2013年12月 アーカイブ

自分を知るために。

 今日でこの一年が終わる。この一年を振り返ると世の中の景気や自分の仕事のことよりも、自分自身について考える時間が非常に多かった一年だった。それも来年の春に50歳の大台にのることも大きな要因だろうし、娘も大学受験や高校受験に奮起し、新しい出発に取り組んでいたことに親父も影響を受けたのだ。49歳から50歳への分岐点でいろいろなことを考えたために、自然と自分自身について考える時間が多くなったのだ。自分の部屋に「戦うべき最大の敵は自分だ」と書いて貼っていながら、その戦う相手をあまり理解していなかったことに気づかされた。これでは戦う戦わないのレベルではなかったのだ。戦うためにももっと勇気を振り絞って、黙殺してきたことについて注視しなけれ何も始まらないということ。そのためには49年間で凝り固まった思考やスタイルをリセットする必要があり、到底、自分ではできないことだと分かっていたので、相棒の力を借りた。勿論、そんじょそこいらの相棒では私の思考をリセットさせることなどできないし、お願した相手が力不足な場合、相手を傷つけて終わっていただろう。だから、相棒の条件は圧倒的に強力なカンフル剤であり、圧倒的に信頼できる相棒でなければならなかった。まず、そんな相棒がいてくれたことに感謝だし、そこまでのアドバイスと分析をしてくれたそのスキルと能力に感動だ。つまり、どうやら、リセットは成功したということになる。だが、まだそのリセットの仕上げは完了していない。そこに辿りつけたら、これまで観ていた景色は確実に一変するだろう期待している。自分の「決定的に足りないもモノ」は何で、その足りないモノを補填し、さらにその向こうに突き抜けるためには、年が変わろうとしているが、一切気持ちを緩めることはできない。12月31日なのに、こんなに気持ちのトルクが現在進行形は初めてだ。それなりに1年を振り返り、それなりに来年はどうしようこうしようと考えている31日が例年だっただけに、テンションが張り詰め過ぎて、まったく正月とか年始という感情が湧いてこない。このタスクをフィニッシュした時、今まで観たことのない景色を相棒と二人で見ていたい。今はただそれだけだ。

 そんな31日、漠然と思うのは、10年後、マンハッタンのオフィスでロッククライミングの書籍(英語版)のDTPをやっていたなぁ~と思うぐらいだ。相棒、よろしくお願いいたします。

雪の長浜。

 朝から本格的な雪の長浜。いよいよ年末の感じになってきました。2013年も残すところあと3日間です。明日から3日間、仕事をしながらじっくり今年を振り返りたいと思います。まだまだ外は雪。今夜はかなり積りそうです。

美しい捻じれ。

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 このライト、なんとも美しい捻じれでした。

顕在意識と潜在意識。

 「人が何か思考したり行動する時、影響を受ける意識の割合は顕在意識が20%、潜在意識が80%」と言われているらしい。思う節はいくつかあるからまんざらな数値化だろう。個人差もあるだろうが、顕在意識でコントロールできないことが、潜在意識でコントロールできるなら、最初から有効な意識を作用させたいところだが、この潜在意識というのがままならないのだ。必ず自分自身の中に存在している力なのに使えないとはどういうことだろう?顕在意識の影響とは、不安や過去の失敗例から受けた後悔が悪いストレスになり筋肉や思考を硬化させている。そのために自由な技術の制御ができないのだから、緊張を緩和させるために潜在意識を起動・稼働しポテンシャルを発揮させることが理想。邪魔をする顕在意識、能力を覚醒させる潜在意識。なんとも白黒が明確になったものだ。緊張が悪いプレッシャーに連動する場合と、いいモチベーションに連動する場合も意識の違いだろう。つまりは、「意識」「思考」「連想」のバイパスをどのスキルやテクニックにログオンするのかということ。さてさて、あなたはIDとPSWを紛失していませんか?私は覚えている自信がないので、忘れないように毎日復唱しています。

