2013年06月 アーカイブ

自動制御装置と加速装置。

 デザインの仕事にはいろいろな意味で「自動制御装置」と「加速装置」が作用している。これをコントロールできればデザインの仕事の「苦しさ」と「楽しさ」をコントロールできる・・・と言いたいが、まだまだ、その域には達していません。この歳(49歳)になっても現在進行形なところがなんとも歯がゆい。が、この歯がゆさがなくったら終わる。何が終わるのか?それを今整理しています。

 時代と共にいろいろな仕事が浮き沈みしながら、創出され消失し、退化し進化する。その天真爛漫な怪物をどうしたら飼いならせるのかが永遠のテーマ。そいつはかなりのモンスターだから時に自分自身をちっぽけに感じさせたり、時に鉄雄のごとく月を破壊しようとする。ざるで微生物を掬い取るような作業もあれば、ライフルでジャングルの中の獣のこめかみにフォーカスするような作業もある。永遠のテーマだから、その鍵を手に入れればパンドラの箱は開くのか?

 教育や文化や慣習は自動制御装置をより強固にし先入観や固定観念の強度を上げようと作用する。流動的にカタチを変えたい時、そのリミッターを一瞬でリセットできるか否か。00ナンバーのリーダー、ジョーが加速装置を起動するように、その一瞬をマッハ3で好転させることができるのか?

 言わば、気功で人が吹き飛ぶような絵空事でさえ、イメージの世界ではアリなんだから、仮想空間を数式化しているプログラムでは決して想定できないRPGが実は一番楽しい。

 009でさえ、過去へ戻ることはできないのが絶対のルール。

初めての富士山。

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 3年前の早朝に見た富士山。最近、世界遺産ブームでいろいろな富士山の顔を見るが、僕はやはりこの富士山が好きだ。

老眼。

 近くの文字が読みにくいのって辛い。もう仕事で老眼鏡が手放せなくなってしまった。手元がボケると集中力も低下するし、眼鏡をかけるとボケは解消できるが、長時間はきつい。なんとも苦しい状況ですね。この仕事をしている以上、目は生命線だから神経質に対応してきたつもりでも、老化には勝てない仕組み。視力はいまだに2.0あるのに、近くの文字が読みにくい。なおさらかもしれないが、特に携帯電話やスマホの画面は見ずらいし目が疲れる。

 やっぱり、紙の上に印刷された黒インクがいいなぁ~。物理的にというか生物学的に適正な伝達保存形態は効率や表現のバリエーションを考えると、紙にインクの組み合わせがベストマッチなのかもしれません。現代の進化としての画面の明るさは視力の寿命と引き換えにしている利便性のような気がします。

 老眼のおっさんの心のつぶやきでした。

植物のあっぱれな生き方。

 「成長できる環境が整うまで、タネの姿で何百年も耐える。」「よりよい花粉を運んでもらえるように、色や香りの魅力を磨いて熱心な婚活を展開。」「近親婚を避けるため、同じ株の花粉は受粉しない。」と植物の生き方は見事。どんな逆境でも生き延びる逞しさ、子孫を残すための智恵を効率的に進化させている植物。狭い場所ではあえて大きく成長するのをやめて、どうしても受粉できなければ自分で自分の子どもをつくる。厳しい環境を生き延びるための変幻自在のたくましさ、子孫を残すための工夫、そして潔い最期まで、知れば知るほど、励まされ勇気が出て来てくる、植物のみごとな一生。

 と、この書籍の広告にはライティングされている。なるほどなるほど、あっぱれあっぱれ。

 で、人間は?

 言葉や言語を得たばかりに、定住の仕組みを手に入れたばかりにあたりから、地球全体が人間の無法地帯になったとかならなかったとか。その仕組みをもう逆再生することはできない。つまり、行くところまで行くというのが、只今の状況なんだろう。

 「初めに声ありき・・・」、確かにそうかもしれない。

マカロニほうれん荘。

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 ひさびさに読みたくなりましたので・・・。

137億年の物語。

 今、この物語はチンギス・ハンからの中世ヨーロッパ時代へ、日本では古事記や日本書記のあたりである。42ある項目もようやく33項目目。何故これを読んでいるのか?それは、あるアウトプットをするための「復習」の意味もあった。人間の歴史、137億年の中で地球上では何が起こったのか?そして、何が起こらなかったのか?をサクっと復習したかったから。あと少しあと少し。

