2015年07月 アーカイブ

夏の伊吹山。

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 伊吹山、0.8合目付近です。なかなかの暑さでした。

又吉さん@火花

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 芸能人、特にお笑いさんの書籍を購入するのは2冊目。1冊目はたけしさんの書籍だったように記憶している。つまり、それほど長期間、お笑いさんの書籍は買っていなかったということになります。芥川賞は偉大な賞ですし、又吉さんの力量がどれだけ高かったとしても、純文学作品を評価する技量のない私にとって、又吉さんの書籍の中から、より「又吉さんらしさ」を掬い上げることができたらいいなぁ~という狙いです。お笑い芸人さんだから、とか、文芸業界のカンフル剤には、とか、レビューを読めば厳しい評価も多いが、それでも又吉さんは又吉さん。包み隠さず胸の内を認(したた)められたはずですから、そのフィーリングを一読書愛好家として触れたいというだけです。昨年の芥川賞の余韻がまだ心に鮮明に残っているだけに、「芥川賞を読む」という捉え方でも楽しめる一冊だと思います。地元、長浜の書店では売り切れだったので、アマゾンで購入しました。到着が楽しみです。

 余談ですが、このブログ記事が3,990本目となり、あと10本で4,000本となります。よくもつらつらと8年余り書いてきたモノです。3年ほどで飽きるかなと思いきや、いろいろな効果・効用があり、継続できたのでしょう。取り立てて4,000本ってことで、張本選手の安打数ほどの価値はありませんが、ひとつの実感として、ブログ機能を活用するテクニックは習得できたのかなと捉えています。これが、ノートやメモ帳ならどこに何を書いたのか8年前のことなど97%以上は紛失しているだろうから、ブログ機能のおかげで1本目に瞬時にアクセスできるわけです。

 いつか、又吉さんのように「火花」が出るような文章を書けるようになりたいです。

自分のスピード感。

 10数年前、ある地域のコミュニティーに参加した際、その自己紹介の場で私はこのような言葉を選んだ。「自分のスピード感で精一杯頑張ります。」と。つまり、自分のスピード感に合わなければ精一杯頑張ることが難しいという意味である。かなり高慢な言い方である。今、想い出すと大変失礼な言い回しをしたものだと反省している。それほど緊張し、それほどそのコミュニティーに参画することが刺激的であり期待値が高かったとも言える。結果、時間の配分や思考のタイプが合わず、元来、何かに所属すること、属性を持つことが得手ではないので、3年でそのコミュニティーは離脱してしまった。石の上にも三年だったのである。
 自分のスピード感って、誰に諭されたわけでも、公認基準で明確に捉えているわけでもないのに、社会生活をしていく中で自然と身についているものです。「ああ、この人はテンポがは早くてちょっとついていけないな」とか、「今更、何を言っているのだろう?その程度のことはこの場で取り立てて確認しなければならないレベルの大前提かな?」とか、リズム・テンポ・スピード感は思考に行動に言動にふるまいに露呈・露出する。だから、予防線として冒頭のような宣言をしたのだろう。いわば「石の上にも三年保険」である。その代わり、私自身、その3年間は自分なりに中身のある充実した期間だった。ひとつひとつのシーンが今でも明確に想い出され、仕事で人生で、いろいろな場面でその時の自身の思考パターン・行動パターンと照合し、同コミュニティーで出会い、いろいろな助言を頂いたことを明確に想い出すことができる。スピード感という自己評価と属性の中で相手・他人から頂いた様々な角度の評価はしっかりと私の心に身体にタトゥーのように刻まれているのです。
 属性から離脱すると大きな開放感と共に自己という制約に縛られることが意識され、使命感や責任感が無限に増幅する。組織・コミュニティー・団体の一員であれば、依存できること、共有できることがすべて自分自身で賄う必要があるのです。不安も焦燥も増幅しているのです。時間の余裕など常になく、自分の決めたスピード感を自己管理することで精一杯な状態になります。当然、それを望んだからそうなっているのであるが、苦しさと楽しさが表裏一体になり、理想と現実が交差する座標に自分がふっと立っていたとき、無類のリアリティーがこみ上げてくる。誰にも言い訳できず、自分の中の「精一杯」という言葉の重さ・サイズを直視する瞬間です。これが自分のスピード感なのかと。

