1964年。

 奇しくも1964年、ラプトルの化石が発見されている。それまでの恐竜のイメージは愚鈍で草食動物のイメージが一般的で捕食する草を求めて4足歩行する生物というのが恐竜だった。しかし、そのイメージを根底から覆す骨格を持つ化石が発見されたのが1964年。その骨格からは俊敏で肉食の猛禽類の証拠がいくつも発見される。恐らくラプトルは集団で行動し他の恐竜を集団で捕獲して食べていたということ。化石だけの分析結果ではあるがこれがかなり革新的な恐竜のイメージを否定し肯定させたのだ。確かにクライトンのジュラシックパークの原作でも冒頭のワンシーンは強烈である。ラプトルの化石が発見されなければ、ジュラシックパークはもっと大人しい恐竜大図鑑のような印象の映画に構築されていたのかもしれない。1964年生まれの私としてはこれがなんとも嬉しい事実だった。なんでラプトルの化石の発見と誕生日が同じでテンションが上がるのかは個人差があるとしても、地球の地層に隠ぺいされた過去のリアルが化石という物質でひとつひとと紐解かれるロマンはチンパンジーにもイルカにも感じることができないロマンだからだ。

 印象的なのは子どもの頃の図鑑の中に、恐らくティラノザウルスの足跡だっただろう穴に水が溜まっていて、その中にお尻から座りこみびしょびしょの服など気にすることなく笑っている外国の子どもの写真があった。何故かその一枚がとても印象的で毎日毎日その図鑑を眺めていた。ということはラプトルの化石が発見された後に、ティラノザウルスという順になるのだろうが、それでも、その巨大な足跡は子ども心を一瞬で釘付けにしてしうパワーがあった。それがきっかけで恐竜に興味が出て地球の歴史に興味を持つことができた。そのインパクトは考古学者になるというベクトルではなかったにせよ、最初に見た印象的な写真は一生を左右するパワーがあるということ。恐竜という存在自体がインパクトのある存在なのだからその写真を撮影した人の意思が書籍を編集した人の意思に重なり、日本語で編集され一般家庭に到着した図鑑。それはただの紙の集まりに過ぎないが、その中に表記された文字や写真やイラストはタイミングさえマッチすれば人の人生に影響を及ぼすことができうるというリアルがロマンチックでドラマチック。

 それを、最近購入した書籍に「1964年初めてラプトルの化石が発見される。」という情報と一瞬でシンクロするのだから、人間という生き物は自分自身の興味の対象に対してはどこまでも貪欲なんだと感じてしまう。

 同じことが、現代の子どもたちにとってみれば、パソコンのモニターや携帯デバイスの画面やタブレットで同じことが起きていると思うと人間は今後どのような進化をしていくのだろうか・・・と瞑想モードに入ってしまう。社会生活とはそれが幾重にも重なり代謝と複製が繰り返されているのだから、この流れを意識するしないに関係なく偏在する価値観のプレートは今も小さく移動していると知る。

 さて、どこにハーケンを打てばいいのだろうかと・・・。常に自分の今いるポイントからのオブザベーションは怠りたくないですよね。