にぎわいの本質。

 「にぎわい」を検索したら、「中心市街地ににぎわいを創出する、お客が回遊すれば商店街が活性化する。よく聞かれる文言ですが、ぶっちゃけ、何が言いたいのかよく分かりません。商店街活性化の原動力らしい「にぎわい」とはいったい何か?どうすれば生まれるのか?「商店街活性化」のような人の人生や財産を左右する仕事を仕掛けていくにあたっては、使用するコトバの定義はしっかりしておきたいもの。ぼんやりした理解をもとにあれこれ取り組んでいると、賑わい~回遊~活性化が実現する、ということなら別ですが。にぎわいをこういう意味で使いますと、「にぎわい創出」・通りが賑わえば、商店街・個店が繁昌するようになる、繁昌を実現するための「手段」では無いことが分かります。お客の消費購買ニーズへの対応をテーマに売り場・店づくりに取り組み、それがお客に評価された結果として「店がにぎわうようになる」というのが「賑わう」ということです。「賑わい」に限らず、商店街にはだれもが当たり前のように使っているが、あらためて考えてみると“どうも意味がいまいちはっきりしない”というコトバがいろいろとあります。」という分析を発見した。

 逆を言えば、「人が集まれば表面的ににぎわっているから、納得しています。商売の本質や未来への展望はもう諦めたから、予算を消化して来場数だけの瞬間風速を上げて、にぎわっている風景だけを目に焼き付けたい。これ以上は私達の頭で考えてもアイディアも工夫点も企画も出てこないのですから。仕方がないでしょう・・・。」というひらきなおりとも受け取れる。これではお祭りの屋台感覚レベルだ。仕事も商売もその本質は、瞬間風速も欲しいが、追い風も向かい風もあることを知り、自分の足で経済やビジネスのルートを歩くことでしか築けないはず。目の前に人参をぶら下げられて猛進している馬のような仕組みはにぎわいではない。それは、ただの短命的な「興奮」だ。運営している携わっている人達だけがアドレナリンを欲しいためだけに予算が消化されているとしたらこの行為は「興奮」でもなく「消耗」だ。「にぎわい」の看板を掲げ「消耗」の道を歩いている人達に恐らく幸はないだろう。消化試合に集まった少ない観客だけでフィールドでのプレイが楽しいのか?本質的なにぎわいとは天下分け目の頂上決戦の演出から生まれる。もう、予定調和の「勝ち」と「価値」が見え透いているゲームに本当のアドレナリンは出てこない。絵空事が大衆の総意にドン引きされないように。小手先の壊れかけたロジックでお茶を濁すぐらいなら、「にぎわい」よりも「沈黙」の方が気高く至高である。