2014年01月 アーカイブ

34mm

 1993年9月4日、岡山県の本コースで始めてラウンドしてから約20年。ようやく最近、スコアが90前後で安定してきた。一番大きな理由は体調が安定していることでメンタル面も安定したことだ。その背景には富士山登山の挑戦ため、毎日のスクワットやストレッチに取り組んでいることが、ゴルフのスコアの安定にも深く関連している。昨年はベストスコアも出たことで、自信にもなっているし、さらに目標設定を上げて毎日のトレーニングに精進している。

 私の仕事は50%が社外での打ち合わせや配達・納品で、50%がデスクワークである。朝から夜遅くまでが常なので、若い頃は無理が蓄積され体調が機能停止になるまで取り組んでいたが、年齢と共に体調管理もメンタル調節も余裕を意識するようになった。「仕事は100m走ではなくマラソンだ」という言葉が最近読んだ書籍に書かれていたが、妙に納得してしまった(リアルマラソンは嫌いなのだが)。しかし、毎日、体調管理やメンタル調整を過剰に意識し過ぎると、目標設定が低くなる。つまり、身の丈を越える無茶な挑戦ができない心と身体になってしまうのだ。無難なドングリの背比べレベルの目標設定ならしないほうがいい。日々、高いモチベーションやコンセントレーションを維持することも、長期的な目標設定を明確にすることも、双方に貪欲でありたい。そのための体調管理なのだ。

 さて、そんな体調管理に取り組み、体調が整い、結果、ゴルフのスコアが安定したのだが、勿論、健康管理だけでベストスコアが出るほどゴルフは簡単な競技ではない。フォームやギアへのこだわりや自分のスキルやフィジカルにマッチさせるための探究心を怠れば陳腐なスコアで終わる。私は常に仕事でも趣味でもベストスコアを狙うことが楽しい人なので、明確に自分のベストコンディションの条件を数値化することを心掛けている。ゴルフ競技においてスコアを安定させるためにはまず、ドライバーでのティーショットが安定する必要がある。これは、アベレージゴルファーでもプロでも同じである。スコアを作るのはアイアンやアプローチやパターだとは言うが、それはまずドライバーが安定してからのお話。目標設定として110を100にしたい人ならば、そこまでこだわる必要はないが、私はどうせ一度のゴルフ人生なのだから、最終的には「シングルハンデ(スコア81以下)」になりたいと真剣に考えているので、こんな試行錯誤しているというわけだ。

 ドライバーを安定させるための様々な注意点はあるものの、数値化できるところは常に同じ状態でアドレスに入りワッグルを始めたいので、必ずティーアップの高さを34mmになるように徹底している。この高さがなぜ自分のドライバーショットを安定させているかは説明することが難しいが、長年の探究の結果、私の場合、ティーアップの高さは34mmがベストなのである。

 日々のデザインの仕事でも、多くの数値化を心掛けている。思考や技術を安定させ、貪欲さや探究心を失わないための数値化だ。

 あと、目標まであと6打。「ゴルフの唯一の欠点は、面白すぎることだ。」という言葉をゴルフの雑誌やWEBページで目にすることが多いが、同感である。

タフなギア

mont-bell001.jpg

 欲しかった登山用の靴を購入した。これが3足目。一足目は自分自身のレベルに合わせてライトなローカットモデルだった。足への負担を抑えた馴染みやすい初心者用を購入した。私は靴のコレクターではないので登山用の靴以外に靴は仕事用と運動用があるだけ。実用的な靴しか買わないので、一種類を履けなくなるまで消耗するタイプ。一足目は4年前の一回目の富士山登山用に買った。富士山登山に登る前の情報収集の段階で、「靴は一番重要」という情報を専門誌で読み、アタックする半年ほど前に購入して散歩など仕事以外は全てその靴を履いて慣らしていった。もうその靴ももうボロボロになり、自己流で何度か修復を試みたが限界となり、この3足目を検討していた。その次に買った2足目はミドルカットで、普段に履くには紐をいちいち結ばなければならず、登山や釣りの時だけしか履いていなかった。特に、雨模様などの場合などはこのミドルカットタイプにしていたが、3回目の富士山で下山中、終始雨という状況で防水加工が緩く非常に心地の悪い経験があり、3足目の素材はゴアテックスで防水、しかも、ミドルカット以上という条件で物色していた。それがこの靴。まず、目先の目標としてはアイゼンを付けて雪山に登ること。優れた道具は使う人の能力の低さを補ってくれる。私の山登りのレベルは一般登山愛好家の中なら、「下の上」ぐらいだろうから、厳しい条件の山に挑戦する場合は、このレベルのちょっといいタフなギアが必要なのだ。

