2013年09月 アーカイブ

今年は4匹!?

 今年はバス君を4匹しか釣っていないことにふと気がついた。もう9月が終わる。シーズンは静かに終わっていく。もう雪の中、キャストする元気はないぞ・・・、やばいぞやばいぞ、ネチネチ攻めて攻めてあと1匹の顔をなんとか見ておきたい。伊庭内湖は初めてですが、ダム湖より実は地形的に好きだから楽しめそうです。5匹目、お願します!

相対か絶対か。

 モノゴトは全て相対であればいいと考えてきた。相対でなければ仕事は成立しないのだと。多種多様なニーズに答える誠意と技術さえあればデザインの仕事は成立すると。そう考えられるようになったのも結構最近のお話で、そんな答を出すことさえも不謹慎で図に乗っていると自分に言い聞かせてきたような仕事のスタイルだった。しかし、その方法論では上手くアウトプットが機能しないケースがあることを知る。多種多様なニーズへの対応力こそが生命線だと信じてきたことが実は自分自身で緩めのリミッターを設定してその中で試行錯誤だの挑戦だの紆余曲折だのと小さく(精一杯だったので小さくもないのですが)まとめようまとめようとしていたのだと。その状態で横腹あたりにデットボールを喰らった。自分からボールを打ちに行くために踏み込んだのだが。

 この数ヶ月、強力な強制ギブスでこの思考規範と行動規範を「絶対モード」に変換させようとしています。勿論、ホームランを量産するためだ。最初は手足がその強力なバネで動かすこともできなかったのが、ようやく最近は相対モードと絶対モードを切り替えるきっかけが見てきた。具体的に何でそう感じられるのかと言えば、実はさほど目新しくも奇抜で斬新なモノではなく、これまで普通に見てきたり聞いていたことばかりだった。光と陰と言えば適正かもしれないが、同じモノを見ていたのに相対モードの時は陰の面ばかりを見ていた感覚だ。少し立ち位置を変えれば光の面が見えただろうに、ただ同じ場所に固執していたのだ。

 ただ、いくつかのきっかけに確実に遭遇し、自分の中の変化を認められるようにはなったが、これまでの思考癖を強制するには時間がかかることを実感し、焦っても仕方ないと素直に変化を受け入れている。五感と思考が絶対モードへの変換に対して馴染み、新しく見えている面からの新しい情報がインプットが絶対モードで循環しなければ、新しいコンテンツを創り出すことはできないのだ。私のO型の血液が相対モード用だとしたら、その50%を別の血液型に入れ替えて身体に新しいタイプの血液を馴染ませるぐらいのオペなのです。反作用や副作用や拒絶反応が発生したがなんとか融合させるにためのルートを今は獲得した。

 しかし、相対モードは「仕事モード」なので切り捨てることはできない。でも、相対モードではアウトプットするものが緩くなり意味も価値も緩くなくなる。だから、ハイブリッドモードを会得しなければいけない。相対モードを維持しながら、絶対モードを覚醒させたい。

 私の中では「アート」が絶対モード、「デザイン」が相対モードなので、自分自身のルーツを辿ることで絶対モードになれたが、感覚的には諸刃ではなく、二刀流でもなく、分身の術でもない。どうやら、そんな小手先のスキルではないのだというところまでは分かってきた。

 この強制ギブスはとことんまで楽しい。したがって、絶対モードでのコンテンツの完成は近い。

起業3年目。

 「起業して3年以上「続く人」と「ダメな人」の習慣」という本がある。誰でもいつかは独立・起業したい!と思っていると私は思い込んでいたが、世の中には起業したい人ばかりではもないみたい。でも、誰でも心のどこかに少しだけ「起業」へのあこがれみたいな気持ちがあるんじゃないかな。現代の不景気感や情勢不安定で不確実な時代に起業へのリスクは高いだろうから、心の中のリスクへの警戒心と自分自身の本気との比率が最終的に起業へのモチベーション量を決めている。

 起業後、「続く人」になるために、「ダメな人」にならないためにはどのようなことに精進すればいいのか?この「習慣」はすでに何十年も自営をしている人から最近起業した人まで興味のあるテーマだ。

 例えば、「うまくいく人は準備が整わなくとも起業し、ダメな人は準備が整ってから起業する。」「うまくいく人は小心者であり、ダメな人は気持ちが大きい。」「うまくいく人は失業手当をもらわず、ダメな人は失業手当をもらう。」「うまくいく人は「投資」をし、ダメな人は「貯蓄」をする。」などとても気になるフレーズが紹介されていました。

