を最上位の概念から事実までをツリー構造にまとめあげたものです。こうして出来たツリー図の最上位をメインメッセージ、それを支えるメッセージを サブメッセージ、その下をサポートメッセージと呼びます。この出来上がった論理構造が、正しく関係付けられているかを、見るもう一つの問いが 「何故そういえるのか?(Why So?)」です。これは下位メッセージが上位メッセージの 理由付けになっているかを、確認してみることにあたります。ピラミッドストラクチャは提案文書や論説文などを作成するときや、提示されたそれらの文書を理解・解釈する場合に有効な方法です。 」と検索したら普通にヒットするが、すでに「上位概念の構造化」あたりから微妙な誤差が生じている。人間の何故(Why?)を簡易的な構造化で一つのベクトルに収束しようすることで問題点や結論は一見シンプルになったように認識することができるが、それは、「一見、シンプルに捉えたい。」からへの置き換わりが生じている。それで論理構造が仮に完成したとしてもそれは結構微弱な構造と言えるような。その指針が新しい何かを創造したり現状の問題点の根本的な解決方法の中核に代入できるとは考えにくい。このシステムがもしセオリーだとしたらこの規範で構成されている経済や文化構造は押して知るべし。「有効な方法」論についてケチをつけている訳ではないが、ケチをつけている。つきつめることも開き直ることも自由自在でストラクチャーを瞬時に組み替える準備力の筋肉だけはいつでも活性化させておきたいですね。

 時間を戻すことはできないし、時間を早送りすることはできないが、今現在とそれらを相関させる能力こそが有効だと思います。恐らく時間軸がドロー軸(Z軸)が足りないのだろう。2次元的思考の2面性かなと・・・。

腕のいいデザイン事務所で・・・。

 今この時代に「腕のいい・・・」というフィーリングがいったいどこを指しているのか?何がどうなれば「腕がいい」ということを意味するのか?わざわざ、この時代だからこの表現なんだ!みたいな部分がとても逞しく素朴で純粋チックでいい表現だと思います。何がどうあっても「腕の悪いデザイン事務所」に仕事が流れる時代ではないのだから。

 うん!では、バブルの時なら「腕が悪いデザイン事務所」でも仕事を引き寄せる要素・理由・背景があったってこと?いやいや、それはそれとしてもうその時代のことを今更どう比較しても仕方なし。いろいろな意味で大きく時代は変わったと言わざるを得ないというテイで話を括るのか、いやいや戦後の動向など地球上の歴史から比較すればちっぽけな・・・とタカを括るかの違い。どの物差しで何を比較検討するかで、これまた、「腕」の良さ悪さが問われるとか問われないとか。

 BY THE WAY... 「腕が悪いんだけどコストが安いデザイン事務所」より「コストは高いかもしれないけど腕はいいよねぇ~!というデザイン事務所」を目指そう・・・と思っています。

あずかりや!?

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 これおもろそうですね・・・。なんとなくピクンと来てしまった。100円で預かるんだ・・・。

その空気か。

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 なるほどなるほど、その空気ですね。その空気、とても大切です。あれが蔓延すると息が苦しくなりますからね。特に時間の感覚。時は金なり、パットイズマネー、ヒデキ君残念!

子どもは論理的ではない!?

 人気番組「ガリレオ」で湯川先生が「子どもは非論理的だからジンマシンが出る。」と言っていた。まぁ、湯川先生はそういうキャラだからいいのですが、さて、「子どもは非論理的」という部分がひっかかった。うん?論理的な子どもって何故いないのか?いるのか?という疑問。すると、「論理的」ってなんだろうと検索すると「1 論理に関するさま。「―な問題について書かれた本」 2 論理にかなっているさま。きちんと筋道を立てて考えるさま。「―に説明する」「―な頭脳の持ち主」」となっている。ということは、子どもは論理に長けていない。つまり論理を認識していないから・・・ということなる。きちんと筋道が立てられていれば論理的なんだとしたら、子どもは子どもなりに筋道を立てているとも言えなくないし、大人にも筋道が立たない人がいるだろう。確かにジンマシンは極端だが、この人、人前で話さない方がいいよな・・・、リーダーシップとは無縁だなぁ・・・という人はつまり論理的でないということになる。頭の中で組み立てるという作業はなかなか難しいことだが、組み立てても忘れるという人はどうなる?せっかく組み立てたのに忘れて然るべき場面でそれを披露できずにいる人は論理的ではないとなる。

