2013年10月 アーカイブ

営業力

 書籍やセミナーいろいろな場面で「なんとか力」という言葉が百花繚乱だが、実は一番企業が大切な「力」は「営業力」だ。それを細分化してなんとか力というのは浸透しているかに見えて、それら全ては「営業力」で包括できる。

 若い頃、デザインの仕事だけをしていたデザイナー時代には、実はどこか「営業」という仕事を軽視していた。「営業?」みたいな、どこか、飛脚のような潤滑油のようなハブのような、あまりビジネスの中核には影響のないポジションという印象だった。ほんとにどうしようもない若造だったのである。デザインの仕事とはデザインが売りで営業さんは伝達手段であり、主軸はデザインを考えて創っている私だという誤解のドストライクだった。はずかしいというよりも視野が極狭だっただけ。

 さて、現代、なんとか力がここまで交錯していると、うん?仕事に一番大切なのはなんという「力」だ???となる。しかし、よくよく考えてみれば仕事を創っているのは「営業」の力だ。パソコンの前で眉間にしわ寄せてキーボードを叩いている人ではない。スタイリッシュなテーブルに洋書片手にブレイクしている野郎ではない。まして、モノヅクリモノヅクリと呪文のように唱えている信者でもない。それらをつなぎ合わせてクライアントの意向やタイプや特性を見極めて仕事が成立するようにリアルタイムにチューニングしているは「営業」なのだ。

 30歳でそれに気がついた私は本当に幸運だった。だから、今があるのだといつもそのことを考えるとと変な汗が流れる。

陽だまり

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 まだ、どんな物語かは知らない。予備知識もなしで、今、原作を読んでいる。非常に楽しみだ。この想像している状態が一番楽しいのかもしれない。

パラレルな知性

 「知の条件」とは?などと大きなテーマがどう展開されているのだろう?とても興味がある書籍です。「専門的知」と「市民的知」をつなぐ鍵はどこにある?危機の時代における知性のあり方を問う哲学エッセイ。というこのフレーズには興味をそそられる部分が多々ある。「パラレル」というフレーズに一番強く反応していることを自覚しつつ、それが哲学的にどう組み立てられてるのか?読みたい満載の書籍だが、今はやめておこうと思っています。理由はいくつかあり、私自身には今整理しなけれいけないパラレルな要素があるからだ。恐らくこれが「つなぐ鍵だ」と言及されてもそれを素直に受け入れたくない体制にある。まして「哲学的エッセイ」というニュアンスには正解がないだろうから、今はとにかくいろいろな思考を明確にしたい体制なので自分自身の思考をぶれさせたくないという保護の本能か、一旦その興味は置いておいてとりくむべきことを優先しようとするリミッターか、それはどうとでも捉えることができる自分のさじ加減なので、とにかく今はNOが適正な判断。パラレルに哲学的にエッセイ的にどんな正解に向かっているの知りたい読みたい気持ちは抑えようと思っている。この気持ち(判断)にも意味があるのだから。

タブレット

 「タブレットの普及は急速に進んでいる。2013年9月に米国IDCが発表した予測によると、2013年10~12月期におけるタブレットの出荷台数は、パソコンの出荷台数を上回るという。こうしたトレンドはエンタープライズ市場にも広がっており、タブレット導入を検討している企業は急増している。」という情報はよく目にするが、タブレットを売るためには便利さを訴求し、世の中の急増感をどのようなデータで市場に伝えるかで結果タブレットの普及率の速度と深度が決まる。マスからの情報はいつもこのパターンだから、非常に捉え方の枠が大きく荒くなってしまう。パソコンの出荷台数よりもタブレットの出荷台数が上回るのは当然の流れだから特筆することではないとしても、「タブレット導入を検討している企業が急増」の下りはどの程度の急増なのかが分からず、ポータブル性とバッテリー容量がどこまでビジネスの多様な現場に適合するかにつきるだろう。さてさて、手札・手ゴマにタブレットは本当に有効なのだろうか?世の中がこの段階に来ていてもまだ決定的な導入理由が見つからない。

手書き

 「手書き」で一旦頭の中のモノを描き出すという作業はいろいろなメリットがある。こんな時代だから、手書きもタブレットのタッチパネルでさらさらが旬かもしれない。スマホのアプリで見事なリアルタッチをテレビで披露していた人がいたが、つまり、そういうこと。上手い人や描ける人は道具はなんでもいいのであって、その映像を見て同じアプリをダウンロードしても同じ絵は描けない。描くというこはそういうこと。