記憶と理解。

 学校では記憶力のいい学生が有利だった。しかし、社会に出ると記憶力だけは対処できない。創造力や臨機応変な直感力であったり、思考と行動の組合せのバリエーションを鍛えましょう的なビジネス書は多い。記憶力(演算力)はムーアの法則に任せて、我々人間は・・・という切り口も有象無象にある。そんな折、「記憶ではなく理解を!」というタイプの書籍を入手した。なんとも潔い切り口で厳選された言葉が心地良い書籍だったが、欲を言えば、具体例が乏しかった。当然、このテーマが150ページ程度の書籍で網羅・展開できるわけなはいので、ここは、致し方なしと飲み込んだが、「理解」という言葉をこの著者は新鮮に捉えていた。この時代、情報が氾濫して同時に言葉も溢れているが、私達にとって「理解」するべき価値のある言葉(情報)は何%ぐらいあるのだろう?と。「理解」って「分かった」とは少しニュアンスが違って、「思考の深さ」みたいな条件が伴う。深さだから直線的にその感覚は何かの座標上で比較できるのか?となれば、それは直線的ではないような気がしてきて、言葉の綾の迷路に迷い込んでしまうのですが、「記憶と理解」この二つの言葉をしっかり定義することはとても重要だと理解できた書籍でした。

ネットビジネスの裏側。

ネットに溢れる「オイシイ」話はもうウンザリですよね?
本当の情報だけが欲しいのに・・・
本当に稼げる情報が知りたいのに・・・

という内容のメルマガが届いた。
 
 特筆するわけでもなく、この類は現代、塵のように空気中に漂っている。気になったのは、「ネットビジネスの成功の裏側に~」というフレーズ。「本当の情報」「本当に稼げる情報」というこの文体の組み合わせ方が、安易で軽率で短絡的なのは一旦棚に上げ、そもそも「情報」という言葉に対して私達はどれだけの多様な解釈をし、展開を想像しているのか?言い換えれば、どれだけ多様な解釈ができて、どれだけの有益な鉱脈としての展開プランを想像することができるのか?ということに意識が向きました。この程度のメールにいちいち食いつく価値はないにしても、それでも、一抹の期待、一粒の金脈があるかもしれないと期待することで、これらの塵が山になる可能性もあるのかなと。

 企画会議などでよくある陳腐なテーマを「スギノさん、クリエイターらしく膨らませてくださいよ!」という脈略のない期待・要望を受けるケースがよくあるが、枯れ木に花を咲かせるマジックがあれば、いくらでもさくらの花を咲かせ、そのさくらの木で薄をつくるのですが、テーマがどれだけ致命的に微弱であっても、確かにクリエイターなんだから、その一粒の粒子を二粒に、想像の世界で広げることぐらいしなければ、確かにクリエイターの価値はないのかなと感じる場面でもある。普通の人が一般的なアイディア力で構築したプランとは違う側面、違うゴール、違う成果を想像できるから、設計できるから、私達のようなビジネスが成立するわけで、過剰な飛躍であれ、荒唐無稽なルートであれ、誰もがドギモを抜くような成果を設計できる、そんなプランを「ちょっと会社に帰って調べてきます」ではなく、その場でその瞬間に放てるように日々のトレーニング、コンディションづくりを怠ってはいけないということ。

 もし、メルマガではなく、目の前に「ネットに溢れるオイシイ話はウンザリですよね」などいう奴がいれば、一番折れやすい尾骨の先を右からフックで折ればいいだけだが、このようにメルマガで一定の距離を置かれるとジャブさえ打てない。それをこのプランナーは利用してこちらが踏み込むのを待っているのでしょうね。戦略としてはとてもイマドキな有効打だと思います。

