一平じいちゃんの言葉。

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 じっちやん:「しかし、自然というものは、つねに、食うものと食われるものの数がうめでえぐあいにバランスがとれて、営まれているということじゃ。そういう意味ではブラックバスといえども自分たちのエサをすべて食いつくしてしまうとは思えねぇ・・・。なぜなら、エサがなくなれば自分たち自身がほろびなければならいということになる。」 

 三平:「そ、そうだよな・・・。ブラックバスがなんぼ獰猛でもそこまで食うはずがねえよな・・・」

 じっちゃん:「うむ、しかし今日日本じゅうにものすごいいきおいで増えつづけているということは、少なくとももとから日本にすんでいた魚たちの生息区域をうばっていく可能性がある。日本という国は知ってのとおり細長く、ちいさな島国じゃ。しかも春夏秋冬の四季がこんなにもはっきりした美しい国はほかにはねときく。それだけにその土地土地に適合したいろいろな魚がすみつきその土地土地の人々とともに今日まで暮らしてきた。そんな、日本という国とそこに棲む魚や自然の姿を釣り人が釣りのためにかえちまうことだけはしたくねえとわしは思う・・・。」と、矢口高雄さんは「湖の殺し屋ブラックバスの巻」で語っておられる。

 魚が魚を食う時には魚のルールがある。島国にいつから大陸の魚が発生したのか?というブラックボックスを棚に上げ、机上の理論を自然に適用しても成果率は低い。人が人を制御するルールがエジプトで生まれたのか中国で生まれたのかインカで生まれたのかは知らないが、キリストならなんと言うのだろう。人間の相関性が機能しやすいデジタル仮想空間でさえ小さな虫が発生するのだから、この地球上で想定外のアルマゲドンが起こっても不思議ではないはず。

 「唯一不変なるものは変化である。」と説いた孔子の頃ならば、ブラックバスにはどのように対峙したのだろう・・・。