 手書きよりもパソコンやタブレットでデジタルデータにすれば「早くてキレイ」という先入観があるが、それは、描けない人がそれらしくできる補助機能を指して「早くてキレイ」という価値。イメージできて描けるならば紙と鉛筆がベスト。なぜなら、OSが起動する前に2~3枚描ける上に、手書きのスケッチにはソフトやアプリで描けない情報を直感で紙面に記録できるから。ましてや、アイディアはどこでも出て来るので、パソコンやタブレットがない状況でも「手書き」は有効なのだ。

 「手書き」のラフスケッチとは表現手法上のテクニックであり、デジタルデータとは比較できない重要な情報とディテールの集積なのだ。アナログだからデジタルだからと過剰に気負う必要はない。どちらも活用すればいいし、どちらも利点がある。

 スタイルを極めるということやセンスを追求するということは選択肢を収束することではなく、広いレンジの中から一瞬で適正な方向性を判断できるかで、狭い視野と偏った感性で同じ答を出し続ける意地ではない。その状況、リセットするのかしないのか?諦めないのか諦めるのか?突っ込むのか放棄するのか?判断する時間が短いほど伝導率が強い。

 白い紙に鉛筆で描くラフスケッチのようにマウスとキーボードでグラフィックソフトを自由に操れたらそれはモノホンのツールだ。

モスクワ

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 どんな作品なんだろう・・・。

映画「オブリビオン」

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 2077年か。シンプルな物語だっただけに心に響いた。素敵な映画でした。やっぱりSF映画はいいなぁ~。

MAC復活の狼煙。

 「iPhoneやiPadを使い始めたのがきっかけで、Macへ移行してくる人が急増中。Windowsからのデータ移行、従来使っていた周辺機器、ソフトウェアの代替など、これさえ読めば、イマドキのMacの使い方には困りません。これまであったようで実はなかった切り口で、操作習得にすばやく効きます。」という実用書があるらしい。スマホやタブレットは復活への狼煙だったということか。アップルと世の中のクリエーターの関係が一周回ってスタート地点に戻ってきたような印象を受ける。もう一度仕掛けてくる準備ができているとでも言いたいのだろう。W8がスキを見せているとも思えないのですが、やはり、クリエーターの心を最初に掴んだアップルが次の一手を出すようだ。

デザインハイ。

 地方にいるからなのか、どうも「アート」や「デザイン」に対する誤解に免疫ができてしまっているような今日この頃。正確には免疫というニュアンスではないのかもしれないし、年齢と共に何かが乾燥して潤いが枯渇しはじめているのかもしれない。このあたりの危機感からか、誤解をポジティブに自分のエネルギー源に変換できものかとコンバーターを探している。そんなマジックマシンはどこにも存在しないことぐらいは毎日ネットを見ていれば頭では理解している。ただ、頭と心のバイパスが必要以上に太いので、右脳と左脳の間の脳幹のように太くなればなるほど軸で考えてしまう結果だろう。A色とB色を混ぜて鮮やかになれば、輝けばいいなとは考えつつも、見事に濁ったC色を見て頭はそれを現実と認識しつつ、彩度や明度が上がることを心は期待している。

 デザインの仕事にはアドレナリンが必要だ。ただ出し過ぎると放ち過ぎたモノを回収しなければならないリスクがあり、的を定めて放出するベクトルをコントロールできなければ、アドレナリンの浪費になってしまう。どこかで落ち込んでもどこかのタイミングで上げていかなければ、長いサイクルで振幅が0になる。心拍数のパルスのように血圧のように上限と下限のバランスを良好に維持しながらのデザインハイを自分のモノできるかできないか。

 プロだからモードに入るのは簡単だ。自分の入口をたくさん知っているし、スイッチもたくさん持っている。ただ、適正なエネルギーの放出を見定め出口に向かうタイミングやスイッチをOFFにするのが難しい。燃費は良くなったと思っているし、意外とハイブリッドにハイをキープすることも得意だが、エンジンを止めキーを抜くことも会得しなければただの消耗だ。生み出さなければ壊せないこともデザインの使命。