 逆に子どもの論理もあるだろうし、大人の論理を前に怖気づく人も論理的ではないとなる。電話で特に最初からお話を聞きながら言っていることの論理・筋道を構築し、疑問点を指摘すると、どの部分が指摘しているのか分からない人がいる。分からないようなことは決して言っているつもではないのですが、委縮してしまっているから論理が組み立てられないというだけなのに。委縮がリミッターを越えると何を言っても筒を抜ける。こうなるとコミュニケーションはできなくなるので、結果、非論理的な非言語的文脈を探るしかなくなり、感情に訴えることになる。しかし、一旦委縮した心を軟化させる言葉は見つからない・・・と。

 元気のない人はこの典型で話を盛れば盛るほど引き潮のように引き続ける。潮干狩り状態である。ということは元気のある子どもは論理的か否かは別として子どもなりの筋道を持っているという方程式が成立するような気がする。子ども目線で会話しましょう的なことをよく初等教育の現場の人は語るが、目線?目線じゃないでしょ?あなたが子どもの論理を聞きとれていないだけでしょうとなる。

 なぜ、こんなことをつらつらと書いているのか?文字で何かを伝えるためには、自分自身に対して論理的にならないといけないということを考えていたから、この言葉がトリガーになりこうして非論理的なことを書きながら、頭の中を整理しようとしているのです。文字にするって難しいです、ホント。

脇差し。

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 これを置いた時から日本は何かが大きく変わったのだろう・・・か?その規範が何であれ、それを偲び仮想の空間で主人公達はこれを振り回すのだろうか。その本当の質量や切れ味を度がえししてその魔力だけに取りつかれているとしたら、それは何かが大きく変わったことでの今現在のリアルへのリフレクト。イグアナがサボテンの花を食べるためにその手足の爪を進化させたように、私達の祖先様はこれを置いた。対峙用の本刀に対しての脇差しだから、その時はもう二度とこない時代が来ると願い、武士達は積年を回帰したことだろう。人類の戦いの歴史は地球の137億年の歴史の中でその尺は0.001%以下らしい。ナイルのほとりで争いの歴史が生まれてから、鉄が生まれた。それが日本でこの形状になり、現代はそれが鑑賞物としてコレクターのアイテムになっている。そう考えると鉄と人間の歴史は進化とは呼びにくい。

仮説。

 ビックデータの中にないデータはないと言い切れるのか切れないのか?という疑問がふと頭に浮かんだ。ここまで!というモラルのリミッターが人間には自然に作用しているから、なんでもかんでも情報がネットの中にクラウドの中にあると思ったら大間違いじゃない!というB.Q.映画の世界ならCIAが国民の個人情報を日々チェックして衛星を使って地球上の全てを監視していると啓蒙されれば、「ああ、そういうこともあるんだ・・・」的なテンションでいい人はいい。しかし、実際の話、リアルな話、サイバーテロの技術力はどこまで高いのか?それがどのように機能してどの程度、人類の日常生活に利益をもたらし被害をもたらしているのか?という一見SFチックな疑問がある。このブログの記事でさえ、強力なエンジンがサーバをチェックしているわけだから、ブラックリストに載るか載らないか誰も判断つかないだろう。仮に在る日突然ブログが書けなくなりネットにアクセスできなくなったらどうする?仮説が仮説を生みどこまでも規制を強いられればネットの中で孤立を余儀なくされるだろう。まぁ、この程度の記事なら何も危険因子は含まないからと判断されて・・・と思いきや、いつか警告が来るまでもなく、サーバからブログが消えているということも可能性として0%ではない。

 全人類は16ケタの数字で管理できる・・・という小説があったが、この結末も結果、入口でシャットダウンみたいなオチだった。そこまでしか踏み込まないのか・・・と思ったが、恐らく、ここから先はいわゆる一線なのかなと想像しながらその小説を終えた。ということを事例にしても、さてほんとのギリギリはどこにあるのか?できることならその線のところまで行きたいものですね。まぁ、平和にこの日本で生活している以上、その線など一生お目にかかることはないだろうが、そのデッドゾーンを想像してフィクションを創造することはできる。あくまでも創造。だが、この「創造」という行為ほどやっかいで楽しい行為はない。それが幻想であれ妄想であれ、創造は人間に与えられた唯一の「自由」だと思うと、これを奪われた世界は想像できない。奪われる奪われない如何に関係なく、命が奪われたらそこでFINなのだから、そこまでどこまでリミッターに迫れるか・・・を楽しくイメージしてきたいですね。それが出来るってことがいわばひとつの平和の指針かもしれないですし・・・。

やって来るのか!