 まず、準備について言えば、起業するから改めてする準備なんてないし、結局、起業するための準備って本気か否かだけだから、本気の有無など準備はできない。完全にポテンシャルの問題だから、準備したから本気になることもない。準備とは本気のことだろうから、確かにダメな人は本気ではなかったと言える。

 小心者は決して悪い性分・気質ではないのだから、気持ちが大きければ世の中渡っていけると考えることがナンセンス。起業して20年、未だに小心者道をまっしぐらである。一度でも大きな気持ちになりたいものだ。

 失業手当など眼中にはない。だって、仕事を辞めた状態を「失業だ」と思ったことがないから。

 投資については、何が投資なのか実際しっかりと理解できていないし、投資と貯蓄の関係についても、すべて「たまたま論」であり、「結果論」だと考えているため、結果、これで投資ができていたということになるのかなと考察する程度の実感しかない。

 石の上にも3年、起業3年目の壁は想定以上に高い。就業して3年目に転職した私はこの3年というサイクルが何かを考え何か行動する時のとても適正なサイクルだと常に考えている。

 まぁ、仕事の成果を左右するのは勿論「習慣」だけではないが、微妙な「習慣」のさじ加減で3年間の振幅が大きく変化することも実感しています。

CUBE

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 少し涼しくなってまいりました。秋の夜長、どうしても観たくなる1本っていう映画あるものです。

チャンプ、かもめんたる。

 秀逸な2本のコントをありがとうございますって感じ。結果、8組登場したが、他の7組は数合わせ!?とさえ思えるほどの秀逸なコントでした。新チャンピオン、かもめんたるさん、おめでとうとございます。昨年からずっと実力は間違いなかったが、ハネ方のタイミングでバイキングさんだった。内容的にはかもめんたるさんなんだけれどなぁ・・・という思いずっとがあり、その思いが昨日の2本で「やはり」に変わりましたね。確かいにノリの部分では他の7組が世界観を創っていた。しかし、地肩というかポテンシャルはひとつもふたつも頭が飛び抜けていました。ということで、当然のチャンピオンでしょう。何回も頭の中で2本のコントを再生してもその組立は秀逸です。やはり、チャンプは凄い。

 「ピエロのプライド」「白い靴下」、う~ん、絞り込んでるなぁ~とうカンジで唸ってしまいます。

何もない。

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 何もないが何かある場所。いろいろなモノが飽和しているが何もない場所。つくづく人次第なのだと考えてしまいます。

いい風景。

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 いい環境ですね。ここに来ると無性に落ち着きます。何事も無性って大切ですね。いいタイミングでした。

1000冊の本。

 ホリエモン氏はほんとに優れた化学者でありマジシャンでありクリエーターである。が、決して賞賛しているわけではなく、これはただの感想だ。時間があったからネットに繋がらなかったから1000冊の本を読んで気づいたことがあると本を出せば売れるのだから。大切なのはポテンシャルでもスキルでもなく、タイミングなのだ。このセンスは天賦の才だ。つまり、これが原因と結果の法則。

 で、何を気づいたのだろう?あのホリエモンが気付いたことだから知りたいという衝動がアマゾンの購入ボタンをクリックさせているのだから、どうやらポイントはそこにあるようだ。つまり、まず、種を植える前に畑を耕せ。畑を耕す前に自分の畑を確保しろ。吟味検討して確保するためにはどんなチカラが必要なのか?ということだろう。

 私は1000冊の本よりも1000人の人かなと思います。本も読み方次第だが、人も接し方如何です・・・。ということは1000冊の本よりも自分次第となるのかな、やはり。

i-Phoneのこと。

 三つ巴の戦線が始まった始まったといつもの感じ。一人目の購入者がテレビカメラの前で笑っている。この笑顔の実態は何か?非常に興味がある。それぞれ3社が他社との差別化でどうのこうのという戦略も、ITコンサルタントのフリップのすみ分けも別段興味はない。ただ、この三つ巴の戦線には何があり、3社の社長のあのつかみどころのないコメントと笑顔は何を意味するのか?