 つまり、この戦略がネットビジネスの裏側にあることを、プランナーはその裏テクに精通しているということをしっかり意識できていれば、どれだけ煽られてもこのリングに上がる必要も価値もないということが結論となる。ネットビジネスの裏側などこっそり教えていただく必要はないので、表側を正々堂々と言葉にできるようなテクニックを習得したいものです。そんな誠意あるコンディションづくりに取り組みたいと思います。とにかく、「裏」だとか「表」だとか言い出した瞬間に心のスイッチをオフにできるテクニック。だから、最近、テレビを見ていてAKBやエグザエルが出ると、オートマチックにこのスイッチがオフになる。政治論や教育論の戯言に対しても瞬間的にオフになります。これも日々のコンディションづくりの賜物である。このスイッチは重要な別の局面でオンにしなければならないのですから。

映画「オデッセイ」

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 2016年2月公開か、ちょっと先です。でもでも、かなり楽しみです。

「カホン」という打楽器

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 こんな打楽器があることを知らなかった。調べてみるといろいろなタイプがあり、いろいろなアナログテイストのいい音色のリズムを刻めるようです。テクニック次第でしょうが、基本は木の箱。ちょっとこれは興味が沸きましたので、恐らく、たぶん、近いうちに買うでしょう。

映画「ブルックリンの恋人たち」

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 DVDの発売が8月4日。そろそろ予約しようと思っています。アンさんが結婚後、ご主人と一緒に製作した記念すべき1本。これは何よりもマスト。音楽好きのアンさんならではなの素敵な物語らしい。とことん楽しみです。

友達承認。

 最近、SNS上のトラブルで多いのが「友達承認」による相互の誤解が招くビジネス上のトラブルらしい。相互に友達承認している関係だから、軽率に「良かれ」と思って判断して進めたことが相手側の不本意を招き、友達関係が破綻しビジネス上の関係も破綻するパターン。SNS上の承認破棄程度なら軽症だが、ビジネス上の契約問題まで発展すると、ただの不本意では済まない。いったいどこで関係が成立しなくなったのだろうか?とトラブルになり相談をする人が一様に然るべき相談窓口で口にするらしい。いったいどこで?って、逆にどこでそんな情報交換できる関係だと判断したのだろう?のほうが相談を受ける側の言い分だろうと思うのだが、さて、この顛末はどこで定着するのだろう?チャッピーなら知っている???

 私自身、SNSを通じて知り合った方に対して、対面でお話した人意外は「友達承認」をしない。SNSの黎明期には海外の人とインターネットを通じて知り合い、お互いの情報交換をするために、SNSの構造・仕組み上の「MATE」には承認して高揚していたが、真の友達だとは捉えていなかった。当然、相手も同じだろうと捉えていたが、その関係性が少しづつ情報交換を継続して続けていく内に、やぶの中の蛇になるのだろう。そもそも冷静に考えてみれば分かることが、ネットの世界は全てが仮想空間だから、リアリティーに欠け、実証不可能な世界なことを忘れ、気がついたら勇んでいるのである。電子署名などとデジタルで一見有効そうな仕組みを展開し、16桁のIDで認証し合う仲になったところで、さて、それが「友達」かと聞かれればNOである。これは誰も冷静になれば同感だろう。しかし、ネットの空間はこの冷静さをも巧みにすり抜ける機能が非常に高く、気持ちが緩んだというわけではないのですが、無防備になりやすく警戒すればするほど、ガードが下がる構造になっている。まして、スマホ片手に「いいね!待ちアレルギー」が慢性化していると、ノーガードに近い状態になる。猫のパンチでもノックダウンするぐらい無防備になっているから「友達同士!?」のトラブルが多いのだろう。

 そもそも、何がどうあれ、簡単に関係が破綻するような友達は誰もつくらないだろうし、そんな関係で友達と軽率に定義する人はいない。私の場合、友達ってのは、肉親より深い関係で、後ろからわき腹をナイフで刺され、振り向くと友達だった。しかし、意識が薄れていく途中でも、「ああ、こいつは何か理由があって私を刺したのだろう・・・」と思って息絶える関係が友達だと捉えている。だから、逆に私が友達だと思い込んでいる人は要注意。