 自分のレベルに合わせて道具を物色するのはとても楽しい。最初からトップクラスのギアでも実力が伴わずバランスが悪くなり、ビギナーは使いこなせない。少しづつ経験を積み、そこそのギアにレベルアップしながら、ちょっとづつ挑戦していくのが楽しいのだ。何事も。逆に少し背伸びをして、タフなギアを身につけると気持ちもタフになり、ヘナチョコな自分の体力・技術を鍛えようという気持ちになる。タフなギアにはそんな効果・作用がある。

コーヒーを飲む理由

 コーヒーが好きな理由、もしくは、飲む理由が3つある。記憶が定かではないが愛飲し始めたのはひとり暮らしを始めた芸大生の頃(18歳)だった。お茶かコーヒーかという選択肢で、お茶が飽きたからコーヒーを飲み始めたのだが、インスタントの割には美味しかったことと費用的に安価であった理由から学生時代に愛飲できたのだ。芸大での課題を構想している時や実習中もコーヒーを飲むことが多かった。社会人になり少し自由になるお金が増え喫茶店に行くようになる。仕事中に喫茶店にいく理由は、学生の頃と同じで何かを思考したい時だった。自宅でも会社でもコーヒーは飲んだが、思考したいという精神状態をオートマチックに作るために、喫茶店に行きコーヒーを飲むというパターンがとても心地良く、実際、仕事のアイディアや準備をしたり資料をまとめたりする時にいい効果が得られた。と、ここまでは思考の援助がコーヒーの役割だったが、さらに最近では、年齢(49歳)と共に体質が変化している。腹筋や背筋や脚力、そして、肩の柔軟性や腕力、首の柔軟性など腰痛(ヘルニア)からくる諸症状に敏感になっている。また、五感に対しても敏感になっている。視覚は老眼のレベル1(5段階の一番軽いレベル)だし、聴覚も触覚もまぁ大丈夫、嗅覚も粘液の質が変化しているだろうが日常生活や仕事レベルでは問題ない。しかし、味覚は体調をかなり反映している。胃腸が弱ったり、水分補給が必要な状況だったり、疲労が蓄積していたりすると、必ず味覚に変化が現れ、結果、大便や小便にその影響が出る。医者ではないので、相関関係を専門的な医学的知識として充分に確認したいとは考えていないが、朝、仕事の準備をしながら、思考のためにコーヒーを飲む、水分とカフェインを補給するために飲む、それ以外に体調を確かめるためにコーヒーを飲んでいる。これが、私がコーヒーを飲む3つの理由だ。

 缶コーヒーも飲むし、喫茶店でも飲む、打ち合わせでコーヒーを出して頂ける時は大歓迎で飲む。それは、思考に心地良く、身体にも水分とカフェインを入れてくれる効果と合わせ、味覚でその瞬間瞬間の自分自身の体調を微妙にスキャンしているのだ。

 一番美味しかったコーヒーは東京時代、アルバイトをさせて頂いていたO先生の四谷のオフィスで飲んだエスプレッソだ。ドイツ製のエスプレッソマシンでエスプレッソを作るのも私の仕事だっだ。先生が外で打ち合わせをされている時は自由に何杯も飲むことができたし、自分自身の仕事の評価を頂いている時も慢心の緊張と共にエスプレッソが傍らに在った。今でもよくエスプレッソを好きで飲むが、その度にO先生の笑顔と仕事中の真剣な表情が頭に浮かんでくる。今でも先生はエスプレッソを飲んでおられるのだろうか。懐かしい。