大切なこと。

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 「ブランド化」という言葉はもう死語かもしれないが、それでもこの言葉は永遠に不滅だ。私はいつも、「いわゆる高級ブランド」が嫌いだ嫌いだと言っているが、実は「過剰に高級」であることに価値を感じていないから。だが、実はそうではない。ブランドとはそういうモノではないからだ。

 例えば「日本のモノづくり」というフレーズはとことんまで絞り込まれているがもう一滴も絞り出せないほど乾燥している。モノが乾燥してミイラ化しているのではなく、そこを掘っても小判は出ないということを知らなかっただけ。存在しない価値にベールをかけて、ただ期待させられていただけかもしれない。でも、孤立した集落にある日、「ブランド」という大きな桃が流れきた。流れてくる時代になったからだ。桃太郎は鬼を退治できると同時に鬼の存在を村人に知らしめた。桃は食べるモノだが、時に桃太郎が出てきて鬼を退治するということもする。桃は美味しいフルーツだが桃太郎を出せることもできる。サンタも天使も悪魔もどこにいる?それは人の心の中に生きている。誰も知っていることが実は桃がなければ気がつかないことが多い。

 大切なこととは、桃は食べたら美味しいということと、たまに桃太郎が出て来るかもしれないということを常に心に置いておくということ。

7パームスさん大会第6戦目参戦。

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 終始雨。時折、例の豪雨激雨状態が続き、計測の時間も表彰式も雨が降っていた。そんな中、普通に準備をして普通にスタート合図を待ち、普通に釣って帰ってくる45名の精鋭部隊(愛すべき馬鹿野郎)。全く五感が震える。あっという間にボートに雨が溜まっていく中、全力の5時間と30分。私の結果は撃沈だったが、なんとも心地いい。五感と身体が馬鹿野郎達に引っ張られハイ状態になっていたのだろう。

 これがホンモノのゲームだ。これに琴線を触れさせて感じたモノこそが次へのエネルギーであり有効なエクスペリエンスなのだ。バスフィッシングでなくともこの構図は同じ。ブレインワークが仮想空間の中でどんな答に辿り着くか知らないが、それは浮遊するチリや細菌より意味も価値もない。クリーンな無菌室仕様の仮想電脳空間で五感が震えるとしたらそれはかなりのリハビリが必要だ。その場所にあるリアルしか答を解くカギも方程式もサインへも変換は不可だから。

 実際、腰も腕の筋肉もパンパンだが、心の中のエネルギーは満タン状態だ。

創造する脳。

 茂木さんの本は実はあまり興味がない。が、「誰もがクリエティビティを発揮できる!創造性の最高形態、それは自分自身が変わることである。」とし、タイトルが「創造する脳」となればスルーはできない。「創造」とは何かについて茂木さんが自らの体験からどのように分析して精査しているかが最も興味のあるポイントだが、あえて脳を「創造する」としている構図にも興味が湧いた。この手のアプローチに対してはかなり前にマイブームが過ぎ、少し飽きていただけに、正直、「おっと!」という印象である。

 クリエイティビティについて茂木さんがどこまで言い切っているのか?というところもひとつ読みどころだし、創造についてはどこからどこまでを見てカット&ペーストしておられるのだろうか?と意外と興味が尽きないような気がする。とは言え、今現在は無駄に引っ張られたくはないのでしばらくタイミングを待ちたいと思っている一冊ですね。

 それよりも何よりもキングの新作が気になって気になって・・・。

小さな会社を強くする。

 「ブランドづくりの教科書」という書籍が本日アマゾンから到着する。「歴史も宣伝費もない企業や地域産業のための~」というターゲット設定が、この時代どこを具体的に指しているのかを確認したい。強くするためにはアイテムが必要だが、ネットのシステムは一見「アイテム」のような価値だと誤認されやすい。発信しているから価値があるという思い込みが蔓延し世界中が「発信」するツールを手に入れた。しかし、「発信」だけでは何も成立しない。「発信」を価値に変換できる人は元々何かのスキルや商品アイテムを持っている人達だからだ。スキルにもアイテムにもブランド化は適用できるが、ブランド化が成立していても買う人が不在ならビジネスは成立しない。そもそも大きな経済システム・教育システム・慣習氏システムの中で動くワーカーならばそこまで考えて行動する必要はないが、小さくとも会社を強くするという書籍を世の中に出したのならと、それ相当のバリューをこの書籍に期待して購入した。