 つまり、「友達」にもそれぞれいろいろな条件があるでしょうが、まずもって、友達って「承認」する存在ではないし、お互い承認し合う「友達」ってのもギコチナイ。まだまだ、インターネットは進化・覚醒し続けているようで、この程度のボーダー(境界腺)もクリアはできていないということ。まったく、ノー・ボーダー・オンザ・ホライズンってことなのですね。

釣り大会

 一般的に魚釣りのイメージは「待ちの体制」が多い。釣りの記事を書く機会を得て、ほぼ1年間、釣りについて専門誌に記事を書いてきました。釣りのジャンルはブラックバス釣りです。この機会を得て、釣具店の人や釣りを生業としているプロの方に取材をしたり、まったくバス釣りをしない人とバス釣りの話をする機会が増え、より、一般の魚釣りのイメージは「待ち」なんだと感じた。1本の竿で糸に浮きと針と餌をつけ、魚が餌を食いに来るのを待つ釣り方です。この釣り方は自身子どもの頃に近くの海でよくやっていた。目的は釣るためだったが、釣れた魚は自分で捌いて調理して食べていた。だから、「待つ」釣りのことは少し理解しているつもりです。そんな待ちの釣りを一通り経験してブラックバス釣り、つまり、ルアーフィッシングに出会った。疑似餌と呼ばれるルアーを餌の代わりに糸に付けて水中に投げるのです。ルアーは魚の形をしたり餌に似せた素材でそれぞれ独特の動きをする。その動きを利用してブラックバスを反応させ、ルアーをくわえさせるまでがこの釣りの醍醐味でありテクニックなのです。ルアーは人工物ですから、水中に投げているだけでは動きませんし、ブラックバスにとって本来は食性の対象ではなく、あくまでも擬似なのです。ロッドを巧みに動かしてルアーをまるでバスが捕食する小魚やえびの動きをさせて、バスに口を使わせる釣りなのです。だから、餌釣りのように水中に餌を投げればあとは食いつくのを待っている釣りではなく、常にキャストとロッドアクションを繰り返して、ルアーを動かしていなければなりません。餌の釣りが「静の釣り」なのに対して、ルアー釣りは「動の釣り」なのです。
 そんなルアー釣りをして楽しんでいた頃、バス釣り大会への誘いがありました。まだビギナーだった頃で、ようやくコンスタントにルアーでバスが釣れるようになった時期だったので、釣り大会に参加しても、自分のテクニックや知識では到底上級者に勝ち目などなく、惨敗をするのが嫌だったので、躊躇しましたが、自分のテクニックや知識で競うことがとても楽しげに思えて、参加することにしました。当然、結果は惨敗。一定時間にバスを釣る競技大会ですから、競技時間が終了すると検量します。自分が0匹なのに、上級者の人たちは見事なサイズのバスを釣ってこられる。同じ時間で同じような道具を使っているのにこの歴然とした格差になるのは何故?何故?何故?という状況です。釣り大会の魅力は自分の力量が明確に分かることですが、そんな競技スピリッツを持った釣りの愛好家が集まるのも大会ですから、競技が終われば良き戦友なのです。どのポイントでどのルアーでどのように釣れたかをお互いに情報交換し、次の大会までに自分の戦略を練り上げ、足りないルアーや道具を探求する。これが楽しくて楽しくて完全に釣り大会にのめり込んでいきました。
 釣りを愛好する人の中には、時間を決めて釣果を競うことは釣りとして楽しくないと捉える人も多く、ひとりで、もしくは気の合う釣り仲間でゆったりと釣果を楽しむことが好きな人も多いです。恐らく、バス釣り仲間達も私と同様にそんな釣りを経て、バス釣りをしている人もいるでしょうから、釣りを通じて釣果を競うことが好きだった私と同じようなタイプが釣り大会には集まってくるのでしょう。釣果を競うって気質や気性と関係があるのだと思います。一事が万事、落ち着きのない私のような気性にはこのバス釣りはドンピシャで、競うことで深くなる友情や友好が何よりも好きなようです。
 また、8月にはいつも行っている大野ダムでバス釣り大会があるのですが、大会で優勝したいことは当然ですが、それよりも虎視眈々と優勝を目論みフィールドに集まる皆様とのひと時が無類の楽しみで、全力で釣果をひねり出していきたいと思っています。相手は水中の魚。どれだけ人間が意気込んでもその意気込みがブラックバスに伝わるはずもなく、開始早々、意気消沈することもしばしばですが、それでも、釣果を期待しルアーを動かす「動の釣り」は私の気性とどこまでもマッチして、楽しくて楽しくて楽しくてなのです。