名人伝@中島敦

 珠玉の名作揃いらしい。何故、今、ピックアップなのか・・・、それを知りたい。

自殺した、しなかった。

 林先生は日本の作家を「自殺した作家」と「自殺しなかった作家」に分けて作品のスタイルを分けることがあるらしい。なんとまぁ、素敵な独自のアプローチでしょう。そんな属性があるんですね。文学をどう捉えてこられたか、文学を何基準で探究してこられたのかというその懐というか度量の器の大きさがチラリと見えたような気がしました。

 ダザイとヤスナリは自殺するほど自分自身の世界を追求したと捉え、ソウセキはそんな時代にも関わらず最後まで逞しく生きたと捉えていると、私は考えています、と言い切る潔さ。あのキレ味はさすが時代を牽引できている人ならでは。そこまでテレビで言い切るって凄まじく分厚い鉈のような鋼の神経かカミソリのように繊細な神経なのか、いやいや、いずれの二刀も持っておられるのでしょうね。文学をそういう風に考えたことはなかったし、書籍と漫画を比較して「レンジ」と「手料理」と比較したことも私自身の人生には一度もなかったので、その言い切り方がカッコイイと感じた。言い切る勇気、大切なんですね。

 この時代だから、「~かもしれませんね。」とか「~だったらいいのかなと思います。」とか「~ったらいいのになと考えています。」とかって語尾のフェードアウト方式は時代対策なのかと思いきや、実はそうではなく、この時代だからこそとか考えずに、いつどんな時代でも、語尾を濁す人と濁さない人がいて、濁す人はやはりどこかで何かが濁っているんだろう。曇りなき眼で見定めたんだという自負があるならば、伝える時にはやはりグレイゾーンはタブーなんだ。

 言い切るためにも、本当の本気信号を発動せねば・・・なんですね。

 「今でしょ!」って、やっぱ、いい言葉ですね。

世界遺産へ。

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 世界遺産か・・・。

おかしな話。

 まぁ、そういう現代なのだろうが、おかしな話が身の回りで起こる。個人情報への認識や企業のサービスの本質やコミュニケーションの変容などなど。おかしい話が日々連続である。

 例えば、「血液型」について、アンケートすることは最近タブーらしい。えっ!血液型は何ですか?という質問が個人情報的にはデリケートなんだということ。血液型をお教えすると人間関係における非常に大切なポイントで、血液型ひとつでぎくしゃくする場合や、関係性が悪くなる可能性があるのだそうだ。そんなに微妙な時代なんだと改めて驚く。この程度で驚いていては現代の人間関係事情は適正に築けないのだろうが、血液型O型の私はあまり関係ない。

 また、逆クレーム対応とでも言おうか、初めての営業さんが来社される、お仕事の案件が進む、契約する、とここまでは普通の流れで、こちらもご提案内容が納得できて有益と感じたから契約したのに、さらに、別のリサーチ会社から、営業の対応に気になるところはありませんでしたか?という内容のリサーチが入る。うん?これは、転ばぬ先のなんとかか?私としては非常にご提案の内容も理にかなっていたし、実際に提示された数値的な資料も充実していたし、人間的にもしっかりとコミュニケーションされていたとてもタッチのいい男性だったので、結果、契約まで進んだのだが、こうして、クレームになる前から、どうでした?的なリサーチ会社への解答はいる?適当にお応えはしたが、後味は悪い。うん?彼は何か他の案件で問題の多い方だったのか?もしかして、それ以上に法律に触れるようなことに関連している可能性があるのか?と猜疑が深まる深まる・・・と、イマジネーションが止まらない。その電話の意味や価値が分からない。でも、まぁ、そういう時代なのかなと感じつつ電話を切った。

 メールでの情報交換についても、メール送信やFAX送信後の確認の電話は必要か必要ではないか?という細かいお話も不思議な感覚です。企業ではホウレンソウを徹底して!とスローガンに掲げていると思いきや、経費コスト削減で必要のない長電話は企業悪という価値観。これってかなり出たとこ勝負のさじ加減のような。で!どっちなんだい!ということで、余計な心配が蓄積される結果になっているような、そんなメンドクサイ構図の社会って、やっぱ、おかしい話に属する。

