認められるために。

 「なぜ今の若者は有名企業をすぐに辞めるのか?」「なぜ優秀な若者がNPOで働こうとするのか?」 「なぜ若者は何の報酬ももらえないのにSNSで発信するのか?」「なぜ若者は友達がいないことを異様に気にするのか?」「なぜ若者はソーシャルゲームに夢中になるのか?」「なぜ若者はずーっとスマホをいじっているのか?」という疑問がかなり深刻な問題になっているらしい。49歳の私には現代の若者の諸子を単純にこの側面で規定してはいけないのだろうと捉えつつも、実際、私自身の年齢やこれまでのキャリアを経て分析・洞察すると「よく分からない」と乱暴にも置き去りにしてしまう気持ちが強い。これらの質問のディテールというか問題提起がどの方向へ誘導しているのかという意図の部分と、相対的に感情移入して自分なりのリアリティーで捉えてみたら・・・の部分を合わせて答が出せるとしたら、「誰かに認めてもらうための行動」に他ならない。では、現代の若者は誰から認めてもらいたいのか?という疑問に対して思うことは、自分の若い頃のことを振り返ると、会社の上司であったり、お得意先であったり、仕事仲間であったり、好きな女性であったりしたはずだ。その時の気持ちが「認めてもらいたい」だったかどうかは正確には想い出せないが、自分の存在価値を認めて貰いたい人に対してアピールすることに対しては貪欲だったと記憶している。この「認められたい」という気持ちと、「自分を主張したい」という気持ちのニュアンスには微妙に世代間の誤差が存在するようにも思うが、何を証拠・確証として「認められた」が現代社会では非常にあやふやなんだと思います。ふわふわしている、いや、誰かが何かの目的のためにふわふわさせていると捉えると、その狙いは「確証やリアリティーを獲得させない」という構図になり、もし、それがゲームやスマホを市場に送り出すことで成功させているとしたら、このデベロッパーはかなり狂気だ。人間性の成長過程で「認められたいエネルギー」を逆回転にさせて利を得ているシステムが存在するだとしたら、私のようなゲーム大嫌い、スマホ反対派のようなやっかいなおっさんが何かこの現状の問題解決に対して一石を投じれる隙間も存在するのかもしれない。

 安易な暴論で締めくくるが、「認められた。認められなかった。」などどうでもいいこと。自分自身の中にある評価点が一定レベルをクリアし続ければ、あとは野となれ山となれ、明日は明日の風が絶対に吹くと考えている。つまり、自信は共鳴してから作るのではなく、まず、苦労して苦労して試行錯誤を経て自分自身の中でしっかり創りましょうということです。SNSで友達が作れるはずないじゃん!友達申請して友達が増えたら苦労はしないですって!他人の言葉に敏感になる前に、自分の中の気持ちに敏感になりましょう!ということ。

 仕事柄、オンラインなので、諸々を成立させるためにオフラインで全てを完結させることはできないが、思考は常にオフライン状態でありたいと考えています。って、オンラインの恩恵を何%受けられているかは定かではないが・・・。