コワーキングスペース。

 「フリーランスで働く人や起業家が各自の仕事やノートパソコンを持ち寄り、情報やアイディアをやりとりしながら働く場所。壁や仕切りを極力排し、休憩スペースや無線LANや電源を用意する。東京・渋谷が一大集積地だったが、ここ数年で地方都市でも増え、全国で300ヶ所になっているとされる。イベントや勉強会も多く開催されており、会社帰りの人や学生にまで利用者が広がっている。」という記事。

 「仕事や立場が異なる人たちが、同じ空間で交流しながら働く「コワーキングスペース」が増えている。起業やビジネス上の連携だけでなく、利用者同士が刺激しあえると支持され、地域や人との関わりに生かそうとするケースも出てきた。仕事と暮らしが自然な形で近づく現場。」という記事。

 刺激し合うこと、情報を共有することは利点だが、刺激は特に依存になり、共有意識は固執を生む。人の心の二面性を意識化し、ルーティーン化するスキルがあるタフな人ならとても有効だが、それ未満なら自分の個性が封印されかねない。SNSは個人ネットワークの代名詞までに進化・浸透したが、人の持つポテンシャルを活性化したり覚醒させるまでには至っていない。心の多重性が価値を生み出す際の枷にならないようにしたいものだ。過敏する思考かもしれないが、慎重であって過ぎることはない。と同時に、大胆であって過ぎることもない。

優しい日本人。

 「参拝」を巡り混沌がまた表出してきた。意識の下層に封印していたことが赤く高熱に噴き出す時、当然のように多くの混沌が火山灰のように舞い上がる。風化させないこと、国際情勢を鑑みること、いずれも日本にとって重要なことだ。不完全な人間の歴史、不完全な世界情勢、不完全な日本の軌跡、そして、不完全な人間。正解を求め続けているからこそ表出する混沌が、時間の経過と共に黒い岩になるように、心の傷が次の傷を生まないことを祈るばかり。優しい日本人像は決して政治の世界だけではないが、日本の「優しさ」は世界に誇れる心の機微であり類稀なる美学だと思う。流動的に風化させ曲解するのではなく、素直に固形化・形骸化させフラットに淀みなく捉えたい。誇張も卑下もなくニュートラルなレベルを生み出すことができたら、「優しい日本人」は恒久に存在感を失わないだろう。

いい構図。

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 いい構図ですね。これはフランスの作品かな・・・。

ゴミバコとな・・・。

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 4K時代が来るか・・・。これもよろしいですな。

ライダージャケット。

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 これよろしいな・・・。

最強のスキル。

 「将来のためにも、「プログラミング」のスキルを今から身に付けておく、ITで勝利する為の武器を備えておく、これは今時の成功者にはみなに共通するスキルです。」
 「世界中の誰もがよく知っている面々、アップルのスティーブ・ジョブスやマイクロソフトのビル・ゲイツ、 Facebookのマーク・ザッカーバーグも、ソフトバンクの孫社長も、mixiの笹原社長も、グリーの田中社長も・・・共通して持っていたスキル、それが「プログラミング」 なのです。世界的な巨大企業を築き、成功を収め、大富豪になった彼ら全員が共通して持っていたスキルというのが「プログラミング」です。」
 「例外はありません。それが、ITの世界で自分のやりたいことを自分自身で実現することのできる 唯一の手段 であるからです。ITの世界で自分のアイデアを具現化する手段というのは「プログラム」の他にはありません!あなたは、ただ単に他人の作ったソフトの言いなりにパソコンの操作ができる人・・・ なだけではありませんか!?」というメルマガが届いた。いやはや、強烈な定義ではり、明確なメッセージではあるが、プログラムの裏にある背景を伝えず、大きな旗を振ることは簡単だ。