 「トップカテゴリーになるために~」という下りがあるが、「トップ」を意識して本質を見失うとブランドどころの騒ぎではなくなるはずだし、この著者の気質や性分や潜在的な論理が自分自身のストライクゾーンに入ってくることを期待する。

 また、どうしても読みたくなり、地元の書店で物色したがキングの「ファイヤースターター上・下」がなかった。アマゾンでチェックすると、上・下それぞれ違う古本屋さんでリサーチできたので、別々に購入。「上」はカバーなし、「下」はふちがかなり擦り切れていた。でも、欲しい人は買うです。こんなロングブレスな成果物を創りたいものだ。

 小さな会社は日々、試行錯誤の連続です。

能登川伊庭内湖へ。

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 初めての能登川伊庭内湖へ。アクセスもとても便利でこんなに近くにいいフィールドが。小手調べに6時間。楽しかったです。さてさて来週はどうなるのでしょう?

秋晴れの伊吹山

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 しばらく登っていない。雪が降る前に一回登っておきたい伊吹山。今日は秋晴れに映えとても美しかったです。

ワンオク。

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 悪い癖だがいいモノにも悪いモノにもすぐに理由を求めてしまう性がある。背景だとか理由だとか。いいことも悪いことも素直に受け入れる一歩手間で自己というバリアというかフィルタを一回通さないと飲みこめない悪癖。このフィルタが同時に出る時にも作用して食べた消化した栄養になった。そして、エネルギーになったのに、便秘気味みたいな。何かと比べてどこがどうのという捉え方が相対的だとしたら、いいものはいいと判断している状態は絶対的だと言える。長方形の画面からのみ情報を得ていると情報のディテールが画一化してフィルタなしでもいけるんじゃない!?と警戒モードを解除する。入れてもあまり質量がなくリアリティーもないから消化もできず栄養にもならない。挙句の果てに省エネ時代で効率的だけが行動の指針。エネルギーの備蓄残量もないくせに省エネであることだけが唯一のホコリ。どこかの電力会社のフレーズのようだが、つまり、エネルギーを生み出す効率が悪いのではなく、エネルギーとは何かを知らないのだ。不思議な法則があって、エネルギーを知っている人はエネルギーのある人を知っているのだ。

 エネルギーとは何か、それは、スキルやセンスやポテンシャルの内側のフィルタのさらに奥にある存在であり、DNAだと言えばそれまでだが、DNAでは言葉が足りないような気もする。

 ワンオク、いいぞ。

センスのモノサシ。

 センスを測定するモノサシはない。原器が存在しないからだが、だから、センスは多様で相関性がありいろいろな状況で多用されるのだろう。さて、センスとは感覚です。感覚とは五感です。デザインの仕事はほぼ視覚情報の操作なのですが、最近の情報技術の進化やデバイスの進化で音のセンスもデザインの仕事には取り込まれ視覚情報と合わせて音源との組み合わせもクリエティブのクオリティーを上げる要素として見聞を保有しなければいけない時代になった。とは言え視覚情報のエキスパートでなければならないと同時に、ただ視覚化することの背景にある理論や心さえ総合的に成果物に対して利用活用適用しなければならいなという意識がより強くなっている。職人技でグラフィックデザインが成立していた時代はツールと手のスキルが完成度に深く関連していたが、スキルの部分をかなりソフトウエアが担うことになり、デジタルコンテンツの創り方から技術的な価値が一見消失したかのように思われてる。確かにソフトウエアはなんでもできるが、同時に誰でもできるというフラット化をデザインの世界に浸透させた。フラット化された均一な品質を創りだすスキルを誰もが苦労せずにソフトウエアで手に入れてしまったから手の技を持っていた人が過去の遺物になり、必然的に淘汰された。では、一見消失したかのように思われてる職人達の技術の価値はどこへ転用されたのか?そのスキルはソフトウエアには転用されなかったのか?ソフトウエア自体がツールでありそのスキルはマウスとキーボードが使えれば誰でもどこでもコンテンツを成立させていると思い込んでいるが本当にそうなのか?

