謹賀新年。

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 年々、年齢と共に誤解していたことが明確になり、自分の決定的に足りないモノが明瞭になってくる実感がある。まず、その一番手は「若さ」なのだが、こればかりはどうにもならないと諦めるのか、身体的な老化だけを容認して思考術や技術を磨き若者に負けないようにと鼓舞するのか、非常に重要な分岐点だ。よく、テレビの究極の二択として「若い頃に戻りたいか?」「未来を知りたいか?」という選択を真剣に考えてみると、実はどちらも求めていない自分がいる。もう一度、若い頃に戻り何かに挑戦したいとか、後悔していることに再チャレンジする機会を得て、再挑戦したいとは考えてはいないし、また、未来を知った上で今何をするべきか?などの情報を得て、充実した毎日を送れればいいかとも考えてはいないからだ。「今でしょ!」という2013年の流行語の裏を返せば、現代のあらゆるベクトルが「過去」や「未来」に散っている状態なのかとも分析してしまう。過去の集積である情報と未来への道しるべである戦略やビジョンの間に挟まれて、身動きできない、もしくは、心地良い挟まれいる感じのまま時間だけ過ぎてほしいレベルの快感でいいならば、ジョブスの、いや、スチュワート・ブランドの言葉が実践できなくなる。それほど「今」が重要だと言いたいわけではなく、ごく自然体で素直に「今が大切だ」と考え捉えられる年齢になったのだと感じている。決してやるべきことはやってこれたとは思っていなし、達成できなかったことを悔やんで消沈する気も毛頭ない。実際は目標として設定してできなかったことばかりだが、それでもそれらをすべて受け止めて「今」をハングリーに、そして、愚かに生きてこそなのであると考えている。

 さて、馬という今年の干支を絵にするにあたり何を考えたか?仕事上、私の手元にはいろいろな馬のデジタルデータがある。ネットを検索すれば「馬のイラスト」を描くための資料は豊富に揃えることができる。しかし、例え参考にできるような資料としての馬が、検索した情報の中にいたとして、その一匹の馬には私が今年も元気な馬のように草原を駆けるインスピレーションを背負えないことを知っている。求めているイマジネーションとネットの中に存在する絵柄が、絶対的に融合しないことを学習で知っているからである。欲しい要因や構図を参考にすることは、絵のプロなのでどうにでもなる。アナログの画材やソフトウエアを活用すれば1時間以内にどこにも存在しない馬を創り出すことは可能だが、仕事ではなく自分自身の年賀状なのだから、テーマを受ける(バッターボックスでボールを打つ)プロフェッショナルのスイッチをこの場面では一旦切り、マウンドに立ちバッターにボールを投げる投手の方のスイッチを入れる。そもそも、実際にピッチャー経験の少ない(小学生の頃だけ)私にとって、野球で一番居心地のいい場所はバッターボックスだったぐらいだから、ボールを打ち返すことが自分の真骨頂なのだ(いろいろな意味を込めて)。だから、打つテクニックは自信があるが、あまり、投げるのには慣れていない分、刺激的な結果が期待できるのだ。だから、資料を得ずに白い紙に向かってボールを投げたのがこの「馬の私」なのである。今年もマイペースに「長い顔に煙草を吸って本を読んでいる馬」でありたいとでも願った心が生み出した絵なのである。これが2014年の1枚目の絵になったことにかなり満足している。富士山からのぼる大きな太陽と煙草があれば今年もいいじゃん!というメッセージを込めた。

 さて、デザインの中(左上あたり)にこっそり仕込んだ二匹の龍が、マイペースな私の後ろでハングリーにも愚かにも天高く舞う、馬肥える一年になれば最高なのである。

 あけましておめでとうございます。スギノヨシカズ