 「最強のスキル」とはなんとも耳に心地よい言葉だが、「あなたが日々活用しているパソコンは最強のスキルで天才達の努力の賜物だから、しっかり稼いで私達のコンテンツを買ってくださいね。」的なニュアンスしか伝わってこないほどリアリティーがない。プログラムというブラックボックスを盾に精一杯の矛を突き上げているようだ。もっともっと人間は不完全であることを伝え、傷をなめ合うのではなく、お互いに研磨し合う素地に気づいてからでも、そのスキルが最強か否かを考えればいい。

 つまり、SNSの限界点が具体的に見えてきたのだろう。


イラストレーターというソフト。

 イラストレーターというソフトは実に万能だ。もうグラフィックデザイナーやWEBや映像の分野でも、専用のソフトとイラストレーターとの組み合わせは必須。これがないと始まらないというツールだろう。しかし、このソフトを基本から覚えるためには然るべき費用と時間がかかることも現実である。このソフトを使いこなせればプロのデザイナーとして成立するのだから。だからと言って、特別な表現が得意なわけでもなければ、オフィス系のソフトのように複雑なテキスト処理をするわけでもない。やっていることは基本の基本ばかり。しかし、様々な現場で活用するためには活用術の基本原理を知り会得する必要があるというわけだ。一般に書店で販売されているテキスト本は基本原理を割愛しているという声をよく聞く。実際、私自身が基本原理を市販されている書籍から得たわけではないから分からないのだ。テキスト本には後処理や表現手法は網羅さえているためそのヒントや表現手法に興味が生まれた時だけ読む程度。では基本原理は何で覚えたのか?それは実践の仕事の中で覚えたのだ。これはバージョンが20になろうが変わらない原理なのだ。ここさえ会得しておけばあとはポテンシャル次第なのだ。

 しかし、原則はイラストレーターというソフトを会得する前に、必ずデザインの原理を知ることだ。これが一瞬でも前後すると、大変なことになるから注意したい。イラストレーターを覚えてからデザインを覚える(同時の場合もあるが同じ)デザインの学生が多いようだが、これは誠に不幸な出来事だ。その順ではイラストレーターの機能を充分に活用することが難しくなる以上にデザイン力さえも未熟のままツールを得てしまうからだ。何故?と聞かれることが多いが、何故?とかなどと理由は言葉にできないほど重要なことなのだ。羽が生えていないのに鳥が飛ぼうとすることと同じぐらい優先順位が逆なのだ。

センスの磨き方。

 「センスの磨き方」という書籍がある。「あなたのセンスを磨く46の質問?」というトミタ・ジュンさんという著者の書籍だ。「一冊の本との出会いが、人生を根本から変える」というスローガンのアチーブメント出版社から出版されている。第3版とのことだから、恐らくいい感じの書籍なんだろう。事例として「見栄をはっていますか?」「自分でパンツを買っていますか?」「合コン、真剣にセッティングしていますか?」「英語の勉強をしていませんか?」という質問があり、なんとも興味深い質問である。

 まず、「見栄」についての質問の答はYESだが、この著者が「見栄」をどのように定義しているかが不明なので、「そのニュアンスならNOかな・・・」ともなりかねない質問だが、世間一般的に想定できる「見栄」でいいなら答はYESだ。見栄と一言に言ってもいろいろなニュアンスがあるし、ケースバイケースでもあるので、何に対してどの程度の虚栄からがこの著者の言う「見栄」なのかを知りたいという興味がある質問だ。しかし、見栄をはっていない人ってこの世の中にいるだろうか?

 「自分のパンツ」については、独身の時は自分で買っていたが、現在は結婚しているのでカミさんが勝っているが答。そこで、「自分のパンツ」がセンスとどう関係しているのだろう?と考えさせるトラップなのだろうが、それは「パンツ」でよかったのかな?

 「合コン」についても独身ではないので、参加していないし、セッティングということは幹事をしているか?という質問なのだろうか。だとしたら、私は合コンをセットアップする機会には恵まれなかったので、この質問は分からない。現在49歳で、合コンのセッティングをしていたとしたら、それはそれで、センスがあるのだろうか?