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 福井にやって来るのか、ミケランジェロ。絶対に行く。

ひとこと。

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 エガちゃんじゃないけど、ひとこと物申すと、もし、シホさんがいなかったら、今日の日本の音楽シーンはポンコツだらけだぜ!ほんとにひとり飛び抜けているというか、この存在、唯一無二。

成功に奇策なし!

 という書籍がある。ちょっとかなりチェックです。13のルールとかっていうテイはあまり好きじゃないが、自分が書籍を・・・となるとそうも言っていられない。チェックチェック。いいものは貪欲にマネばねば。ネアンデルタールの民のように。さてさて、御年84歳は何をどう語っているのだろう?

 で、もうひとつ。「英語だけできる残念な人」という書籍も気になっている。「バカほど英語に依存する。」と言い切っています。ほぉ~、これもなかなか喰いつかせる技を持ってらっしゃる。チェックです。

2030年の世界。

 「2030年 世界はこう変わる」という書籍がある。米国情報機関が作成した、アメリカ大統領も参考にする驚愕の未来予測レポート!とは?米国の情報機関が作成しているって部分でちょっと余計なパワーバランスを感じますが、まぁ、日本はいずれにしても蚊帳の外だろう。だから、そんなの関係ない・・・となる。

 立花隆さんはこう言っている。「日本はもはや復活しない。アメリカは2年後、中国も12年後にピークを過ぎる。すさまじい大変化が起こるだろう。」でしょうね。

 1995年に国家としての繁栄期を終えた日本。今後は「世界一の高齢者大国」という枷と共に痺れを切らす国になるだろう。経済は縮小の一途をたどり、さぁ、日本人、これからどうする!みたいなことの連続だろう。もやは誰の救済も受けられない国として空洞化を経てその容積さえ・・・みたいな。

 テレビで「市場をつくる!」って眉間にしわ寄せて、どんな市場かと言えば、高齢者の介護精密機械だって!なんじゃそりゃ。えっ!そこに予算を費やして国を創っていく若者には予算を賭けないの?ますます、逞しい若者ともやしのような若者の格差を広げたいの?結果、短絡的な解決策の向こうにある市場だけに注視して根本的な国としての成長を見切っている。としか思えない市場づくりを目指している。あ~あ、ダメだなこれは・・・って感じ。

 アメリカもヨーロッパも中国も2030年には小さくなっている。そんな中、インドはその比率を増やしているだろうが、それは、目減りしたから割合的に増えたような錯覚になるだけだろう。結果、どこが安定しているか?となると、意外とアメリカ・ヨーロッパ・中国・インド以外ってことになる。さてさて、どこだどこだ?

 2030年、あと17年後、バンクーバーあたりで油絵を描きながらWEBサイトを創って楽しい人生を送っていたいなぁ~。休みの日には車でオーロラ・・・みたいな。

RED LIGHT

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 こう来たか!デニーロ、みたいな・・・。

人はチームで磨かれる!?

 という名称の書籍がある。「ただの集団がチームになるためには何が必要なのか?」という提起。「誰もが当事者意識を持ち、創造性を発揮し、助け合うチームはいかにしてできあがるのか?学校や企業でグループワークを実践してきた著者が強いチームづくり術を伝授する。」というメッセージで、さてさて、これで本当に職場は元気になるのか?

 「小学校の活気を覚えていますか?」って、覚えていますが、それがどう社会生活・企業生活に関連しているのか?と思わせたいだけのフレーズのような気がしますが。

 「仕事を教え合っていますか?」って、そもそも「仕事」を教えて欲しいと考えている段階からスタートしなければならないという洞察はいかなものか。「仕事は教えられる承るモノ」なのか?