シグナルとノイズ

books140114.jpg

 なるほね、シグナルとノイズとはそういうことなんだ。見えないビックデータが意識化される時、どのように変化が起こっているのか。それは偶然であり必然だと。

 この黄色いのはドイツ製の万年筆。これがなかなかいい。

知の逆転

 ジャレット・ダイアモンド、ノーム・チャムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソン。それぞれの巨人達がどの「知」に対してどのような「逆転」を企んでいるのか?という狙いをサイエンスライターである吉成真由美さんがどのように引き出されたのか?への興味があるが、むしろ、すべてが2010年の4月から2011年の11月の間に語られているということが脅威でありまぎれもないリアリティーだ。静かにそのリアリティーとマテリアルが心と頭に浸透し、そして、融合することを期待したい1冊だ。書籍とはほんとに素晴らしい発明だ。

シグナル&ノイズ

books140112.jpg

 気になる書籍だ。情報が飽和していると言われて久しいが、言語化できない不確実性と想定可能範囲内に存在するリスクを混同しなことがこれからを予見・推測するために必要なのだ。未来像は有象無象に存在し、数多のテンプレートを選択肢として適用することは現実的に難しいという大前提で、深部に向けて直感的なルートを見極めたいなら、確かにシグナル(サイン)とノイズ(リスク)を見極め、混沌の中から適正なルートを見出さなければならないはず。冬山のクラックにかける梯子のようなツールとテクニックを装備するために。

まちやホテルいろは。

machiya_iroha140109.jpg

 今日は長浜市内のまちやホテルいろはさんで写真とムービー撮影でした。旅人はこの宿泊施設にどんな期待を抱くのだろうかと、いろいろな構想を頭の中に描きながら撮影していました。長浜という場所が旅人にとって何を提供できるのか?大きなテーマです。

認証行動療法

 「認知療法・認知行動療法というのは、認知に働きかけて気持ちを楽にする精神療法(心理療法)の一種です。認知というのは、ものの受け取り方や考え方という意味です。ストレスを感じると私たちは悲観的に考えがちになって、問題を解決できない心の状態に追い込んでいくのですが、認知療法では、そうした考え方のバランスを取ってストレスに上手に対応できる心の状態をつくっていきます。私たちは、自分が置かれている状況を絶えず主観的に判断し続けています。これは、通常は適応的に行われているのですが、強いストレスを受けているときやうつ状態に陥っているときなど、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。その結果、抑うつ感や不安感が強まり、非適応的な行動が強まり、さらに認知の歪みが引き起こされるようになります。悲観的になりすぎず、かといって楽観的にもなりすぎず、地に足のついた現実的でしなやかな考え方をして、いま現在の問題に対処していけるように手助けします。認知療法・認知行動療法は欧米ではうつ病や不安障害(パニック障害、社交不安障害、心的外傷後ストレス障害、強迫性障害など)、不眠症、摂食障害、統合失調症などの多くの精神疾患に効果があることが実証されて広く使われるようになってきました。認知行動療法では、自動思考と呼ばれる、気持ちが大きく動揺したりつらくなったりしたときに患者の頭に浮かんでいた考えに目を向けて、それがどの程度現実と食い違っているかを検証し、思考のバランスをとっていきます。それによって問題解決を助けるようにしていくのであるが、こうした作業が効果を上げるためには、面接場面はもちろん、ホームワークを用いて日常生活のなかで行うことが不可欠です。」という医学療法があることを、昨日テレビで知った。「主観と客観のバランス」と一言では簡単に紐解けない複雑なバランス感覚です。心と身体のバランスを整えるというアドバイスもそのテレビ番組では登場した先生が具体的に語っておられた。

 「地に足のついた現実的でしなやかな考え方」と言葉にするのは簡単だが、できそうでできないのが人間の心。ただ、ストレスを全て取り除けばいいわけでもないだろうし、過剰・過敏な認知が適正な行動を妨げているとしたら、どの軸で思考し行動するかを自分自身の中に設定する必要がありそうだ。

 逆の捉え方をすると、自分自身のポテンシャルをさらに高めたい場合は、この療法は有効なのだろうか?と考えてみる。なんでもかんでもストレス視し排除するのではなく、ストレスに強い心と身体にビルドアップするために、心的ストレスも身体的ストレスへも自ら踏み込んで有効化していけるような、分析力と消化力と再生能力を欲しいものだ。

冬の伊吹山。

mt_ibuki140107.jpg

 昨日は久しぶりに、空が抜けるように青かったので、雪の伊吹山と蒼い空との絶妙なコントラストが美しかった。よし、登ろう。

モテキ。

masami_nagasawa001.jpg

 気になっていた映画「モテキ」を観た。なかなか、良かった良かった。懐かしい歌がいっぱい出てきてたし、個性的な4名の女優さんもとても魅力的だった。なにより未来さんがハネていたのが素敵でした。未来さん&まさみさんの「世界の中心~」ペアは健在でした。