 「英語」については勉強はしていない。ただ、映画を観る時は日本語字幕を消して英語で観ているし、好きな小説は原作を読む時がある。とは言え、英語力が充分にあるわけではない。英語力については、TOEICで何点とれるか?というあれが分かりやすいモノサシなのだろうが、無謀にも英語留学した時、N.Y.の大学でTOEICのテストを受けたが、400点ぐらいだった。あの頃から特に勉強はしていないので、恐らく、英語力は下がっているだろう。英語力が下がっているからと言っても外人に対するアレルギーは全くない。上海の空港で強面の空港の職員がいたが、普通に英語で出口を聞いた。英語の勉強をしていたらセンスがあり、していなかったらセンスがないのだろうか?

 と、この例題でイメージを膨らませてもこの書籍のストライクゾーンは見えてこない。つまり、買いましょうということだろう。自己評価として私は「センスのない人間」だという劣等感があるので、こういうタイプの人間はこの本を買う、最も理想的なターゲットなのだろう。

何人も。

 「六法書」の文頭によく「何人(なんびと)も」という表現がある。日本国籍を持っている、法律(憲法)の対象となる人全てを指して「何人も」と規定しているのだ。例えば日本国籍のお話。日本国民である条件についていろいろ六法書には書いてある。非常に丁寧で誤解をまねかないような表現がされているのだが、それぞれの規定が細かいために、前後の設定値を踏んでいる上でのお話や、他の法律を踏まえてという記述が多い。確かにこれで商売をしようとする人、かなり記憶力が達者なでなければ、法律を扱えないだろう。全てこの全書からの組み合わせでひとつの真実に向かっていく経緯たるや、凄まじく精密で綿密な論理と規定の網の目が幾重にも折り重なり、違反・逸脱・虚言に対して鉄槌を落とすのだろう。法律家の人達の頭の中はどんな構造なのだろうと改めて想像しまう。自分の中のモラルと真理を徹頭徹尾ゆるがせることなく、外因的なあらゆる状況を法律で裁くのだから法律は素晴らしい。言わば、人の英知の賜物なのだ。気分や感情や一時の誘惑にも負けない鉄の心が法律家にはあるのだろう。そんな法律にしっかりと守られている日本人は実はとても幸福な国民なんだと改めて感じた。

 一方、アートやデザインの世界はどうか?ルールもあるし原理もあるが、法律のように共有できそうでできないブラックボックスがある。何が出てくるのかと、期待したり警戒したり、アートやデザインのCUBEには何を装備・用意・準備しておくべきか?と考える。いや、何かを用意したところで状況は変化し環境は進化し続けているのだから、その中に方程式らしいものを持っていたとしても、それが通用する期間は短いし、正確には次に通用する方程式などない。それぐらいめまぐるしい変化がアートやデザインの仕事には求められているから、逆にその方程式を規定している法律があれば、どんなに楽だろうとさえ考えながら六法を読み、楽しんでいる。

 何人も、自分自身の正義のため、利益のため、未来のために生きているのだが、法律では導けないルートもあり、その状況ごとに羅針盤の針の方向を変えながら、答の出し方の多くをアートやデザインは担っている。政治や経済が法律の上に成立しているのなら、人間の思考や技術はアートやデザインの上に成立している。びっしりと記された法律の文字間や行間や文字の裏側にある原理をアートやデザインは受け持っているのだ。ただ、「六法全書」のような法典が存在しないため、それは座標を規定できないのだ。座標も属性も数値化できなからこそアートやデザインなのだが。

 もう少し、六法を読み進めてみよう。

野球が好き。

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 NHKさんの「プロフェッショナル」というプログラムでイチローさんの独占インタビュー映像を放送していた。4000回の喜びと8000回の苦悩があったと。何を言ってもキマルのだが、さらに、芯を喰っている言葉の数々に興奮して、その夜は眠れなかった。「結局、野球が好きなんでしょうね。」と言っておられた時の笑顔が最高でした。ピート・ローズまであと200本と少しだ。ここも当然のように乗り越えていかれるのだろう。「野球が好き」か・・・。