 「ミッション・パッション・ハイテンションがありますか?」戦略・熱意・やる気ってことでしょうが、そもそもそんなの無かったら何も始まらないでしょう。

 「自然に笑いが起きていますか?」って、チームワークに笑いが必要なのか?どんな笑いを「笑い」と定義しているのか?って食いつかせたいなら、このルアーはポンコツですね。そんなのどこにどの角度に投げてもバスは反応しませんね。

 「アイディアを結合していますか?」それは正確にはアイディアではないのではないでしょうか?と思えるこの安易なフレーズ。「アイディア」と「結合」を繋げるセンスからとてもアイディアが創出してくるとは考えにくい。

 と、この書籍は買わないとなる。ほんと、言葉って難しいですね。

 「チーム」など形骸化した便宜上の烏合の衆です。必然を捻出するためのエネルギーがあるならば、自分の中に蓄えたいですね、然るべき放出するタイミングまで。傷のなめ方だけ上手になってもチームワークとは呼べないし、そもそも、チームワークすら幻術の世界だと思います。あくまでも個人的な独り言として。

 「個人のスキルを上げなきゃ全体の品質は上がらない!」これが本丸。最近、あるクリエイターの方から頂いた頭と心と魂に響く言葉をここで紹介させていただきました。

猛勉強。

 さて、最後に猛勉強したのはいつだっただろう?そもそも勉強は嫌いではなかったが、結果、高学歴ではないので世の中の猛勉強をした人達と比較した場合そのレンジには入らないだろう。さらに、猛勉強をしなければ合格しないような試験をクリアして今の仕事をしているわけではないので、一般的な猛勉強とは違うだろう。つまり、記憶を手繰り辿っても猛勉強したのは中学受験の時だけのような記憶しかない。仕事に就くために国家的な免許を取得したわけでもなく、仕事を続けるために現在の立場というか肩書きを維持するために何か専門的な勉強を続けているわけでもない。一心不乱にひとつのことにこだわってきたと言えば聞こえはいいが、客観的に俯瞰で自分自身を捉えると、まぁ、好きなことだけをやってきているだけだった。でも、好きこそものの上手ではないが、この「上手」を仕事にするためには猛勉強しても会得・体得・獲得できないモノはどこまでも貪欲に奪取してきた感触はある。それがなければ恐らく今頃は出世・昇進もできずに退職を待つノーマルな親父だっただろう。ノーマルな親父というテイではノーマルの真髄を走っているが、デザインの仕事は楽しいから続けてこれたという面と、これしかできないから続けてきたという面が相互に自分の中で関連し相関している。

 などと、最近、ちょっと振り返ることがあったので、あれ、そんな試行錯誤の紆余曲折を右往左往しながら、「猛勉強」というフレーズというかテンションはなかったような???と気がついた。そんな啓発があったからといって、何か猛勉強して今更国家資格を・・・などと意味のないことは考えないが、自分自身にとって「猛勉強」って何か血肉になったのだろうか?という疑念でもあった。

 一般的に「猛勉強」するのは社会的な安定や経済的な人生設計をより強固にするために行うのだから、価値や意義はある。しかし、いわゆる「猛勉強」モードにならなかったような感触の人生の場合、やっぱりのところ、アウトローだったと規定されてしまうのか?遊牧民のような、ダンス・ウイズ・ウルブスなのか?と。というわけでもないが、最近の私の名刺には映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」の遊牧インデアン風の鉛筆画を描いて入れている。ロジックではない分、いろいろなサインやイメージの断面のパッチワークに過ぎない感覚かもしれないが、そんな風にいろいろ最近振り返る事が多い。

 それもあるコンテンツを創っていることが深く関連しているのですが、温故知新じゃないけど、猛勉強をしてこなかったわりには、なんとなく、私なりのチャンネルというか引き出しというか仕事のギアは揃っているのがこれまた不思議。人生、一生勉強と言うけれど、そんな言葉、イスラム語圏にはないだろうな・・・。勤勉勤労の国、ジャパン。その骨が骨粗鬆になり杖をつきながら折れるのを島で待つっていのもの嫌だな。いつまでもアンブレイカブルでいたいものです。

白髭神社でした。

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 今日は対岸がよく見えた。こんなに青い琵琶湖はなかなか見れませんね。

相変わらず・・・。

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 いつもいつも楽しませくれますね。一周回ってきている感じがなんとも素敵です。

何故?英語教材が?