 私自身は、i-Phoneに対してどの触手も動かない人なのでからかもしれないのですが、別段、スマホ自体を肯定も否定もしていない。ただ、無尽蔵なアプリはつまらない。携帯する電話にしては大きい。ゲームはつまらないので携帯する端末にあのサイズは必要ない。ただこれだけなのだ。そもそも、なんでもかんでも複合機化して多機能化することを「進化」や「技術革新」や「便利」だと啓蒙され続けている仕組みがNGなのだから、相場が下落するから本来の機能は据え置き余計な創り手本位の便利さを押し売りされるのはNGだという真理である。便利さはユーザーもそれなりに考えがあり、道具として価格と費用対効果を見極める力は持っているのに、のに、消費税を上げて、法人税を下げれば、給与が上がるという直線的な思考の情勢に依存してしまうのである。商売をしていれば、消費税も法人税も給与もすべて死活問題だ。最後の最後で郷に入っては~で統括できるという節が細いのだ。

 さて、i-Phoneというツールは何だろう?アップルの狙いは何だろう?この疑心暗鬼に対する仮想の答をシュミレーションできるアプリかゲームがi-Phoneにあれば買ってもいいかな。でも無理だろな。その答は0と1の間に潜んでいるのだから。

 だから、今回もi-Phoneはスルー。

ゲーム、ゲーム、ゲーム。

 ゲーム産業、スマホ・タブレット産業、アニメ産業が熱い。というよりも暑苦しい。一回、冷静になってみるとここまで熱くなる必要はないのではないかという考えが頭の中に充満する。クラウドがこれらを加速させた根底にはデジタルコンテンツへの期待値が適正値を超えたあたりから底なし・青天井化現象になっているような気配がする。直感で経済の振興が実現するのであれば藁をも縋るで生産性の法則は成立しているように見えるが猛進と盲進の進撃はどこかで止まるはず。みんで渡っているのが、さて、青信号なのか赤信号なのか?来る2020年あたりにはその結果が一部具体的になるだろう。ボノはデジタル機器が世界に公平を齎したと言っていたが、この場合、「公平」とはなんだろう?貧富の格差だけではない微妙なバランスがこのフラット化で崩れているとしたら、社会構造としての貧富の格差は変わらないとさえ疑心暗鬼になる。では、何が公平になったのか?冷静に捉える五感をフル活用して、捉えたモノだけで揃えたパーツで何かを再構築してみよう。放つために一旦、循環を止めたい。

大野ダム。

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 台風の爪痕。自然災害の脅威。人知の届かない巨大な力を痛感する風景です。この現実から何を学ぶのかなのだが心中はまだ台風が吹き荒れている。いろいろな気持ちが沈殿するのをただ待とう。

論理を切り取るツール。

 論理はループだから切り取り再構築しなければコンテンツにはならない。その切り取り方や再構築の手法のスキルの優劣でコンテンツの価値が変化する。論理はすでに偏在しているモノ。コンテンツはその一部分をカタチにしたモノ。この関係をデザインの仕事では意識化に据えておく必要がある。しかし、その意識も経験値だけでは手に負えないケースが多く、自分の度量や器量が毎回試されているという構図なのだ。見えているのに見ていないモノ、聞こえているのに聞けていないモノ、触れているのに触っていないモノに意識を集中するために身体機能の限界を補填するのがツールだと考えて間違いないだろう。ツールについてどこまで精通できているか?同じツールを使ってもスキルは適正か?確かめることは無数にある。無数にある分、楽しいのがデザインの仕事。だが、苦しい面と表裏一体。

 手に負えない場面で、何を考えてきたか、今、何を考えて、これから何を考えようとしているのか、このループと普遍の論理がシンクロする瞬間のサインを自分自身のツールでデスクトップにカット&ぺーストしなければならないのである。つまり、スペックは高ければ高いほど包容力があるということ。ただ、包容力だけでは蓄積し過ぎCPUへの負荷となる。また、マイエンジンのスペックをフル回転させるエネルギーの確保も必須だし、切り取り方のテクも重要。切り取り過ぎて食べ過ぎても消化できなければ栄養にはならないし、変化する自分のさじ加減のチューニングを都度調整しながらのカット&ペーストが大切なのですね。

じぇじぇじぇ!