国内最高級腕時計。

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 「国産最高級腕時計」で検索するとこの画像がヒットする。このキーワイドを「海外~」に変更しても押して知るべしだろう。これを使っている人には大変失礼千万だが、なんかモッサイ。ふと、そんな気持ちになったので、結構多様なウオッチをいろいろネットで検索したが、ダイヤを散りばめているような悪趣味な時計は論外としても、アウトドアからビジネスモデルからカジュアルテイストまで、モノヅクリ日本の腕時計はなんかデザインがモッサイ。モッサイという語感はカッコワルイとも言い切れず、悪趣味とも言い切れない、何をどう解釈しても振り切れていないというニュアンスなのだが、誠にモッサイ。まぁ、こういう人間だから、腕時計を付けるのが嫌いになってしまうのだが、日本のモノヅクリの熱意と技術は世界的に比較的に、大したものなのだろうが、デザインは突き抜けていないような気がする。

六法。

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 はしがきには、「この「ポケット六法」は、持ち運びに便利な大きさで法律学の学習や日常の仕事に必要な法令を収めた小型六法として、既存の「六法全書」に加え、昭和54年版から刊行されたものである。携帯の便と必要かつ十分な法令の収録という二つの要請を両立させるために、古くから六法と称されてきた憲法・民法・刑法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法の各法及びその附属法令とその他の法分野における重要な法令とを厳選して収めることが、創刊以来の編集の基本方針である。年々制定される法令が増加するのに伴い、収録法令全体の見直しを常時行い、持ち運びの便利さを維持しながら収録法令の充実を図るための努力を続けている。」(本書より抜粋)と書かれている。

 今から法律の専門家になるつもりはないが、とにかく、全部読みたくなった。恐らく頭に残るのは数%程度だろうが、それでも読破してみようと。すると、法律の種類の一覧ページには、デザインの仕事によく登場する法律名称も多くあることを発見した。デザインを構想したり仕事として成立させるために直接法律は関係ないとは言え、どこかで連動していることも多いだろうと感じた。さすがに「六法全書」を買うまでではないだろうということで、この「ポケット六法」に着地した。でも、なかなかの質量です。

 読み始めるとなかなか整理された文章で、私自身としては文体的に嫌いではない。それに最新版ということで、最新の法律も記載されている。法律も日々進化しているんだ。

色彩がわかれば絵画がわかる!?

 「すべての色は三原色をもとにして作られる。四色でも二色でもだめなのはなぜか?そもそも色とは何なのか。色彩の理論をシンプルに学び、絵画的な知性を養う一冊」という書籍がある。また、同じ著者が「構図がわかれば絵画がわかる」という書籍を出している。どこの誰かは知らないが。でも、「色彩」や「構図」が絵画の何かを語る糸口だったことは読み取れるし、この著者が恐らく絵画に精通しているということも分かる情報だ。三原色についての理解を深めても、芸術やデザインや建築におけるカラーコーディネイトの仕事をしている人以外に何の役に立つ?が一般の心理だろうから、よほどこの著者は「色彩」と「絵画」を連動させたかった衝動がこの書籍には閉じ込められていると期待したい。そして、「絵画が分かる」というニュアンスがこのタイトルだけでは判断できなから、「買ってみようかな?」となるかならないかが問題だ。私は買わないが、いったい「絵画が分かりたい人」とはどういう人だろう?何故、絵画が分かりたいと感じるのか?それが一番のこの情報に対するコアの部分だ。色彩を知り、成果物としての芸術を自分のモノサシで分析・検証する術を会得し、それを別のコンテンツに適用したいと考えた場合、このふるまいにどんな価値があるのだろう。