 いろいろメンドクサイ感じのメルマガが毎日毎日到着するのですが、まぁ、見事にいろいろなタイプの「一見美味しいそう」が手を変え品を変え。あまりにも見事なその一見無駄にも思えるようなエネルギーを逆に対して関心している自分がいたりする。よくも無作為な相手に対してそこまで自信満々で語れるものだなぁ~とか、そこまでモラルレベルを下げてもクリック率を上げたいのかなぁ~とか、そんな口車に誰が乗るかよっていいながら、最悪の最悪のケースで、気分がダウンしていたらクリックするかもしれないかな???とか、その巧みな倫理観に呆れること呆れること。しかし、中でも特筆するのは「英語教材」のセールスライティング。「まだ遅くない!」とか「最短ビジネス英語の達人」とか「英語がこんなに簡単だったとは!?」とかって、恐らく、君は英語はしゃべれるがガチのお話ができない人!?

 しかし、英語教材か・・・、ビジネス的にはお金にはなるんだろうな。つまり、日本ではニーズがあるんだろうな・・・。そういう国だものなぁ~。ブルペンではビシビシ投げて、マウンドで委縮する国民だから練習は大好き、勉強大好き、でも、本番はガチガチなんだもんな。決して、人ごとじゃないけど、意外といろいろなボトムを知っているから、外人は平気なのかもしれない。英語教材か、欲しいと思ったことがあまりない。そうそう、ゴルフも教材とか教室には興味がない。最初はきっかけを探しますが、ダイブしたらあとは独学が楽しい。壁だらけで傷だらけですが、それが楽しい感じ。

 でも、学校の英語のテストって何のためにあったのだろう???

climb on!

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 まずはここから。行くぞ!高島へ。

8848m

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 8848mの頂には何があるのだろう?

たった9秒。

 地球が生まれて137億年。この歴史を現在の1日24時間に例えると、ホモサピエンスが誕生し2足歩行を始めたのが23時59分51秒あたりらしい。文化や歴史や科学や天文学などたいそうなことで盛り上がるのはいいが、地球の歴史と比較するとそれらはたった9秒のお話なのかと。しかし、その9秒の中に私達は生きてきて次の1秒に確実に向かっている。地層や科学的分析が紐解く数多の事実を次の1秒のために活かしましょうね・・・と恐らくこの著者は締めくくるはずだから、そこに誰がシンクロするかという部分がキモなんだろう。

 最近のSF映画のテーマでは「善と悪」を描くことがなくなり、「人類」という存在を根底から疑問視しているテイが多いように感じている。さらに、地球は沈黙の星となり、人間は宇宙に移動するという科学的描写から他の惑星への移転を描くパターンになっているような印象を受ける。エイリアンの描写も究極のイマジネーションを求めてクリエーター達がその千里眼を自分のテーマにフォーカスしている。さて、科学者は政治家は芸術家は文学者はどまで同期すればいいのかできるのか?

 たった、9秒の出来事にどこまで真摯に向き合えるのだろう。

1964年。

 奇しくも1964年、ラプトルの化石が発見されている。それまでの恐竜のイメージは愚鈍で草食動物のイメージが一般的で捕食する草を求めて4足歩行する生物というのが恐竜だった。しかし、そのイメージを根底から覆す骨格を持つ化石が発見されたのが1964年。その骨格からは俊敏で肉食の猛禽類の証拠がいくつも発見される。恐らくラプトルは集団で行動し他の恐竜を集団で捕獲して食べていたということ。化石だけの分析結果ではあるがこれがかなり革新的な恐竜のイメージを否定し肯定させたのだ。確かにクライトンのジュラシックパークの原作でも冒頭のワンシーンは強烈である。ラプトルの化石が発見されなければ、ジュラシックパークはもっと大人しい恐竜大図鑑のような印象の映画に構築されていたのかもしれない。1964年生まれの私としてはこれがなんとも嬉しい事実だった。なんでラプトルの化石の発見と誕生日が同じでテンションが上がるのかは個人差があるとしても、地球の地層に隠ぺいされた過去のリアルが化石という物質でひとつひとと紐解かれるロマンはチンパンジーにもイルカにも感じることができないロマンだからだ。