 49歳って、もう時代的には古い人間の部類なのだろうか?言葉ひとつひねり出すにも慎重になれという掲示・警鐘なのだろうか。どちらかと言えば・・・というよりも、間違いなく、そそっかしいタイプなので、思ったら言葉にしてしまうので失敗も多いが、そこまで慎重になって何を守っているのか?とさえ考えてしまう。これが現代社会に潜む「ストレス」の源泉だとしたら、かなりやっかいな社会だ。

 ネット文法的な、WEBサイト内やブログやメルマガにおける効果的な文章表現のセミナーや講習会のご案内がよく届くがあまり興味がない。仕事だから適正な文章表現の成功事例や失敗例を情報として蓄積することは必要だと考え、以前はよく参加していたが、どれもポテンシャルは低かった。小学生レベル(小学生の皆様には失礼)の作文のお話を大の大人が雁首揃えてメモを取るって、カンボジアの青空教室ではない(カンボジアの子どもたちごめんなさい)のだから、もっと、ギリギリの話を聞きたいのが正直なところだった。

 と、おかしな話をすればキリがないが、それほど文章表現というのは振幅があるということ。伝えたい内容やTPOで表現アレンジや語感やフィーリングを使い分けてこそ、FACE TO FACEに近い背景にある気持ちやニュアンスが伝えられる文節・文脈になるのだろう。いやはや、日本語は難しい。

松山VS石川。

 完全に日本のゴルフはこの二人が持っていっている。それはとてもいい状態のように思います。凄く刺激的な若い二人が引っ張っていけばあと10年は安泰だろう・・・と日本のゴルフ関係の人達は考えていることでしょう。確かに松山君のモンスターぶりは、えっ!これまでのプロ達は何をしていたの?というぐらい独壇場を展開されている。何が違うのだろう?遼君が登場した時も同じようなことが起こっていた。海外で勝つということが最終目的だとすると松山君もこの活躍は海外への踏み台に過ぎないのだろうし、ゴルフファンは二人が海外のメジャーで優勝争いに加わることだから、それを明確に予感させるような4日間になって欲しいと期待します。ほんと強い人は絵になりますね。

美しい人は動いている。

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 キレイな人は動いている。動いているから美しく、美しいから動くのであり、醜いから動かないのか、動かないから醜いのかなどとは決して言わないが、動いていない人はその身体を見れば一目瞭然。見た目や売れ筋のアイテムや不思議な技術で形骸的な美しさや精神的な美しさを手に入れても実はその美しさは醜さとback to backである。文武両道とはよく言ったもので、ホントにクレバーな人は身体も心もシャープな状態を維持させている人だと思いますね。だから、放っているいろいろなモノが光るのでしょう。実は単純な仕組みなんですね。

動くこと。

 「身体が動くと心が動く。」同じ場所で思考を巡らせることも大切。同じ場所でじっくり情報を収集して整理することも大切。戦略を構想するために同じ場所で自分の中の集中力を高めることも大切。恐らくこれらの先入観は義務教育や日本の均一的な教育の場がベースになって人格形成に影響を及ぼしている不思議な価値感のような気がします。ただ、それをいい悪いで安易にジャッジできないことなので、ここでは何も言えないが正解。言ったところで何がどうなるわけでもないし生産的な考察にはならない。昨今のブログの炎上やコミュニケーション上のトラブルはすべてこれらに起因しているような気がするが、そのトラブルでさえ誰もいい悪いの判断の対象にするのはちょっと違う。デバイスを介するコミュニケーションの利点は一定の距離感があり対人に対して必ず途中にデバイスを介するためにそこで一旦熱量や論理のディテールがフィルタリングされるということ。お互いにそれを理解しているのがルールだから、細かい文脈・文節にフッカーをあてるのも自由だし、例えスカイプのリアルタイム映像でさえ、2次元の情報に脳はさほど反応はしていない。

 だから、自分自身が動く必要がある。動けば視界が変わる筋肉が動き情報のスクリーンが変化する。つまり、心が動き出すから、体温のある情報が得られ体温のある信号を発信できるのだ。「動くこと。」で想定外の事象にどう対峙するかという部分から自己を守り過ぎると、悪い意味で、適正な筋肉が退化あする。退化すれば食べる・寝る・考えるバランスが何か別の機能で補填しようとするから、血管や腱に疲労が蓄積し内蔵の消化吸収のリズムが変化しあそこが痛いここが痛いという「痛い身体」を創ることになる。ここまで来たらそれを「ストレス」と呼ぶのか「悪腫瘍」と呼ぶのか「悪習慣」と呼ぶのかは個人の自由。

 とにかく、動くこと。

ネコビギナー始動。

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 まずはこれでいいのかな?

