覚醒する瞬間。

 書店に行けば様々な「元気」に出会える。直接、人と出会う時でも、インターネットの中の元気をデジタルデバイスを介して引き寄せるケースでもそうだが、自分の欲しいエネルギーを発見した時は最高に嬉しい。恐らく「共感」や「絆」や「偉業」など全ての語彙にはそれぞれ発信した人のエネルギーの量があり、「後悔」や「焦燥」や「葛藤」という語彙にも、「戦争」や「破壊」や「無関心」という語彙にもその推量が適用できる。結局、その意味や表現のツールとしての記号の存在感と合わせて、エネルギー量を人は感じ取り言葉のベクトルを心や頭でディテールとして受けっ取っているから、結果、「伝わる」という結果になるのだろう。外因と内因の関係を意識する全ての軸はそこに存在している。土の中の種が発芽し地表に芽を出すような感覚を私は「覚醒」としたい。覚醒するために小さな種子の中にあるエネルギーの核が、酸素や水分やアミノ酸を得て鮮やかな緑色の芽を出すように、人の中にもこの物理的な原理の核がある。

 肥沃な土が大樹を創るのか、大樹が種子の頃、内なるエネルギーの核と設計図が自然のエネルギーを受取り大樹として大地に立つのか、相互のシンパシーの間に在る関係性の仕組みは生命の生命たるふるまいなのである。決して精神世界を大樹に見立て重力以外のベクトルに幹や枝葉を捻りたいという狙いではない。ふるまいとリアリティーの関係性にフォーカスすればするほど覚醒の機会が増えるのだと言いたいだけだ。

 年頭から質量のない概念のお話になったが、結局、その真理を得られているか否かでエネルギーの吸収力や放出力に大きな影響・作用があるのだから、素直にその仕組みを自分の中の設計図に記しておきたいと思った。言葉にしなければ伝わらないことや、立ち位置を変えなければ見ることができない景色を、もっともっと貪欲に今年も獲得したいから、わざわざブログにこのことを刻んでいる。ただそれだけなのだ。

 さて、2014年、この手法で何を覚醒さようかという気分だ。手法が目的になり、目的が手法になる関係性を覚醒へのトリガーだとするなら、ハングリーな状態がベスコンだし、愚かで恥知らずなスキルであるからこそ得られる覚醒の賜物に対して常にstand by me.でありたい。