 そろそろ流行語大賞の候補がいくつか浮上してきている。「お・も・て・な・し」もメモリアルなフレーズだし、「今でしょ!」も混迷の時代を見事にいい意味で切り裂いた。中でも、テレビドラマ「あまちゃん」の「じぇじぇじぇ!」はなんともいい響きだ。

 今年は特に猛暑からのゲリラ豪雨に先日の台風と3.11からか大震災からなのか分からないが、リーマン意外の天災による震撼が日本を絶え間なくタイトに攻め続ける。耐えることに対してポテンシャルの高い日本人でさえこの天災の疲労は相当蓄積している。経済と天災がここまでボトム感に襲われ続けると、もう、いくらタフな国民でさえ思考経路を失う。「頑張ろうニッポン!」では頑張れない。2020年、ぜひとも東京にはハネて頂きたいが、それまで霞を食べて暮らすわけにはいかないので、ヘビーなアクシデントもハプニングも「じぇじぇじぇ!」といなしたい。

ホテイ草

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 美しい色彩・配列、そして、しなやかな生命感です。このパターンはどんなモンスターCPUでも絶対に書き出せないだろうなぁ~。

情景描写。

 そもそも心象を描写することと情景を描写することを比べたら、明らかに情景を描写することが得意だったはずがいざ文章で何かを伝える、イコール、心象を語るべきみたいな先入観に捉われていた。ブログも匿名性と抽象性であえてフォーカスを緩くすることに終始し過ぎ、本来言い切り型の人間が微妙な文脈のテクニックを得たかのように曲解しつらつらと書いては満足していた。仕事で広告用のコピーライトをチェックしている時もそう、伝えるべき内容を心象で捉え過ぎ、結果、結論はどこかへということで、コピーライトの真髄を極めたような錯覚に陥っていた。一番伝えなければならないこなどどこかに丁寧にしまい込んで伝えたいことを隠しながら語るテイに泥酔していた。これが意外と気持ちいのだ。ええっ!ここまで言って感じられないのなら何を言っても伝わらんぜ!と隠し捻じ曲げフォーカスを緩めることがテクニックだと。でも、言い切り型の人間だからそれが心地いいみたいな感覚。

 いい例がこの文脈と論理。何を言いたいのかは避けている。間違いなく避けている。これは、恐らく世の中のブログ論理やSNS論理に引っ張られているのだろう。言い切れば痛い目に会う世界だからだ。この論理が世界中をハリケーンのように全ての真理をなぎ倒しているとしたら厄介だ。たかがデジタル信号が形作るこの画面に何がある?何もないことありきでただのデジタル信号に真理は転写できない。まだ、そこまで人間はデジタル信号を信じる能力を得ていないのだから。

 目の前で末尾のカーソルが点滅している。CPUのリズムに同期するように、キーを叩く。打ちこまれるテキストが変換キーでネガからポジに変わるリズム。どこで終わるのか?まだ、何も始まっていないのに。

好き嫌い。

 損か得か、正義か悪か、よりも好き嫌いの判断力が実は仕事やライフスタイルにおけるセンスと深く関係している。好きだから嫌いだからという判断の基準は、損得や正義の基準よりも感性に繋がるバイパスが太いのだ。特に仕事だから利益を追求しているのだらと利益率や効率のことばかりに判断の軸を置くと直感的な判断力のセンスや長期的な展望を描くビジョンの構築・構想力に響かない。響かないというか直結していないということでもあるのだが、心の中で起こっていることだから解釈はどうにでもなる。なるとしても、なるとすればするほど、センスのある判断力は低下する。好きな理由を頭の中に並べる前に私達は好きか嫌いを判断している。この感覚こそがセンスなのだから、得だから嫌いモノを選択したり、悪い行為だが好きだから選択したりする時に、このセンスが磨かれるのだ。さて、そこにある軸とは何だろう?よりつきつめた自分の存在を明確にすればするほどその存在を強く意識できる。

 しかし、意識したことが言語化されたり理論化して体系化されると同時に、必ずこのセンスの鮮度は低下するから非常に厄介だ。好きと嫌いの間には想像以上の深い谷がある。

にぎわいの本質。

 「にぎわい」を検索したら、「中心市街地ににぎわいを創出する、お客が回遊すれば商店街が活性化する。よく聞かれる文言ですが、ぶっちゃけ、何が言いたいのかよく分かりません。商店街活性化の原動力らしい「にぎわい」とはいったい何か?どうすれば生まれるのか?「商店街活性化」のような人の人生や財産を左右する仕事を仕掛けていくにあたっては、使用するコトバの定義はしっかりしておきたいもの。ぼんやりした理解をもとにあれこれ取り組んでいると、賑わい~回遊~活性化が実現する、ということなら別ですが。にぎわいをこういう意味で使いますと、「にぎわい創出」・通りが賑わえば、商店街・個店が繁昌するようになる、繁昌を実現するための「手段」では無いことが分かります。お客の消費購買ニーズへの対応をテーマに売り場・店づくりに取り組み、それがお客に評価された結果として「店がにぎわうようになる」というのが「賑わう」ということです。「賑わい」に限らず、商店街にはだれもが当たり前のように使っているが、あらためて考えてみると“どうも意味がいまいちはっきりしない”というコトバがいろいろとあります。」という分析を発見した。