楽しみ楽しみマジキャスオープン!

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 楽しみですね。恐らく間違いなく私は9月に大野ダムでバスを釣ったことがないので、この大会に賭ける意気込みは数値的には0が正しい。そりゃプロに勝ちたいとか、単純に優勝したいとは考えているが、これは空想のお話。恐らく大野ダムや他のフィールドでもブイブイ言っているエキスパートが集まることだろうから、優勝の脈は全くない。ただ、全くキレイさっぱりないのだから、不安もない。気負いも正確にはないし、戦略もプランもない。当日、真っ白い状態で開始前のカウントダウンをボートの上で待っている自分自身が120%イメージできる。目の前には猛者達。完璧なエレキ装備と大野ダムを縦横無尽に駆け巡る猛者達のボートの中を、49歳のおっさんがオールを漕ぎ出すイメージ。なんとも滑稽なこのイメージで、逆にそんな状況・条件でよくそんな大会に出場エントリーするな・・・的なところがほぼ、一般的に共通した見解だろう。そう、おっさんはどこまでも無謀で無神経でノープランなのである。そんなそんなこと言いながら、実はもう戦略があるんでしょ?とか、そんなプランやフィールドチョイスについても戦略なしでしかも手漕ぎでエレキの人達に勝てるわけないじゃん!が一般的な見解だろうし、私もそう思う。ただ、バス釣りが好きで、その貧弱なタックルで何ができるの???という視線をビシビシ感じながら、ふらふらとエレキの間をすり抜けて上流に向かう私って、とことん逞しいなと思うのです。

 7月にも昨年優勝した大会に出て、V2宣言はしているが、しているだけ。勝ち負けは誰にも分からないですからね。仮に2年連続優勝できたとしたら、他の皆さんよりもちょっとメンタル的にタフだったという理由ぐらいしか思い浮かばないし、メンタルでバスが釣れるわけじゃないが、最後の最後で厳しい条件下で運を引き込むほどの「本気」があれば、あとは楽しくやればいい。

 と、まぁ、そんなこんなで楽しい夏になりそうです。

きっちり!恥ずかしくない!!文章を書くために。

 「きっちり!恥ずかしくない文書」を書く勉強・訓練をしたことがないので、こんなタイトルの書籍には敏感になってしまいます。なかなか「きっちりとした、どこに出してもはずかしくない」基準って長年仕事に携わってきた人間でも、常に自分の文体に疑問があるはず。自分の文章はどうなんだろう?と。それにイマドキのSNS時代、芸能人レベルのジャンクなブログに書き綴られているようなテイサイの文章が一般化しているため、口語なのか文体なのか微妙なまま氾濫・飽和・充満している。やはり、はずかしくないというクラスを維持するためには、一通りのルールがあるのでしょう。

 例えば、「不必要な主語は省略する。」とか、「意味の固まりを意識して句点を打つ。」や、「「てひはお」を間違えると恥ずかしい。」、「未知情報の後には「が」を使う。」、「同じ意味の言葉を繰り返さない。」、「修飾する言葉と修飾される言葉を近づけるな・・・。」などなど。なかなか、絞り込んだことがこの書籍の広告文には書かれてる。「気づかないうちに、おかしな表現になっている・・・」とのことですが、恐らく、セオリーが何パターンも手元にあったとしても、「気づく」か「気づかない」かが一番問題のような気がします。それは、やはり、「気づく」ために美しいロジックや魅力的な文体や行間を読ませる工夫や熱意が書き手にあるのかないのかに尽きるでしょうね。

 英語も同じですし、文章もそれを出してきた部位(頭?心?条件反射?)が「恥ずかしい」と美辞麗句を並べても、文体を清涼に整えても、結果、「恥ずかしい」にぶれるのだろう・・・。ならば、ちょっとぐらい勢いがあって乱暴な荒文でも、魅力的な文章であればいいのではないだろうか。この感覚がすでに恥ずかしい域にぶれていたら仕方なし。

 絵画やデザインも同じかもしれないです。意外と逆に「はずかしい文章」を書けないリミッターの方が実はやっかいだったりなかったり。

個性の時代!?