 ここでセンスのモノサシが登場してくる。コンテンツの優劣を決めるのはもう手の技の技術レベルではなくなり、PCとソフトウエアがあれば誰でも均一なコンテンツを創れているということは誰も疑わない現実だが、この「創る」が「創るだけ」になっていることを測定するために「センスのモノサシ」がまだ有効なようだ。デジタルコンテンツの創り込みの条件はもう技術の高低ではなく、創る気持ちの量と時間でフォルムが確定し、残りののびしろは創ることに関わっている人の気持ちで左右するのだ。しかし、このモノサシはかなりの自然環境で伸縮するモノサシで、実のところ、創り手の手に負えないぐらいに伸縮をする時がある。気持ちもロジックも「本気」なのだが、外因的要素で伸縮するのだ。気温で変化する元素のように。分子間の運動量は環境条件が同じならば継続して元素を繋ぎ続けるが、外因的な要因でモノサシが長くなったり短くなったりする。この振幅をご本人がどこまでコントロールできるか・・・が、実はセンスというモンスターを制御する技のような。内因と外因に相関させてセンスという生き物の振幅を動的にコントロールする技。これが実はデザインの仕事の本丸だと思うのです。

 どんな外因要素で私のモノサシは長くなり、どんな内因要素で短くなるのか?このテーマはブログではなく、改めてしっかり別のカタチで整理したいテーマですね。

成人力。

 いろいろな「力」が現代には必要ですが、なんでもかんでも「力」を付ければ新しい切り口になるというセンスはさじ加減を間違えるとナンセンスになる。つまりリテラシーというニュアンスなんだとしたら、この「成人」という力は「大人感」のように捉えられるのかな。「大人な判断」「大人のコメント」「大人の雰囲気」いずれもどこか何かが表裏一体のような語感が感じられ、裏があって初めて大人だみたいな包括力も感じられなくもない。思考力の部分と行動力の部分のバランスを指してバランスのいい状態を「成人力」と捉えているらしいが、つまり、心と身体という関係性が大人力にもグローバル化にも仕事の現場にも求められている。一見、社会性かなとも思えるがもっと主観でいいようだ。さて、心と身体、メンタルとスキルの関係性がどうやら今の時代を反映したフレーズのようだ。心を仮想、身体を現実と捉えるもよし、心を思考、心を行動と捉えるもよし、心を闇、身体を光と捉えるもよしなのかな。

見える化から言える化か・・・。

 情報化時代だからというわけではないのでしょうが、時代の流れは「見える化」からどうやら「言える化」時代に移行しているようです。例えば会社組織の中で、社長になんにも言えない人はストレスでつぶれるか職場を離れるという状態を「言える化」することで、不平とか不満ではなく、仕事の本質の部分でしっかり無理ムラ無駄を省き効率的で現実的な成果を追求してくださいというメッセージだろう。逆に社長は社長で大義名分や大きなビジョンはあるが現実的な社員の気持ちを理解せず自分のやりたいことをやりたいようにやっていても成果にはつながらない。古き良き時代のノウハウと精神論だけで現代は渡れないですよというメッセージが込められた「言える化」の導入だろう。スタッフは職を失いたくないから、言われるがまま。それを理解だ共感だ逞しさだとトップは勘違いして現実を黙認する。見えているのに見ていないトップならまだしも、見えないトップならお手上げ。「言える化」が成立するためには、必ず「聞ける化」も必要だから、トップがポンコツだと優秀な社員の「言える化」を受け止められないということなんだろう。アイスクリームの「ガリガリ君」の会社では「言える化」と「聞ける化」の空気を徹底して社員からのアイディアや販売促進手法をどんどん取り入れてヒットを飛ばしているらしい。同じようなこと、ジョブスもグーグルのCEOも言っていたなぁ~。

 日本人は見えていても表情に出ないし、思っていても言えないことが美徳だという空気が放射能のように蔓延しているから、書籍で訴えても根本的な変革は無理だろう。お茶を濁す程度でいつか「そんなこともあったなぁ~」と風化するのだろう。「言える人(考えている人)」って言う相手を選ぶからさらにポンコツが孤立する仕組み。裸の王様ゲームはどこでも起こりうる。