 逆を言えば、「人が集まれば表面的ににぎわっているから、納得しています。商売の本質や未来への展望はもう諦めたから、予算を消化して来場数だけの瞬間風速を上げて、にぎわっている風景だけを目に焼き付けたい。これ以上は私達の頭で考えてもアイディアも工夫点も企画も出てこないのですから。仕方がないでしょう・・・。」というひらきなおりとも受け取れる。これではお祭りの屋台感覚レベルだ。仕事も商売もその本質は、瞬間風速も欲しいが、追い風も向かい風もあることを知り、自分の足で経済やビジネスのルートを歩くことでしか築けないはず。目の前に人参をぶら下げられて猛進している馬のような仕組みはにぎわいではない。それは、ただの短命的な「興奮」だ。運営している携わっている人達だけがアドレナリンを欲しいためだけに予算が消化されているとしたらこの行為は「興奮」でもなく「消耗」だ。「にぎわい」の看板を掲げ「消耗」の道を歩いている人達に恐らく幸はないだろう。消化試合に集まった少ない観客だけでフィールドでのプレイが楽しいのか?本質的なにぎわいとは天下分け目の頂上決戦の演出から生まれる。もう、予定調和の「勝ち」と「価値」が見え透いているゲームに本当のアドレナリンは出てこない。絵空事が大衆の総意にドン引きされないように。小手先の壊れかけたロジックでお茶を濁すぐらいなら、「にぎわい」よりも「沈黙」の方が気高く至高である。

仕事のカン。

 ある雑誌が「上位3%の人だけが知っている 仕事のカンの磨き方」という特集をしていた。その道のプロの記事を中心に成功事例・成功体験の紹介だろう。「仕事のカンがいい人と悪い人」の比較や、プロスポーツに置けるチームの絆のつくり方という視点でインタビュー式の原稿が特集として展開されているのだろう。

 仕事のカンと言えば、スキルを指すのか、ノウハウを指すのか、キャリアを指すのか、メンタル術を指すのか、もしくは、ネームバリューを指すのか?

 例えば、集客イベントを開催する時、その主体となる面子がプロでない人達の集まりである場合、恐らく存在するのは一定額の予算と熱意だけだ。しかし、過去に成立したことだけを時系列に捉え、狭い視野でその感触を達成感だと誤認してしまえば、予算のある限り、イベントは開催されて、「集客」が成立したかのような構図になる。しかし、人を集めることだけが目的ならいいが本質は活性化とブランド化。日本中どこでも発生しているこのダブルバインドを活性化するにはどんな「カン」が必要なのだろう。

 「仕事のカンの磨き方」というこの雑誌の特集記事と、飽和しているこの活性化への葛藤・挑戦は、どこかで繋がっているように感じた。来る2020年に向けて考えなければいけないことはいろいろある。

老人と海。

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 以前に何回か読んだ一冊ではあるが、今日、改めて「老人と海」を買った。さて、何冊目だろう。以前、何度か書庫にあった一冊だが、引っ越しの度にどこかに行っているからである。今現在、書庫にはない一冊。だから、しかし、改めて「老人と海」なのだ。人間が書籍を選ぶというよりも書籍が人間を選ぶようなタイプの一冊だ。

本気の対話。

 この1ヶ月ほど本を読んでいない。すると日々の思考がいかに読んでいる書籍の内容に引っ張られていたのかということに気がつく。恐らくテレビや音楽など気がつかないうちに相当ひっぱられていたのだと気がついた。頭の中を何かで満たしていたいからという本能だろうか習慣だろうか、とにかく、いっぱいにしておきたかったというのが真理だろう。よほどのことがなければこのようなトライはしないのだが、よほどのことが起こったのだ。少しづつ少しづつ有益無益に関わらずノイズが減ると心の中が澄んでいく感覚になり、それまで雑音でごまかしていた自分の気持ちやうそぶいて開き直っていた気持ちが見事に沈殿していく。その代償にそれまで沈殿していた不安や後悔や焦燥が一気に舞い上がった。つまりこれらを黙殺するためにノイズを満たしていたということなのだ。ようやくその状態になったのだろうと自覚している。すると、それまで黙殺していた不安や後悔や焦燥が実は棚に上げておくべきモノではなかったことに気が付いた。不安や後悔や焦燥こそが自分の本体であり本質なのだから、「お前はいつまで雑音で体裁だけ整えてごまかし続けるんだ!」ということになる。その声をイマドキのスピリチュアルの世界観で捉えようが、自己啓発と安易に言語化しようが、体裁はもうどうでもいい。情報の中のノイズを有益な生産的なパルスに変換するためにまだまだ本気の対話をしていこうと考えている。自分と本気の対話ができない人間に誰かの心を動かせるはずもないと。若い頃ならばノイズを次から次へと引き込んで刺激を楽しむのも生産的だと誤解できただろう。それが過渡期であるならば、足し算に掛け算を繰り返していれば正解を導き出せただろう。しかし、裏から表にベクトルを向けたいのなら、このタイミングで自分自身を再構築しなければならない。