 「個性」とは先天的だとも後天的だとも言えるというレベルの知識はあるが、さて、この「個性」とはなんだろう。アートやデザインについて考えれば考えるほどその軸の存在がどんどんグレイゾーンに迷い込む。言葉で何かを伝えようとしても、常に結論が出ないダブルバインド。これも「個性」なのか?「アート」について自分なりの世界観を語る・・・これは一見とても簡単そうに思えたのですが、常に細かい振動の磁気を帯びて大きな重力にふわふわ。どこを軸にすればいいのだろうか。そもそも「個性」などというものは存在しないのか・・・などという迷宮に陥っている。自分の個性はこれだと何パターンも引き出しから頭のデスクトップに配置してもどれもこれも実は決め手に欠けていることになっているような気分。

 ほんとに言語でアウトプットするのは難しい。これが絵(非言語)ならなんとでもするのだが、これがデザインならば、形や色やバランス感覚でバランスを決めることができるのですが、言語化することはほんとに難しい。もう、くさび型文字あたりまで遡って見極めようとしているが、そこでさえ表裏一体のジレンマがあったとさえ記述されている。よくもまぁあの世界で最も複製されている書籍の完成度たるや、実はあれこそが究極の表裏一体の具現化かもしれない。そこに踏み込むこともできず、偏った自分の世界観を文字にするだけで、表とか裏とか混在するような絵でもいいかなとさえ考えています。

 「混沌」と言葉にするのは簡単だが、想像以上にこの言葉でさえ深度は計り知れない。まして「個性」を語ろうなどとは不可能に近いような気がしてきました。では、ビックデータと称されているテキストの集積・蓄積は何を意味するのだろう。

DVD「009」

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 昨晩は至福でした。何が至福かと言えば、石ノ森章太郎さんが残した遺産のようなモノを確認できたこと。その意思というかスピリッツが「009」というカタチで神山監督の魂に伝導し、この映画制作に関わった全ての人に伝導し、再び009の9名が蘇った。蘇っただけでも、これ至福。しかし、蘇っただけではなく、再生して生まれ変わったとでも言おうか、古き良きではなく、残るべくして残った価値というか意義というかIDが現代の万象を飲みこんでさらにビルドアップしているという確認。つまり、良きにつけ悪しきにつけ、「彼の声」とは・・・という部分を神山監督は最高のヒーローとヒロインに最高の装飾と脚色と物語を組み合わせられたということ。考えれば考えるほど、いや、考えようとしなくとも、「009」は高く大きく深い。この存在こそ「永遠」という言葉が値するのかもしれない。

 セクシー過ぎるぞ、フランソワーズ。

印象的なトップページ。

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 特筆したデザインではなのですが、どこか印象的なトップページです。なんとなく、ナチュラルに天然にスマートに雰囲気を醸し出すって実は一番難しい。文章も同じで、角を立てるのも論理で押し切ろうとすることも量的な戦略もこの「ロギア系」には勝てない不思議。

人の魅力。

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 人の魅力を正確に計測するモノサシはない。だからこそ魅力のある人を人は自分の中にあるモノサシで測る(この表現は適正ではないが、)というか捉えながら、その理由やどの魅力的な人には何が備わっていて、自分には何が足りないと試行錯誤しているのだろう。この書籍もただのタレント本ならば全く興味はないのですが、そういう編集意図を感じたので購入。探せばどこかにあるのだろうが、長浜の最寄りの書店では発見できなかったのでアマゾンにて。

 「綾瀬はるか」ブランドについて、ご本人は最初この芸名がピンと来ていなかったとか。会議や仕事現場でナチュラルな彼女はこの名前で誰かが呼んでいていも、なかなか、返事をするのに時間がかかったそうである。芸名というのがブランドになる時、彼女本人との距離感が意外とあるんだなと。

 しかし、とらえどころが・・・という魅力の実態とは何なのだろう?確かに不思議な存在である。不思議で片付けてはいけないのだが、時として不思議なモノは不思議のままがいい。