 勿論、「絵画が分かる」ためには、色彩以外の知識もいるだろうし、自分で得た経験値の中から、絵画の価値や在り方の座標を決めなければならない。そこまで適正に設定できたとしても、確証や根拠はないはずだ。すべて五感から入った、ただの情報でしかないのだから、実態に対して間接的な客観的な情報のディテールでしかない。そもそも自分の中にあった確証と、外部情報として取り込んだ確証。この連鎖のルールをいくつ持っているかで、「分かる」の振幅が異なるのだから。

 まぁ、この著者は「絵画的な知性を養う一冊。」と書いてしまっているので、「分かる」の振幅は震度1ぐらだろう。

ひと味違う!?

 よく商品のキャッチコピーや売り文句に「ひと味違う!」というフレーズが使われる。「ひと味違ったデザインフォント」「ひと味違った写真素材」など。ゆるく捉えれば「個性的だ」とか、「オリジナリティーがある」というニュアンスで捉えることができるが、じっくり考えてみると「ひと味違う」は摩訶不思議な表現である。まず、何に対してどの程度の違いがあるのかについては全く不明だし、ひと味違うからどうなのか?についても「投げっぱなし」である。しかし、好意的に捉えるモードになれば、プラス要素として捉えられなくもないが、疑心が渦巻き始めるとマイナス要素にしか捉えることができなくなる。

 このような広告キャッチフレーズはとても多い。コピーライターが市民権を得てから、特にこのような現状が起こり、広告業界もメディアの世界もこのテイが百花繚乱だ。しかし、今一度、この「だろう路線」と「希望的肥大過剰好感度解釈」の落とし穴を、探究する時代なのではないだろうかと考えている。その理由は、その希望的肥大過剰好感度解釈の落とし穴にはまり、抜け出せず骨になる人が多いからである。その穴が結構深いのである。墓穴を掘るという言葉があるが、人の掘った誰かの穴に落ちたなら、
それは墓穴ではなく落とし穴だ。そりゃ、シカマルが掘った穴に落ちていったヒダンは当然の報いだが、一般的にあの仕打ちはできるだけ回避したい。

 落とし穴にはまり、思考を閉ざし、心を閉ざすことにならぬよう、穴が見える眼力を鍛えましょう。

ワイルドな琵琶湖。

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 今日の琵琶湖はめずらしくワイルドだった。

土壁の家。

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 本格的な土壁の家。「本格的」という表現が重々し過ぎるほど、本物の風合いは落ち付いた気持ちになります。この塗り込む職人さんの技術、ひとつひとつが本物の家を創るのです。こんな別宅がいつか欲しいものです。最高のロケーションに最高の土壁の家。

チェスの棋譜。

 歴代の国を代表するようなチェスのプレイヤー達の棋譜には何が刻印されてるのだろう。到底、世界レベルのイマジネーションや戦略が生まれたルートを全てトレスすることはできないが、その気持が少しでも興味として芽生えたなら、そのことに気持ちを向かわせることも大切だ。何がどう連動して勝利に繋がったのか?その方程式は複雑であればあるほど輝くのだろう。何が輝いていると捉えるか?はそれぞれ自由だが、私は自分自身の中にある素養や鉱脈の輝きだと捉えている。「自分に勝つ」と言ったフィッシャーの言葉は重い。その言葉を簡単に自分の中から生み出せそうにはないが、その努力は怠りたくはない。この世は全て勝った者がルールを決めているとしてもだ。

コツコツ。

 「職人技」と聞いて、最初に頭に浮かぶ言葉は「コツコツ」だ。熟練の技とはすべてコツコツと少しづつ積み上げて成立している。一方、「プロフェッショナル」と聞くと、なんかこう一気に直感的なスピードで成果が生まれるようなイメージがある。「職人技」と「プロフェッショナル」の間の語感にあるこの違いは、自分自身の感覚の中で、どのように生み出され区分けされていいるのだろう?世間一般の「職人技」に対する印象はいったいどんなニュアンスが正解なのだろう?「職人気質」と聞けば、無口で頑固で実力主義の現場主義。「プロ意識」と聞けば、物事が常に整理できていて、論理的で理路整然としているイメージがある。職人が「アナログ仕事」で、プロフェッショナルが「デジタルワーク」みたいな違い。同じ仕事なのに、極端にイメージが私は異なっている。

