聞く。

 よく、私の話は長く諄いと言われる。もっとシンプルに伝えてほしいと言われる。下手すると知識や経験値の羅列になり「めんどくさい自慢話」になってしまうのです。私はただ一生懸命伝えたいと考えていろいろ話すことが全く逆効果なのです。さて、このようなケースでどこで折り合いをつければいいのか?これが一番の悩みどころ。ケースによってはシンプルにと努め、要点のみを伝えるがそれでは伝わる人と伝わらない人がいて、説明しようとしている分野に精通している人なら1を言えば、そこからオートマチックに思考を広げて認識していただけるんですが、この1がどうしても伝わらない場合はマイナスから話を始める必要がある。ただ、1とかマイナス1とかというニュアンスで言葉や理屈が数値化できて適正な引用が可能な場合のみで、さらに、1とマイナス1について説明が必要なケースでは、必然的に言葉が複雑になりディテールがモリモリになり、結果、長く諄くなる。この悪循環をどこで見極めてどのように伝えようとするのかに迷う。

 「これこれこうだから、ポイントは3つで~」などと言えばいいのですが、これこれの最中に分からない人は質問してくる。まだポイントまで話していないから~などという思いは一旦保留し、これこれのこれから説明が必要になる。これが恐らく言葉で伝える際の限界点なんでしょう。シンプルに、時に複雑に言葉を想起するとき、必然的に相手のポテンシャルも見極めなければならない。特に、日本語の構造は伝えようとするときに言葉の意味の広がりが少なく、英語のような広がりがない。この構造に悪い意味(悪いケース)で慣れ親しんでいるため(勿論、私も含めて)、言葉(文字)で伝えようとするとき、相当の心情が作用して論理が崩される。最近、ある書籍で「あいまいな楽観主義」というフレーズに出会い、改めて言葉の力の限界点を探っています。

 一方、イメージで伝える、イメージで理解するというケースではこの限界点はどうだろう?感覚やニュアンスやフィーリングの部分です。デザインの仕事ではこのイメージの効用を熟知しておく必要があり、イメージを成果物などで伝えようとするケースでは、つくり手がどこまでイメージをイメージとして理解しているかで伝導率に優劣が生じる。この一見「イメージでイメージを伝える」と言葉にしたが、この伝え方には千差万別新羅万象支離滅裂喜怒哀楽が連動しているため、整理すれば、機能が低下・鈍化し、突き詰めて研ぎ澄ませば曖昧になるというジレンマが生じるので、結果、言葉と同様に、シンプルさと諄さの矛盾ありきで立ち向かわねばならないのです。

 そこで、改めて「聞く」という行為ですが、このブログを読んで(聞いて)どの程度の理解度を得られましたか?また、ここまで書いてどれだけ言葉にできたかな?ということ。つまり、相対的な接点をひとつひとつのケース毎にしっかり習得・会得することでしか「聞く力」は長けないのです。無人島ならこんな苦労はしなくていいのですが。