アドビ・イラストレーター

 グラフィックデザインの仕事に不可欠なツールがアドビのイラストレーターというソフトです。他にも無料のベクトルオブジェクトを作成するソフトはあるし、編集系やプログラム系やHTML系のエディター系もあるが、やはり、デザインオブジェクトの作成はイラストレーターがベストだ。現在バージョンはCS6まで来たから16回のバージョンアップをしている。私は英語版から使っているので日本語版のVER.1よりも前から使っている。とは言え、書店に並ぶようなイラストレーターのテキスト本やチュートリアルを全て熟達しているかと言えばそうではない。自分が使う機能しか知らないし、たまに、機能ありきでデザイン表現をチョイスする時もあるが、それはあくまでも「試し」であって、その機能の中から実際に活用している機能は少ない。16段階の全てのバージョンアップを振り返ると実に市場のニーズにシンクロしている。特にWEBデザインと連携させるようになってから、FIREWORKSと比較されることが多いが、それでも、イラストレーターは秀逸のピカイチ。何よりもオブジェクトの構造がシンプルなことがあらゆるデザイン表現に有効なのだ。実際、名刺やフライヤーやカタログなどを作るにおいてもイラストレーターを欠いては成立しない。いろいろドリル化できそうなコツは多そうだ。

モノホンの逞しさ。

 最近、矢継ぎ早に逞しい若者に出会った。人の心を動かす人は大地にその足で立っている。農業に従事しているかとか森の知識が豊富だからという意味ではない。人の心を動かす人は自然の仕組みやリズムや意義や価値を知っている。というよりも見事に共生しているのだ。何かのきっかけで明日から農業をしろ林業をしろと言われたら状況から適正ならばパソコンをチョエンソーに変える覚悟はできているものの、しばらく躊躇の猶予が必要だろう。つまり、覚悟の問題が本気の度合いと比例しているという意味で、大地に立っているということはモノホンだということ。当然、相手が自然だったり動植物だったりするのだから逞しくなる。相手がパソコンだったりソフトだったりインターネットだったりするとそうなるように。結局、生活というのはこのどちらかだったりするから、不器用な人は逞しい。

 どこにでもあるような目標を持ち、どこにでもあるような達成感で満足できる器に問題があるのか、器など最初からどこにもないということ前提で起こる全ての事象を目的だとも満足感だとも捉えずにただ行動の軸をぶらさないということがいかに現代に欠落しているかを知るともでも言おうか。年収1億を目指すことは悪いことではないし、高級車に乗っていることは否定する対象でもない。しかし、最初から最後まで価値感に縛られて終わる人生なのか、価値感を自分のモノにして日々を暮らせるのかで人生の豊かさに根本的な違いが生まれる。誰かと比べて何かが優れているかではなく、自分の中の声に素直に正直に行動できる逞しさがあればいい。

 ご多分に漏れず、そんな若者と出会ってしまうと、49歳とおっさんは元気になれるのだ。挑戦しているひと、観察している人、淀んでいない人は逞しい。

ソーシャルネットワークのマナー。

 例の奇稿事件で企業や店舗はそれぞれにSNSに対するマナーづくりに動き始めたとニュースで言っていた。食品管理をしている冷蔵庫に寝転んだり、衛生上の問題になるような場所に不衛生な行為をしている写真などなど。モラルのお話だが、インタビューを受けている人達は嫌悪むき出しにそんな若者の行為を一括しているという構図。しかし、SNSを日本人特有のマナーづくりで制御はできない。法律を設定して罰則を適用してもこのモラルの欠如は割合の問題だからマナーブックを制作しただけで解消される問題ではない。企業に勤務する人達が職場条件や労働条件の不満やストレスをこのような行為で示す先をSNSの中に見つけてしまったのだから、端末を取り上げることしかできない。しかし、世の中はどんなに強力で管理側に有効なフィルタリングを施してもその網目は荒い。便宜上ということで体裁を整えるしか方法はない。最終的には個人のポテンシャルの問題だからだ。

