意外性について

 昔、硬式野球をやっていた時、2年生で試合に出ていた頃があった。新人戦か何かだったのだが、たまたまいい結果が出た。それを福井県の新聞が「意外性のある選手だ。」という評価をしてくださった。中心選手でもなく、大きな活躍もしていないのだが、その頃、この「意外性」という評価がとても嬉しかった。勿論、新聞会社が評価をしてくれたということも嬉しい要因だったが、「意外性」という見方をどう捉えるかは別として、とても心に響いた。その時のことがどこか現在に至るまで人間形成にかなりの影響を及ぼしているような気が最近する。活躍しそうにないのに、意外な場面で好打を打ったということを「意外性」と評してくださったのだろうが、私はそんなふうに多面的にはとらえることはしないまま、「意外」であることに何か自分の立ち位置を発見したような気持ちだった。

 意外にも、硬式野球をやっていた高校生は大阪芸大に行った。美術学部なのに、意外にも東京でデザインの仕事をやりたくなった。意外にもあこがれていた東京に飽きてしまい大阪に行く。意外にも大手の広告代理店の制作会社で働くことになり、意外にも認めてもらえた。なのに、意外にもその会社を辞めてNEW TORKに行く。そして、意外にも帰国して滋賀県でデザイン会社の設立に参加した。かなりの変化だが私の中では違和感がない。つまり、そう評価された嬉しさがいつの頃からか自分の中にその体質・気質が取り込まれ私は「非意外」では満足できない性分になったということ。

 この小さな心の摩擦ようなチリのような熱量が、意外と私自身のエネルギー源だったりするのだ。人生は不思議だ。