シクミシクミ。

 自分のクリエイティブスタイルを精査しようと体感や論理の法則を探究していると、いろいろなことを発見することが多い。まず、なぜ、探究しようとしているのか?という根拠が生まれたのか?ここが出発点なのですが、その奥にもさらに本当の出発点がある。芋づる式のこのループにどこかで適正にナイフを入れなければいけないのだが、「おっ、まだあるぞ」状態でなかなかナイフを入れることができない。掘り起こした芋がいろいろな形やサイズだったりするために、この驚きが楽しい。当然、手はどろだけらけで、不自然な体制で芋を掘っているために筋肉は疲労しているのですが、それでも楽しい。
 バスフィッシングのようにそこにバス君がいると信じてキャストを続けて、確証のない状態でも、釣り続ける、キャストし続ける感覚と似ています。確かにこの状態は「バスを釣っている」「バスを狙っている」状態なのですが、確証は釣れるまでないのです。昨日釣れたポイント、数分前に誰がバイトを取ったフィールドだが、自分にヒットする保証はない。だから楽しいのです。特にルアーフィッシングは餌釣りと比較してここの部位に意義を感じられなければ、ただの成形物を水に投入している行為に他ならない。しかし、魚を狙っているという意義に置き換えられるから、楽しさが得られるのです。
 クリエイティブの意義などと勝手に捉えているが、その意義、誰の意義でもなく私自身に全て収束していることを大前提に、だから、生み出すことが楽しく意義があり、生み出したコンテンツが誰かに評価を受け、リアクションを得られる実感があるからこそ、また、キャストするの循環。このシクミの効率やパフォーマンスを上げるためには、この循環のトルクを惰性でも余力でもいいから、永久機関のように五感でエネルギーを供給し動かしつづけられれば、電気もガスも水蒸気も必要ないはず。エネルギー問題の根源を産業革命まで辿らずとも、現状の問題が机の上の議論の中で削除できるはずはないのだから、絵に描いた餅の焼き方や食べ方を議論するよりも、手ごまとポテンシャルの確認と自分のベクトルの仕組みを実感に意義を見つけたいものです。そこに過剰な仮説は必要なし。
 そのためにも「仕組みづくり」が永久に劣化しないクリエティブ力を生み出すような気がします。自分の意義を適正に創り出す力に変換する「自分のシクミ」をどのように実感できるか?まずは、全てのソースの受け止め方から変えていこうと、変えなければいけないのかなと思っています。