 私が絵を描く時は、明らかに「コツコツ」だし、デザインを考えてソフトで作成する状況でも「コツコツ」だ。さらに、プログラムの改造や映像コンテンツの編集加工となると、「コツコツ」どころの騒ぎではない。普通の人なら、ちょっとクラリとめまいするぐらいの数のレイヤーを微調整をして、一本の成果物を仕上げている。プログラムを改造したことのない人にも、映像のレイヤーを微調整したことがない人にも、この「コツコツ」は伝わらないだろう。単純明快にイラストレーターだけで数日、コツコツ地図を創った経験やページモノのDTPをしたことのない人にも、このリアリティーは伝わらないだろう。恐らく、ひとつひとつの作業を細かく分解して理解することは、素人でもできるが、大きな設計に基づきコツコツ積み上げなければ、売れる成果物にはならない現実。しかし、悲しいかなこのコツコツを整理することは、コツコツではできない。なぜなら、すべて職人技なのだから。

 無口で寡黙で頑固な職人技がデジタルワークをしているので、もう、あたりまえの作業をコツコツ積み重ねていくしかないのだ。ここにセンスもアイディアも工夫もないのである。

 一方、テレビププログラムで「職人」と呼ばれている人が登場して、テレビ用のシナリオ通りに、芸能人をうならせている場面ををよく見かけるが、あれはあれで立派な「職人技」だ。

アドバンテージを探せ!

 誰でも分かるアドバンテージを持っている人がいる。NASAで訓練し宇宙に飛び出した人、オリンピックで金メダルを獲得した人、ノーベル賞を受賞した人、芸能界に属し著名な人、有名企業のトップ、有名大学の教授らは、一様にアドバンテージを持っていない人とは存在感が異なる。この現実の法則は決定的に強い。ではこの「強さ」はどんな効果や作用があるのだろう?免許皆伝の特待生達が牛耳っている世界はどのようにして構築されていったのだろう?それは今でもバベルの塔のように、コロセアムのように君臨しているのだろう。無名の芸術家達が残した絵画も、貧窮に苦しみながら研究を重ねた科学者達の成果も、自らの心と身体にナイフを入れ絞り出した文筆家達の物語も、この法則(牙城)を崩すことはできないのだ。そういう世界に気がついて初めて見える「創造の神」がいる。私は自分の中にいるその神だけを信じている。

 だから、この世界は面白いのだ。

刻み始めた時間。

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 夏頃から電池が切れて、ずっと交換用の電池を探していた。地元の量販店に電池は見つからず、なんとかネットで探して購入し本日到着した。止まっていた時間がまた動き出した。これは何かのサインかな?

1日も早く起業したい人が・・・。

 「1日も早く起業したい人が、やっておくべきこと・知っておくべきこと」なんとも意味深い書籍のタイトルです。もう最近の書籍のタイトルってモリモリしています。当然、広告には「自分でも起業しようとしている時期だったので大いに刺激を受けた。タイトル通り、起業する上で必要な情報がつまっていた。」と36歳の男性のコメントが金魚の糞のように付いている。もう、最近の広告の鉄板スタイルだ。さらに、「起業して3年以上続く人とダメな人の習慣」などと、3年サイクルでバッサリ切ってしまう手法も36歳の男性あたりをとことん刺激するのだろう。「18年会社に勤めた典型的サラリーマンが起業後、多くの起業家を成功に導けた理由」などという書籍のタイトルもやはりモリモリである。このあたりはもうモリモリ過ぎて「起業」のことが関係なくなってしまいそうだ。そもそも「起業」するということは、やっておくべきこととか、知っておくべきこととか、続くとかダメだとかなどは関係ないはずだ。「絶対にやるぞ!」とか「絶対に続けるぞ!」と気合いと明確な戦略があって「起業」が成立するべきなのだから、迷っている段階で恐らく起業は無理な事に気がつくべきだ。いや、気がついた方が幸福かもしれない。できないのに3年あまりでクローズしてしまうようなポテンシャルでは何をやっても同じ。つまり、起業家とは生まれつき起業家なのである。