個人情報。

 最近の個人情報のデリケートな部分として「血液型」とか「尊敬する人」とか「今の日本をどう思っているのか?」などという情報がそれに該当するらしい。あれ?今は、帝国主義ジャパンに回帰しているのか?って、一旦進化したみたいな言い方になったら語弊がありますが、結局、刀を捨てたラストサムライ達の散切り頭を叩いても文明開化の音はしたが中身は同じだったとか・・・。

 で、ヒートアップはこれぐらいにして、改めて、公的な場所で私の血液型は何型ですということがタブーになっているってどうなのか?何がどうなのか自体が???なんだろうし、それを問題視しているということではなく、分からない問題が分からない状態。根がどこか?源流はどこか?的な疑問視はもうナンセンスなんだろう。こうだからこうだという仮説も論理も通用しないトップダウンの「個人情報戒厳令」。

 さてさて、このインターネット全盛時代に発言の自由の芳醇な矛先はどこへ?言論が自由になったと言われて何十年が経つのだろう。やはりペンよりも強いものがあったということだろう。そんなKYなことは、公的なスタンスで取り立てて声を上げることでもないから、フォーカスするのはこの程度にして、血液型がO型の私にしてみればどうでもいい。ただ、この「どうでもいい」というニュアンスさえわき腹を刺される世の中になったと仮定すれば、結果、脇が甘かったということだし、尊敬する人は「ワイエスとホックニー」だし、今の日本をどう思うか?と聞かれれば、素直に「33点」と答えるだけ。

 さてさて、この程度の個人情報で何かが崩れるとしたら、どんだけ微妙でデリケートな活断層の上に日本は均衡バランスをキープしているのだろうかと67点分の心配がマイナスかな・・・。

 南海地震が来たら、そりゃ、静岡県よりも死者の数は東京の方が多いと思いますよ、日経新聞さん。ってね・・・、この意味の深度はマントルまで行きそうなので、個人情報論はまた次の機会に。

世界遺産の価値。

 へぇ~、富士山の入山料は山梨県と静岡県が決めるのか・・・。富士山は「世界遺産」であり、「山梨遺産」でも「静岡遺産」でもないのに・・・、へぇ~。

 いろいろな相場のいろいろな事情の価値感があるものだ・・・。

ON THE 恩。

 いやいや、どんな小さなことでも「恩」というタイミングは一生を左右する。しかし、条件がいくら揃っていたとしても、いくら多くの雄弁を並べて頂いても、いくら武勇伝を拝聴させていただいても、私自身の中の何かがそれを「恩」と識別しなければ、正確には私の人生に関係がない。しかし、どんな些細なことであれそれが行動であれ言葉であれ物質であれ、「恩」と感じたことは忘れない。そして、その「恩」に対する自分自身の反照としての何かを常に探し続ける。いつかいつか、この「恩」を何かの形で生きているうちに返したいと。まぁ、鶴状態なのかもしれないし、機織り途中にピーピングされたとしても別段「約束の破綻」にはならいので、格式ばり奉る必要はないのですが、それに、そう簡単に私の機織り機は盗み見ることはできないだろうし・・・。

 つまり、「恩」とは時間の軸を越えて、言語理解の範疇を越えて、感情の属性を無効化しても、作用する不思議な価値感・感覚・感情だということ。「恩」について、今、新書の原稿を執筆しているわけではないが、もし、私がモノ書きとして生計を成す人間だとしたら、ひとつこのテーマは記してみたいテーマですね。

 分かりやすく貨幣価値のモノサシで「恩」を推量する人がいるが、それは実は正確には「恩」を理解していないステレオタイプな人。だからと言って、「この度はお世話になりました。心ばかりの・・・」と封筒を差し出されればそれを受け取らないほど幼くもないが、逆に「ああ、私のしたことは、この人にとってこれだけの価値だったのか・・・」と少し残念にはなる。だから、「恩」を受けるときも、それを返す時も、非常にデリケートに慎重にならなければならいのが「恩」です。

 すると、全ての社会と関わり、他人と支え合いながら生きているということは全てが「恩」の上に成立しているとも言えなくない。などと、いう書き出しから新書の原稿は書き出すのだろう・・・モノ書きならば。でも、こうして1億人総モノ書き時代でもあるブログ時代が来て、SNSが飽和して、クラウドが過熱して、ビックデータが潮流になってしまった今、デジタル信号では解読できないひとりひとりの心の中にある、人格としてのアルゴリズムの中に結合と分裂を繰り返す「恩」という細胞を無碍にはできない。それを害するようなことをすると、それが悪腫瘍となり転移を繰り返し最終的に脳機能をのっとるとかのっとらないとか・・・。