 さて、そのSNSですが、便利だ魅力的だ最新だと言っているうちはいいが、本当のコミュニケーションはそこで起動はするだろうが、フォローアップもメンテナンスもできない。まして、炎上しトラブルがリアルになってきたらそれを喰いとめる技術は存在しない。だから「便利」なのだということを、スマホを売る人、アプリを開発する人、このデバイスで販促を展開する人達が、心得ておく必要があるのだろう。私自身は確かにSNSはいくつか起動したものの、活用術が見い出せずに保留している。日々、活発に更新している人の記事を読んで、「なるほどなるほど、この人も大変だなぁ~」と思う程度。唯一、このブログだけが続けられているのだが、最初の起動時はブログも「個人からの発信だ!」とモチベーションが高く、アクセス解析結果に一喜一憂していたが、先程の洞察の通り、フォローアップもメンテナンスもできないことに気づいてから、自分で読むためのメモとして活用している。気楽にいつでも管理画面に入り、思ったことや感じたことを綴るだけ。誰が見ているからと意識することはなくなった。つまり、純粋にWEB-LOGとして活用するだけになった。コメントも受け付けていないし、ただ、未来の自分に今の気持ちを文章化して送っているようなツールになった。でも、これが実は一番、ブログの効用だということに気がついた。それは、頭で思っていることを文章化するということは、一見整理しているようで、実は、クリエイトしているのである。この整理する力を文章力だと捉えて「ブログが書けない」と言っている人は「書けない」のではなく、「書く気持ちがない」のである。逆に起こったことだけを記述しているタイプは書く気持ちはあるのだが、クリエイトができていないのだ。ラーメンの写真を掲載して「美味しい!」はカラスの「カァ~!」と同じである。すると、そのラーメンの写真をSNSの中で発見した人が「カァ~!」と鳴く。そして、それが連鎖してSNSの中はカラスだらけ。カラスの「カァ~!」の方が意味があるんじゃないかと思えるほどSNSにはカラスの鳴き声で飽和している。と書いたが、決してカラスを馬鹿にしている訳ではないし、「カァ~!」に価値がないとは言ってはいない。カラスの「カァ~!」にはしっかりルールとマナーがあるが、人間の「カァ~!」はアーカイブには適していないということ。

 SNSのマナーがある人はどんな状況・条件でもマナーとモラルがある人で、日常生活でも欠けている人、微弱な人は、SNSでも見事に同期している。ただ、アーカイブされるから露呈したということ。この仕組みは誰も多かれ少なかれ気づいているはずなのに、表出しなければ反応できないということで、ここが一番のキモなのだ。ブログやSNSの画面に一文字でも入力することが表出の第一歩であり、そこにどのような意図や狙いがあったのかを自分のモラルに照合して書いているかということから、書かれた情報の本質を多面的にどのように波及させたいのかの狙いの有無にマナーの核の部分が潜んでいる。

 PC世代が、スマホやタブレットを手に入れ、数多の価値をひとつの画面と指一本で教授できる世界が人間の内部にどのようにアクセスして何を得させる仕組みなのか?を考える時期・段階に来ているのだろう。ということを考えると、「書籍」「雑誌」「コミックス」という情報伝達方法が持っている機能は非常に人間的だと言える。情報や文章化された価値が紙の中に編集されクリエイトされた本という存在は、デジタルコンテンツと比較すると優劣があるだろうが、その「劣」の部分が実は「優」だったと学習する未来が近いうちに来るような気がする。この振幅は明らかなに進化・進歩だと捉えたいから、SNSやインタネットコンテンツに期待もするが、過剰な期待はしていない。

 意識してつく「うそ」はクリエイティブで無意識の「うそ」は罪だという言葉をある専門家が言っていた。「うそも方便」「うそこそがクリエティブ」「騙すより騙される方がいい」などと便宜上の切り口は色々存在するが、言ってしまえば、全てが「うそ」なので。嘘をもっと正確に認識するスキルが必要。見破るとか人格に結び付けて評価・判断・洞察するのではなく、酸素のように「嘘」と仲良くすること。モナリザだって実在したかどうか・・・なわけだし、あの人類の歴史上、価値がある「嘘」のひとつだと言える。だから、「この世は嘘だらけだ!」と悲観し世界の中心で叫んでいるぐらいなら、自分の中にある「真実」を共有できる誰かと共に「真実」を高めあいたいと考えてしまいますね。

意外性について

 昔、硬式野球をやっていた時、2年生で試合に出ていた頃があった。新人戦か何かだったのだが、たまたまいい結果が出た。それを福井県の新聞が「意外性のある選手だ。」という評価をしてくださった。中心選手でもなく、大きな活躍もしていないのだが、その頃、この「意外性」という評価がとても嬉しかった。勿論、新聞会社が評価をしてくれたということも嬉しい要因だったが、「意外性」という見方をどう捉えるかは別として、とても心に響いた。その時のことがどこか現在に至るまで人間形成にかなりの影響を及ぼしているような気が最近する。活躍しそうにないのに、意外な場面で好打を打ったということを「意外性」と評してくださったのだろうが、私はそんなふうに多面的にはとらえることはしないまま、「意外」であることに何か自分の立ち位置を発見したような気持ちだった。