 昨晩、見た映画「アメリカン・スナイパー」のクリス・カイルがシーンの中で言ってました。トリガーを引く時は意気込んではいけない。無心であるべきだと。呼吸を整えて、呼吸に呼応するように指をただ引くだけなのだと。バス釣りも同じです。

デザインの基本。

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 私は美術学部だったのでデザインの基礎的な知識は学校では習っていない。大学4年間の実習で学んだことは絵を描くための素養や気質の部分とテクニックに展開するためのテンプレートだけです。デザインの基本についてはデザイン会社の現場で1から習得しました。

 例えばこの図のような考え方もすべて現場で習得しました。デザインの仕事現場で基礎的な知識がないことは、不安でしたし、すでに経験値のある皆様とのコミュニケーションもぎこちない手探り状態でした。しかし、基礎知識がないことは探究心や研究意欲に繋がりましたし、今、思えば右も左も分からない状態で仕事現場に飛び込んだことで吸収率も高く、応用として即戦力に繋がったのだと、勝手に捉えています。

 デザインの基本とは、学生の頃にしっかり習得すべき知識と経験ではありますが、基本的な知識とは言え、ここまで知っていれば習得していれば十分というリミットが実はなく、応用力はもとより、基礎知識でさえ、仕事現場では案件毎に変化・変動するので、逆に基本的な知識が0だった状態から、いきなり現場に入ったことで、何事も案件毎に「1から学ぶ姿勢」が「あたりまえ」と捉える姿勢になったのでとても現場向きの体質になれたのかなと捉えています。

 何事も「点から線へ」「線から面へ」「2Dから3Dへ」へというルートは基礎知識ですが、最初の「点」をどこに打つのか分からないと成果に繋がらない。これが現場で起こる障害の原点です。「点」など、インターネットで検索すれば無限にあるだろう的な捉え方をしている以上、無重力空間で手足バタバタ状態に陥るタイプの典型的なパターンです。ソフトでドットやピクセルを自由に制御するためにも、最初の1点は自分の手で打ち込みたいものです。

9つのタイプ

 人間ってこの9つのタイプに分かれているという説がある。

タイプ1 完全でありたい人
タイプ2 人の助けになりたい人
タイプ3 成功を追い求める人
タイプ4 特別な存在であろうとする人
タイプ5 知識を得て観察する人
タイプ6 安全を求め慎重に行動する人
タイプ7 楽しさを求め計画する人
タイプ8 強さを求め自己主張する人
タイプ9 調和と平和を願う人

 占星術もしかり、属しているという心地よさと違和感のバランスが人間の本質である以上、「あなたはこのタイプ!」と誰かに規定されるのは嬉しいような苦しいような。社会人である以上、起業している以上、生きている以上、必ず属性があるもの。国だったり性別だったら世代だったり学歴だったり趣味趣向だったりテクニックだったり。これもrelationshipの作用なのでしょうね。

起業家型ビジネス支援。

 「「職人型ビジネス」から「起業家型ビジネス」への発展を支援する。」切り口のコンサルタントからダイレクトメールが届いた。無作為に送ったのか、どこかで私の情報とメアドを入手したのか、ルートは見当つかないし、よくあることなのでその部分は受け入れるとして。

