ON THE 恩。

 いやいや、どんな小さなことでも「恩」というタイミングは一生を左右する。しかし、条件がいくら揃っていたとしても、いくら多くの雄弁を並べて頂いても、いくら武勇伝を拝聴させていただいても、私自身の中の何かがそれを「恩」と識別しなければ、正確には私の人生に関係がない。しかし、どんな些細なことであれそれが行動であれ言葉であれ物質であれ、「恩」と感じたことは忘れない。そして、その「恩」に対する自分自身の反照としての何かを常に探し続ける。いつかいつか、この「恩」を何かの形で生きているうちに返したいと。まぁ、鶴状態なのかもしれないし、機織り途中にピーピングされたとしても別段「約束の破綻」にはならいので、格式ばり奉る必要はないのですが、それに、そう簡単に私の機織り機は盗み見ることはできないだろうし・・・。

 つまり、「恩」とは時間の軸を越えて、言語理解の範疇を越えて、感情の属性を無効化しても、作用する不思議な価値感・感覚・感情だということ。「恩」について、今、新書の原稿を執筆しているわけではないが、もし、私がモノ書きとして生計を成す人間だとしたら、ひとつこのテーマは記してみたいテーマですね。

 分かりやすく貨幣価値のモノサシで「恩」を推量する人がいるが、それは実は正確には「恩」を理解していないステレオタイプな人。だからと言って、「この度はお世話になりました。心ばかりの・・・」と封筒を差し出されればそれを受け取らないほど幼くもないが、逆に「ああ、私のしたことは、この人にとってこれだけの価値だったのか・・・」と少し残念にはなる。だから、「恩」を受けるときも、それを返す時も、非常にデリケートに慎重にならなければならいのが「恩」です。

 すると、全ての社会と関わり、他人と支え合いながら生きているということは全てが「恩」の上に成立しているとも言えなくない。などと、いう書き出しから新書の原稿は書き出すのだろう・・・モノ書きならば。でも、こうして1億人総モノ書き時代でもあるブログ時代が来て、SNSが飽和して、クラウドが過熱して、ビックデータが潮流になってしまった今、デジタル信号では解読できないひとりひとりの心の中にある、人格としてのアルゴリズムの中に結合と分裂を繰り返す「恩」という細胞を無碍にはできない。それを害するようなことをすると、それが悪腫瘍となり転移を繰り返し最終的に脳機能をのっとるとかのっとらないとか・・・。

 で、私達は誰もが誰かの「恩」の上にいるということ。ただ、ただ、それが必ずしも血縁や組織の中あるニューロンであるとは限らないという不思議。それが、DNAの仕事なのだろう。