芸術の価値。

 テレビである芸術家が「芸術とは本来価値のないモノだ。」と言っていた。この言葉の真意はよく分からないが、この人にしてみれば本来価値のなかったモノを私がピックアップしたことで価値に変換することができたのだといいたいのか、価値があるのかないのかという判断の規範を私はこの作品で世の中に示していると言いたいのか。それとも「価値がない」というコメントに価値があるんだという相対性で芸術を語ろうとしているのか、言葉の論理は難しい。

 登山ブームで売れた商品ベスト3で、第3位は登山用のシューズで、第2位がザックだった。そして、第1位が酸素だったというデータがある。酸素?酸素は地球上に存在する価値のあるモノ。それをパッケージ化したプロダクツが市場の反応を勝ち取った。はたまた、水ブームはどうか?水も酸素も地球上にそもそも存在していたモノ。つまり、本来価値のあったモノの売り方次第で価値は強調されるということなのか。絵画・彫刻・舞台芸術・建築物・音楽・文学、全て価値の有無で判断するのはいかなものかと。

 デザインの仕事は水や酸素と比較すれば人類の生命を維持するのに必要のない、つまり、価値のないものにカテゴライズされるが、芸術と同様にデザインの価値は人間が生まれる前から地球に存在した価値ではなく、人の思考や生活が生まれた時から存在しているモノ。人の心が生み出したタイプの価値なのだから、誰かにとって価値があっても誰かにとっては価値のないものだというムラは必然。この誤差とも摩擦とも呼べるムラにこそ心の実態だと仮定すると、芸術の価値はそのムラを視覚化している成果物だとも言える。そこには英知や技術や思考が組み込まれた構造物としてのムラがあり、美しくも醜くもその存在感を示しているのだろう。

確かに、テンションは上がる。

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 確かに、この楯の存在はモチベーションを上げてくれます。上げてくれますが、上げ過ぎてもロクなことがないのも勝負の世界。今回は猛者揃いなので、私が上位に食い込める余地はないだろう。当日はトーナメントの準備や運営でその合間に釣りをする程度になるだろう。計量風景から表彰式とこの3個のタテが3名の手に渡されるまでをしっかり記録したいと思っております。誰だろうなぁ~!楽しみ楽しみ。
ほんと、参加頂いた皆様、ありがとうございました。

マジックキャスト公式ブログはこちらです。

困ること。

 「電池が持たない」「料金が高くなった」「日当たりのいい場所だと画面が見づらい」「フリーズ、リセット、データが消えるなどトラブルが起きる」「気づかないうちに画面に触れて電話をかけてしまった」「片手で操作しづらい」「文字入力がうまくできない」「電波がつながらないところが出てきた」「字が小さくて読みづらい」「タッチパネルが上手く操作できない」「目の疲れ、首や肩コリがひどくなった」と、スマホに対する困ることは結構な項目があるらしい。でも、スマホは「便利」なんですね。辛いことをリアリティーに上手く変換させられているような気がしますが、それでも「便利」。さてさて、この「便利」の意味がどうやら通信技術やインフラの進化といっしょに進化したようだ。

1万4,000人減!?

 今年の富士山夏山登山の入山者数は意外に1万4,000人の減だったらしい。世界遺産ということで、受け入れ側が慎重になり、マイカー規制や弾丸登山への警告を強化した結果らしい。入山料のお話なども結果、逆効果だったのだろうか。登山ブームにのっかり昨年よりも多くの入山者を関係者は期待していたのだろうが、なかなか市場は思惑通りに反応しなかったみたいだ。これが、来年以降の世界遺産富士山の運営に影を落とさなければいいが。確かに、8月14日の富士宮登山口は昨年より人数は少なかった。