猛勉強。

 さて、最後に猛勉強したのはいつだっただろう?そもそも勉強は嫌いではなかったが、結果、高学歴ではないので世の中の猛勉強をした人達と比較した場合そのレンジには入らないだろう。さらに、猛勉強をしなければ合格しないような試験をクリアして今の仕事をしているわけではないので、一般的な猛勉強とは違うだろう。つまり、記憶を手繰り辿っても猛勉強したのは中学受験の時だけのような記憶しかない。仕事に就くために国家的な免許を取得したわけでもなく、仕事を続けるために現在の立場というか肩書きを維持するために何か専門的な勉強を続けているわけでもない。一心不乱にひとつのことにこだわってきたと言えば聞こえはいいが、客観的に俯瞰で自分自身を捉えると、まぁ、好きなことだけをやってきているだけだった。でも、好きこそものの上手ではないが、この「上手」を仕事にするためには猛勉強しても会得・体得・獲得できないモノはどこまでも貪欲に奪取してきた感触はある。それがなければ恐らく今頃は出世・昇進もできずに退職を待つノーマルな親父だっただろう。ノーマルな親父というテイではノーマルの真髄を走っているが、デザインの仕事は楽しいから続けてこれたという面と、これしかできないから続けてきたという面が相互に自分の中で関連し相関している。

 などと、最近、ちょっと振り返ることがあったので、あれ、そんな試行錯誤の紆余曲折を右往左往しながら、「猛勉強」というフレーズというかテンションはなかったような???と気がついた。そんな啓発があったからといって、何か猛勉強して今更国家資格を・・・などと意味のないことは考えないが、自分自身にとって「猛勉強」って何か血肉になったのだろうか?という疑念でもあった。

 一般的に「猛勉強」するのは社会的な安定や経済的な人生設計をより強固にするために行うのだから、価値や意義はある。しかし、いわゆる「猛勉強」モードにならなかったような感触の人生の場合、やっぱりのところ、アウトローだったと規定されてしまうのか?遊牧民のような、ダンス・ウイズ・ウルブスなのか?と。というわけでもないが、最近の私の名刺には映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」の遊牧インデアン風の鉛筆画を描いて入れている。ロジックではない分、いろいろなサインやイメージの断面のパッチワークに過ぎない感覚かもしれないが、そんな風にいろいろ最近振り返る事が多い。

 それもあるコンテンツを創っていることが深く関連しているのですが、温故知新じゃないけど、猛勉強をしてこなかったわりには、なんとなく、私なりのチャンネルというか引き出しというか仕事のギアは揃っているのがこれまた不思議。人生、一生勉強と言うけれど、そんな言葉、イスラム語圏にはないだろうな・・・。勤勉勤労の国、ジャパン。その骨が骨粗鬆になり杖をつきながら折れるのを島で待つっていのもの嫌だな。いつまでもアンブレイカブルでいたいものです。