 意外にも、硬式野球をやっていた高校生は大阪芸大に行った。美術学部なのに、意外にも東京でデザインの仕事をやりたくなった。意外にもあこがれていた東京に飽きてしまい大阪に行く。意外にも大手の広告代理店の制作会社で働くことになり、意外にも認めてもらえた。なのに、意外にもその会社を辞めてNEW TORKに行く。そして、意外にも帰国して滋賀県でデザイン会社の設立に参加した。かなりの変化だが私の中では違和感がない。つまり、そう評価された嬉しさがいつの頃からか自分の中にその体質・気質が取り込まれ私は「非意外」では満足できない性分になったということ。

 この小さな心の摩擦ようなチリのような熱量が、意外と私自身のエネルギー源だったりするのだ。人生は不思議だ。

イモリ

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 水源の湿地から流れ出す水流の中にイモリを発見。黒く柔らかそうな身体をくねらせながら淵に消えていった。

情報の実態。

 情報の実態について考えている。世の中で過去に起こったことと今現在起こっていることがすべて情報なのだが、情報化されるには誰かの意図や狙いがある。「テレビではああ言っているが、ホントに中国でそんなことが起こっているのか?」とか「テレビドラマではああ描いているが、ほんとにこの場所で戦国時代にそんなドラマが起こっていたのか?」とどの情報にも真価の割合があり、それを自分自身の中にある(あるだろう)モノサシであらゆる情報を観察・分析して価値に変換している。その価値とは何に活用しているかと言えば、日常生活にビジネスシーンに人生設計に活用しているのだ。そこに主体的な力と外因から受ける力のバランス感覚が作用するため、ひとつの情報に対してどう捉えてどう判断するかに個人のポテンシャルが密接に作用するという仕組み。

 そんな情報の実態をどのように意識するか意識しないかで、言わば、全ての人間社会のフォルムやシステムに影響を及ぼしている。そこで、デザインの仕事における外因的な情報と内因的な情報の整理術が実は何かを創る上でかなり関連性が高いと感じているので、その辺をつきつめてクールに整理しています。「情報が飽和している」「情報技術が進化している」「個人情報が守られていない」というふうに「情報」はとても大切なピースだから、しっかりと外因にひっぱられることなく自分のモノサシで精査したいと考えている。

ドリル的アプローチ。

 昔、ある会社のロゴマークを作成する仕事を受けた。グラフィックデザインの仕事においてロゴマークの作成という作業はいろいろなセンスやスキルを試させるいい案件だ。言葉で一生懸命やっていることを切々と伝えても、そのレベルのお話はデザイン力とは無関係。デザインの仕事に言葉の量は全く無関係だ。どんなにセンスやスキルがあるのか?小手先でやっているのか死に物狂いで取り組んでいるのか?一年費やしたのか短期間で仕上げたのか?などはコンテンツ(成果物)には関係ない。関係づける人は意外多いが・・・。企画主旨が緩く担当者のポテンシャルが低いとその低さに引っ張られるパターンにはいつも注意しているし、当然、モチベーションが高く、ポテンシャルの高い人には必然的に高くなるという仕組みが人間の本性で、言葉で「頑張っています」では人は動かない。特にクリエーターは動かない。ロゴマークは感覚的でありデザインのアイディアやセンスを利かすこともできれば、シンプルに感覚的にロジックを無視してサクッと創る方が完成度が高くなる場合もあり、一概にこの方法なら必ずロゴマークの完成度が高くなるという正攻法はない。ただ、ないだけに、その苦労が楽しい。そのロゴの場合は保険会社のパンフレットと名刺を作成するためのロゴマークだったが、ラフスケッチ1時間、イラレの作業1時間の2時間で完成した。確か3案作成したが、どれもお客様は気にっていただき、3日間迷われた末、ひとつが決定した。たった2時間でロゴマークを?となるのだが、それまでに、私はいろいろな保険会社のロゴマークを作成していたし、書籍やパンフレットなどの販促ツールのロゴマークもたくさん創っていたから、その案件の主旨を理解して2時間で創ることができたのだ。まぁ、この流れや詳細はどこかでドリルにして説明するが、プロというのは一生懸命さの物量ではない。そこに至るまでにどれだけスキルとセンスとポテンシャルを蓄えてきたかが勝負だからだ。

 さぁ、このあたりをどのようにドリルで表現・消化しようかな???