こういう構図か。

apple_gomibako001.jpg

 なるほど、こういう構図なのか。で、クラウドが年間¥48,000となるわけだ。Macに出会って25年目、このタイミングでこれが気になるということは、巡り合わせのような御縁を強く感じてしまう。最速のこのマシンをクラウドにぶら下げて、自分のコンテンツを創り出しているイメージを想像しすると、なんだかとても元気が湧いてくる実感がある。今回のこの気持ちは、どうも抑えられないかもしれない。

オーバークロック

 CPUの演算速度を上げるあれだが、私はあまり興味がない。スペックを上げることや、自作でPCを構築することに興味がないこと以上に興味がない。自作のパソコンで処理能力とコスパを比較して得られるメリットとリスクのバランスが悪いからだ。知識のない人間が演算速度を上げることだけの目的でプラットフォームに手を入れるのがメンドクサイ。仮に一般購入価格の50%で同スペックのPCが構築できたとしてもメリットだとは思わない。趣味の世界だとも言えるし、クリエイティブの世界とは別次元の属性だと捉えているからだ。手作り感満載のプラットフォームでデザインの仕事をすることに慣れていないだけだろうが、現段階でその取り組みをスマートだと捉えたことが一切ない。例えば、車でもバイクでもそうだが、カスタマイズして一喜一憂している人がいる。否定はしないが肯定もしない。車もバイクも最高のプロフェッショナルの工業デザインを施し、最高の工場で最高のスタッフが世の中に送り出している商品を、中途半端な素人が、見苦しいパーツや機能を付けたり削ったりして、商品の仕様やルックスのクオリティーが高まるはずがないのだ。例え同じ知識と同じ技術を持っていたとしても、私はそのフィールドにダイブしない。オーバークロックもマシンの寿命を縮めるだけの短命なお遊戯のような気している。ただ、お遊戯だけに楽しいのだろう。なんでも勝負をして勝つことは快感だが、瞬間風速は要らない。穏やかに心地良い風がいつまでも吹いてくれることだけを願っている。お仕事も人生も同じ。

 ただ、常に自分の限界を探究したくなる気持ちはあるが、外因にそれを求めるのはリアリティーに欠けるから興味がないのだろう。常に内因に対してのオーバークロッカーでありたい。

覚醒する瞬間。

 書店に行けば様々な「元気」に出会える。直接、人と出会う時でも、インターネットの中の元気をデジタルデバイスを介して引き寄せるケースでもそうだが、自分の欲しいエネルギーを発見した時は最高に嬉しい。恐らく「共感」や「絆」や「偉業」など全ての語彙にはそれぞれ発信した人のエネルギーの量があり、「後悔」や「焦燥」や「葛藤」という語彙にも、「戦争」や「破壊」や「無関心」という語彙にもその推量が適用できる。結局、その意味や表現のツールとしての記号の存在感と合わせて、エネルギー量を人は感じ取り言葉のベクトルを心や頭でディテールとして受けっ取っているから、結果、「伝わる」という結果になるのだろう。外因と内因の関係を意識する全ての軸はそこに存在している。土の中の種が発芽し地表に芽を出すような感覚を私は「覚醒」としたい。覚醒するために小さな種子の中にあるエネルギーの核が、酸素や水分やアミノ酸を得て鮮やかな緑色の芽を出すように、人の中にもこの物理的な原理の核がある。

 肥沃な土が大樹を創るのか、大樹が種子の頃、内なるエネルギーの核と設計図が自然のエネルギーを受取り大樹として大地に立つのか、相互のシンパシーの間に在る関係性の仕組みは生命の生命たるふるまいなのである。決して精神世界を大樹に見立て重力以外のベクトルに幹や枝葉を捻りたいという狙いではない。ふるまいとリアリティーの関係性にフォーカスすればするほど覚醒の機会が増えるのだと言いたいだけだ。