 で、私達は誰もが誰かの「恩」の上にいるということ。ただ、ただ、それが必ずしも血縁や組織の中あるニューロンであるとは限らないという不思議。それが、DNAの仕事なのだろう。

そして父になる・・・か。

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 この二人、そして、福山君。やっぱ、今、最強なのかな・・・。

アンチエイジング。

 テレビに57歳の医者が登場していた。その若々しい風貌と自信に満ちた先生のライフスタイルとアンチエイジングの秘訣とは?みたいな企画。でも、よくあるビタミンとかサプリでどうのこうのという秘訣でもなく、高価な機材や設備を使った健康法でもなく、まして、精神世界へ一緒にダイブしましょう的なアプローチでもない。ごくごくシンプルで言わば普通の普通過ぎる健康法。これでテレビ的にOKなのかと心配されるようなポイントの列挙だったが、私はとことんまで納得できて共感できました。

 まず、午後10時に寝て朝3時に起きること。起きたら水のシャワーを浴びて自宅で仕事を開始。日の出のタイミングでベランダに出て朝日を浴びる。しばし瞑想。午前7時、自分の病院まで徒歩で出勤。ポイントは早歩き。午後7時まで仕事をみっちりするが、朝食も昼食もとらない。で、夕食は栄養バランス重視の普通の食事。で、10時にはご就寝と。ただこれだけで心臓病も内蔵疾患も治りご自身30歳代の時よりも若く見える始末。確かに30代のころは暴飲暴食で不健康極まりなかったとのこと。これら全ての健康法は具体的に科学的にどのような効果があるのかについては、全て自分自身の身体から細胞分裂・再生に必要な分泌が効果的に出るかららしい。正に理にかなっているということ。

 ここまで極端ではないが、私も平均的には午前6時前には目が覚めるし、午後11時には寝ている。食事はしっかり3回摂っているが適正な量である。さすがに水のシャワーは嫌だが、ウォーキングは適当にやっている。で、お陰さまでなのである。

 しかし、世の中、猫も杓子もアンチエイジングだが、アンチ、アンチって結局、老化を促進するようなことをしてただけじゃないのか。それを普通の生活して若々しいとはテレビのデレクターもポンコツONポンコツ。ただ、基準がメタボなジャンク野郎が平均だと仮定するから、そこにのびしろを感じてしまうが、そもそも・・・を考えれば、体内脂肪も血圧・血糖値も悪玉ストレスも痛風も腰痛も鬱も結局、基本的な不健康を促進してきた結果。それをやめて規則正しい生活をすることをいまさら特別扱いって・・・みたいな。でもまぁ、そこが世の中のGLならそれでもいいが。

 ただ、風貌は若々しいが中身がポンコツという箸にも棒にも毒にも薬にも・・・タイプ野郎だけには一定以上の距離を置きたいものです。

自己満足。

 プロのこだわりは時と場合により他人から「自己満足」と分析・洞察をされることがある(多い)。果たしてどこから自己満足でどこまでが自己満足ではないのか?これはなかなかディープな問題である。

 昨晩のテレビ番組「ガリレオ」で物語の結論の部分でこの言葉が使われていたが、確かにあの流れだと「自己満足」と称して値するような気がするが、利己的な私欲に駆られた衝動の軸足は自己満足そのものだとしても、自己満足のために他人を殺めたり、自分自身の価値感だけで判断し行動することへの伏線はどこから捻じれ始めたのだろう。

 まぁ、蒼井優さんだったから良かったものの、この役、しょっぱい女優さんならかなり厳しい構造になっただろう。あなたの自己満足には着いていけないわ!的な展開はよくあるが、そもそも、全ての満足は基本「自己満足」から連動しているはずだから、あながち「自己満足」を頭ごなしに否定してしまうと、なんとか主義のなんとか思考のなんとか派というテンプレートに依存することが「満足」に代入されてしまうことになる。なるというかそれが結構な割合で人類の歴史を形成しているから、逆に本能のひとつレイヤーの上あたりで、「自己満足」を嫌悪させるプログラムがインプリントされているとかされていないとか。それも慣習であり文化。科学的であれ非科学的であれ、「自己満足」のレンジと振幅は想像以上に広く大きい。