この冬こそここで。

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 行きたい行きたいと思っていても、ワカサギ、となるとなんとなくテンションが上がらなった。氷に穴を開けてワカサギを釣る絵の中に、自分自身が映えない感覚だ。しかし、今年はここでやってみよう思っています。

 桟橋に入っていく通路付近、受付のコンテナの中のとぼけた管理人(おやじ)はストーブにあたりながら、半分だけ受付の窓を開け、「まだ12月は釣れんぞ!」とブルーギルのような表情で言い放った。「1月頃になれば釣れますかね?」と聞くと、「そうやなぁ、分からんな。ワカサギは分からん。」って、お前の立ち位置が一番分からんわ!

本当の変化。

 先生、ほんとにお若いのに、数々のお言葉が芯を喰っておられました。街が健康になる、地域が健康になる、国が健康になるために、まず、人が健康にならなければならないのですね。メディアが煽る健康ブームは別次元のこと。本当の人間の健康とはなんでもかんでも盛る(足す)ことではなく、削る(引く)ことだと。本当の変化はあわてず、ゆっくりとコツコツと歩を進め、じっくりと待つ体制が大切なのですね。

絵を描ける人。

 今日は改めて再確認できたことがある。私はずっと絵が好きだったし、大学でも独自の表現は追求せず、あるがままのモチーフをリアルに描く技術を求めた。デザインの仕事についても、自分のスタイルよりも、クライアントが欲しいデザインを創れる人でありたいと願い、そのための技術や表現を追求してきたのだ。「自分の絵」とは?「自分だけのオリジナルデザイン」とは?という疑問に対して過剰に反応してしまうのだが、そのレベルで自分自身は絶対に満足できないのだ。技術的なうまさや思考術的な特異性がどれだけ成果物に反映され成立していても、「自分の絵」など成立することはなく、それはただの思い込みであり無知ゆえの満足、増して「自分独自のデザインスタイル」などに価値はないと考えているからだ。だから、芸術大学では自分自身の描写力だけを追求していた。自分の絵に対する評価や自己分析は社会に出なければ正確な判断はできないだろうと(学生の頃にはまだそこまで明確ではなかったが・・・)ぼんやりと考えていた。結果、私は世界中の誰よりもなどと決して言わないが、どこでも通用する絵の技術がある。自分の中にある発想や誰から頂いたテーマについて、自分の思考と技術で絵を描き、そして、評価や分析に対する意見を絵に取り込み適用にチューニングできる技術がある。これは「絵を描くことで食っていく」という決意があったから会得できたのだ。だが、現実は「絵だけで飯を食う」ことはできないと感じ、デザインの仕事をしているのだ。つまり、いろいろあって私は絵を描けるデザイナーなんだと。絵を描けることとデザインができるということは意外にも同位ではないのだと。

伊庭内湖はタフだった。

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 この朝の気温は3度。3度目の伊庭内湖。バイトは3回。しかし、ノーフィッシュ。釣れない時も釣れる時も釣り。仕事も同じ。けっこう、けっこう真剣にやったのだが、バスを手にすることはできず。釣れない理由を考える。ルアーが間違っているのか、ポイントが間違っているのか、アクションが間違っているのか?仕事も同じだなぁ、などと頭から仕事のことが離れないから、結果、集中できていなかったのだ。などと、これも自分に都合のいい言い訳。仕事も同じ。釣れている時は考えないこと、いろいろ考えてしまいました。次は右ハンドルに戻して絶対に釣るぞ!