 年頭から質量のない概念のお話になったが、結局、その真理を得られているか否かでエネルギーの吸収力や放出力に大きな影響・作用があるのだから、素直にその仕組みを自分の中の設計図に記しておきたいと思った。言葉にしなければ伝わらないことや、立ち位置を変えなければ見ることができない景色を、もっともっと貪欲に今年も獲得したいから、わざわざブログにこのことを刻んでいる。ただそれだけなのだ。

 さて、2014年、この手法で何を覚醒さようかという気分だ。手法が目的になり、目的が手法になる関係性を覚醒へのトリガーだとするなら、ハングリーな状態がベスコンだし、愚かで恥知らずなスキルであるからこそ得られる覚醒の賜物に対して常にstand by me.でありたい。

謹賀新年。

nenga2014.jpg

 年々、年齢と共に誤解していたことが明確になり、自分の決定的に足りないモノが明瞭になってくる実感がある。まず、その一番手は「若さ」なのだが、こればかりはどうにもならないと諦めるのか、身体的な老化だけを容認して思考術や技術を磨き若者に負けないようにと鼓舞するのか、非常に重要な分岐点だ。よく、テレビの究極の二択として「若い頃に戻りたいか?」「未来を知りたいか?」という選択を真剣に考えてみると、実はどちらも求めていない自分がいる。もう一度、若い頃に戻り何かに挑戦したいとか、後悔していることに再チャレンジする機会を得て、再挑戦したいとは考えてはいないし、また、未来を知った上で今何をするべきか?などの情報を得て、充実した毎日を送れればいいかとも考えてはいないからだ。「今でしょ!」という2013年の流行語の裏を返せば、現代のあらゆるベクトルが「過去」や「未来」に散っている状態なのかとも分析してしまう。過去の集積である情報と未来への道しるべである戦略やビジョンの間に挟まれて、身動きできない、もしくは、心地良い挟まれいる感じのまま時間だけ過ぎてほしいレベルの快感でいいならば、ジョブスの、いや、スチュワート・ブランドの言葉が実践できなくなる。それほど「今」が重要だと言いたいわけではなく、ごく自然体で素直に「今が大切だ」と考え捉えられる年齢になったのだと感じている。決してやるべきことはやってこれたとは思っていなし、達成できなかったことを悔やんで消沈する気も毛頭ない。実際は目標として設定してできなかったことばかりだが、それでもそれらをすべて受け止めて「今」をハングリーに、そして、愚かに生きてこそなのであると考えている。

 さて、馬という今年の干支を絵にするにあたり何を考えたか?仕事上、私の手元にはいろいろな馬のデジタルデータがある。ネットを検索すれば「馬のイラスト」を描くための資料は豊富に揃えることができる。しかし、例え参考にできるような資料としての馬が、検索した情報の中にいたとして、その一匹の馬には私が今年も元気な馬のように草原を駆けるインスピレーションを背負えないことを知っている。求めているイマジネーションとネットの中に存在する絵柄が、絶対的に融合しないことを学習で知っているからである。欲しい要因や構図を参考にすることは、絵のプロなのでどうにでもなる。アナログの画材やソフトウエアを活用すれば1時間以内にどこにも存在しない馬を創り出すことは可能だが、仕事ではなく自分自身の年賀状なのだから、テーマを受ける(バッターボックスでボールを打つ)プロフェッショナルのスイッチをこの場面では一旦切り、マウンドに立ちバッターにボールを投げる投手の方のスイッチを入れる。そもそも、実際にピッチャー経験の少ない(小学生の頃だけ)私にとって、野球で一番居心地のいい場所はバッターボックスだったぐらいだから、ボールを打ち返すことが自分の真骨頂なのだ(いろいろな意味を込めて)。だから、打つテクニックは自信があるが、あまり、投げるのには慣れていない分、刺激的な結果が期待できるのだ。だから、資料を得ずに白い紙に向かってボールを投げたのがこの「馬の私」なのである。今年もマイペースに「長い顔に煙草を吸って本を読んでいる馬」でありたいとでも願った心が生み出した絵なのである。これが2014年の1枚目の絵になったことにかなり満足している。富士山からのぼる大きな太陽と煙草があれば今年もいいじゃん!というメッセージを込めた。

 さて、デザインの中(左上あたり)にこっそり仕込んだ二匹の龍が、マイペースな私の後ろでハングリーにも愚かにも天高く舞う、馬肥える一年になれば最高なのである。

 あけましておめでとうございます。スギノヨシカズ