 「自己満足」のプロセスをスルーさせようとするベクトル・波動にはデリケートに敏感になっておきたいものです。逆に。

山ガール。

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 これぞ正に「山ガール」。こんなことする人は芯から強い女(ヒト)だろう。

学びの構造。

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 検索すると、「スガタ・ミトラ|SUGATA MITRA 英国ニューキャッスル大学教授。認知科学・教育テクノロジーの専門家として知られ、2012年、MITメディアラボの客員教授として招かれた。著書に『Hole in the Wall』〈TED Books〉がある。」という情報が出て来る。さらにミトラ氏はこう言っている。「未来の子どもたちに教えるべきことは3つだけです。読み書きする能力。必要な情報を得る能力。そして、その情報の価値を判断する能力です」と。さぁ、日本の教育関係の皆様、どうする?現場の先生方、どうする?このような時代になっているのに、旧態以前のステレオタイプのまま子ども・学生達の前に立てますか?って感じですね。「クラウド先生」が子どもたちの興味の中心になった時、あなた達があなた達の時間をどのように生産的で建設的なベクトルに変換できるか?それが問われる時代になるだろうとミトラ氏は言っています。ひと皮向けて金が出て来るのか、ただのたまねぎ野郎だったのか?ということ。

 まぁ、それは、何も教育現場の皆さまに限ったことではないので、私も実際、たまねぎはたまねぎ系ですが、最後のひとかわの中にひとつだけイリジウムのキューブをせめてセットアップしたいものです。

 子どもは自ら学ぶのです。教育とは自発を促す行為であり、テスト勉強の意味や価値は100点を取ることではない。100点組では見えない世界を学ぶ必要がある。いや、そもそも学びとはそうだった・・・みたいなことだと思いますね。いやいや、空白の12年は大きいな。まぁ、空白の側面で発見した出会えたモノが大きかったので、こうしてこんなテイのブログが書けるということ。このシンクロは強い。


一平じいちゃんの言葉。

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 じっちやん:「しかし、自然というものは、つねに、食うものと食われるものの数がうめでえぐあいにバランスがとれて、営まれているということじゃ。そういう意味ではブラックバスといえども自分たちのエサをすべて食いつくしてしまうとは思えねぇ・・・。なぜなら、エサがなくなれば自分たち自身がほろびなければならいということになる。」 

 三平:「そ、そうだよな・・・。ブラックバスがなんぼ獰猛でもそこまで食うはずがねえよな・・・」

 じっちゃん:「うむ、しかし今日日本じゅうにものすごいいきおいで増えつづけているということは、少なくとももとから日本にすんでいた魚たちの生息区域をうばっていく可能性がある。日本という国は知ってのとおり細長く、ちいさな島国じゃ。しかも春夏秋冬の四季がこんなにもはっきりした美しい国はほかにはねときく。それだけにその土地土地に適合したいろいろな魚がすみつきその土地土地の人々とともに今日まで暮らしてきた。そんな、日本という国とそこに棲む魚や自然の姿を釣り人が釣りのためにかえちまうことだけはしたくねえとわしは思う・・・。」と、矢口高雄さんは「湖の殺し屋ブラックバスの巻」で語っておられる。

 魚が魚を食う時には魚のルールがある。島国にいつから大陸の魚が発生したのか?というブラックボックスを棚に上げ、机上の理論を自然に適用しても成果率は低い。人が人を制御するルールがエジプトで生まれたのか中国で生まれたのかインカで生まれたのかは知らないが、キリストならなんと言うのだろう。人間の相関性が機能しやすいデジタル仮想空間でさえ小さな虫が発生するのだから、この地球上で想定外のアルマゲドンが起こっても不思議ではないはず。

 「唯一不変なるものは変化である。」と説いた孔子の頃ならば、ブラックバスにはどのように対峙したのだろう・・・。

大阪CITY

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 昨日は朝から大阪へ。結構上下に広いエリアを車で走りました。滋賀県と違って、やはり、市内を走るのは疲れます。というか大阪市内を車で走るとなかなかの密度だし、車と車の関係がタイト。名神高速に乗るまでは緊張感が続きました。グレーでミディアムで下層のレイヤーに潜むエネルギーはやはり大阪の魅力ですね。疲れた疲れた。