 印象的なのは子どもの頃の図鑑の中に、恐らくティラノザウルスの足跡だっただろう穴に水が溜まっていて、その中にお尻から座りこみびしょびしょの服など気にすることなく笑っている外国の子どもの写真があった。何故かその一枚がとても印象的で毎日毎日その図鑑を眺めていた。ということはラプトルの化石が発見された後に、ティラノザウルスという順になるのだろうが、それでも、その巨大な足跡は子ども心を一瞬で釘付けにしてしうパワーがあった。それがきっかけで恐竜に興味が出て地球の歴史に興味を持つことができた。そのインパクトは考古学者になるというベクトルではなかったにせよ、最初に見た印象的な写真は一生を左右するパワーがあるということ。恐竜という存在自体がインパクトのある存在なのだからその写真を撮影した人の意思が書籍を編集した人の意思に重なり、日本語で編集され一般家庭に到着した図鑑。それはただの紙の集まりに過ぎないが、その中に表記された文字や写真やイラストはタイミングさえマッチすれば人の人生に影響を及ぼすことができうるというリアルがロマンチックでドラマチック。

 それを、最近購入した書籍に「1964年初めてラプトルの化石が発見される。」という情報と一瞬でシンクロするのだから、人間という生き物は自分自身の興味の対象に対してはどこまでも貪欲なんだと感じてしまう。

 同じことが、現代の子どもたちにとってみれば、パソコンのモニターや携帯デバイスの画面やタブレットで同じことが起きていると思うと人間は今後どのような進化をしていくのだろうか・・・と瞑想モードに入ってしまう。社会生活とはそれが幾重にも重なり代謝と複製が繰り返されているのだから、この流れを意識するしないに関係なく偏在する価値観のプレートは今も小さく移動していると知る。

 さて、どこにハーケンを打てばいいのだろうかと・・・。常に自分の今いるポイントからのオブザベーションは怠りたくないですよね。

いい構図。

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 いい構図だなぁ~。

これ欲しいなぁ・・・。

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 これはイリジウムリング。いいないいな・・・。

 「イリジウムはとは、恐竜の時代(白亜紀)と哺乳類の時代(新生代)の間の地層にだけ高濃度で存在します。その理由は、恐竜を絶命させた巨大隕石に大量に含まれていたからだと考えられています。イリジウムは、弱肉強食の時代(恐竜時代)から相互共栄の時代(哺乳類の時代)へのシフトの象徴のような希少金属です。」なのだから。

映画「イリジウム」

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 この二人かぁ~!そんで、イリジウムかぁ~!!!

絵を描く。

 絵を描くことがただ楽しかった子ども頃、芸大での絵を描くということに向き合っていた頃の気持ち、仕事としての芸術をどうして自分自身に順応させていったのか、デザインという仕事の現場で起こったこと。これらがすべて今現在の自分自身のデザインの仕事にフィードバックされている。そう考えると全ての失敗やつまづきが自分の経験則になっているという実感。終始いつも「絵」という存在が自分の軸だったことで今この気持ちがある。これからどうなるのか?これはポテンシャルの問題でもあるが、恐らくこのままの性分でデザインの仕事との相性は変わらないだろう。価値感という言葉では到底括れないほどのリアリティーとディテールがある。どこかで整理しなければならないという焦燥というかいい意味での危機感が常にいろいろなクリエイティブの思考を根底から支えてきた。この流れで簡単なゴールを安易に設定して小さい達成感に酔いしれることは簡単だが、決してゴールはない。また、試行錯誤を繰り返せば繰り返すほど正解はないと知る。ではなんのために?と考えるのではなく、あるがままを受け入れただ淡々と自分のスタイルで歩を進めるだけ。新しい紙に鉛筆を走らせるようにただ取り組むことが大切だと思います。50歳までにこれらの気持ちをまとめひとつのコンテンツを創出できれば、また、その次の景色が見えて来るような気がしています。それは絵を描く時の感覚にシンクロする。

ここからか。

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 ここからスタートのようですね。まずは、高島へ!