 このコンサルティングのポイントは「経営者が動き続けなけれればならない「職人型ビジネス」からの脱出方法とは?」からの「社長が3ヶ月不在でも成長する会社のつくり方」という切り口。ああ、こういうことか!なるほどなるほどという第一印象でした。つまり、具体例や実例はこの段階では隠す手法であり、曖昧な言葉をあえてジャブを打ち、海外の白髪の老人を登場させ、創始者らしき写真を掲載して、リアリティーはそちらで判断してくださいという情報タイプなのです。当然、現代、景気は悪いから「社長が3ヶ月不在でも成長する」というフレーズは甘味ですし、仕事にプライドやスタイルを持っている人はどうしても自己分析上、自分自身を「起業家タイプ」とは捉えず、「職人型」だと捉える傾向が強い。そのストライクゾーンを設定した上で、「3ヶ月不在」という売り言葉で決断を促している。

 また、職人経営者では事業が大きく発展しない3大理由と題して、「職人としてのプロ意識」を最重要だと考えてはいけない。「売上」を商品を販売した合計金額だと勘違いしている。会社を発展させるために優秀な人材を探すことに四苦八苦している。と限定している。つまり、通念・セオリーを覆すことで、職人型から起業家型に変化しなさいという警笛なのです。まぁ、すべて情報として受け入れたとして、「ここまで言うなら一回相談してみようかタイプ」がこの企画のメインターゲットでしょう。想定・推測ですが、このメルマガの送信先の0.3%ぐらいが現実、反応するのかな?

 ここ数年、起業ブームで非営利から有限・株式と凄まじい起業が起こっていて、その80%の企業が1年以内に倒産・機能停止しているらしい。この数値は海外でも同様でアメリカでも1年以内に機能停止する企業が80%以上で、自滅ではなく、起業プランがビジネスの潮流に乗らず投資家が手を引くというパターンらしい。自社の中核競走能力が明確に打ち出せず、大きな世の中の流れである「エコ」「新エネルギー」「介護」「投資」「バイオ」などのフレーズをトレスするだけの起案が圧倒的に多いらしい。日本でも「まちづくり系」「アート系」「エンタメ系」の切り口が氾濫しているが、これらはさらに表層にある、超薄口の切り口です。

 根本的に「起業したいのか?」「仕事をしたいのか?」さえ、曖昧なタイプは「私は職人タイプだから」「これからは起業家タイプで!」と自分の属性ばかりを気にし過ぎ、前後関係の調整に本質を見失っているだけです。このタイプのメルマガに反応する人がいるかもしれないという推測が成立すると捉える、意識してしまう本質こそが、実は最大の敗因のような気がします。

 って、偉そうなことを言いたいのではなく、自分自身は自身の覚悟のレベルを確かめることで、情報を取捨選択し本質的に手が届くゾーンの中でしっかりひとつひとつ成果を上げていきたいと思っていいるスタンスなので、仮にそれが職人型でも起業家型でもどっちでもいいことです。属性に依存するタイプは常に負け戦を想定しているため、自己責任を黙認(無視)し組織に責任を転化することを当然としているのだそうです。「チームワーク」「和の精神」「団体行動」「協調性」がほぼ欠落している私はギリギリ社会人のひとりとしての属性を感じ(捉え)つつも、常に自分の思考・言動・行動に責任を持ちたいと思っています。それが苦難(当然)であっても、茨のルートであっても、このルートしかなかったのだからこのまま進むしかないという覚悟です。少しバイアス気味の考えですし、ヒューリスティックな思考かもしれませんが、とにかく、あまり美味しい言葉には警戒心を、甘美なイメージは一旦全否定してからニュートラルに捉える、ぐらいがちょうど良い加減なのだと思いました。

 最近、野良猫の子どもが玄関をうろうろしている。我が家の番犬も威厳を失ったものです。で、子猫が5匹いるのですが、餌を小さいケースにいれて玄関のあたりの置いておくと、かならず、ちょっとやんちゃな1匹が食べに来ます。あとは警戒してそれをただ見ているだけ。恐らく空腹だろうに。勇気を出して餌を食べに来た最初の子猫は偉い!親猫でさえ、それをただ眺めている状態。3m以内に犬がいるのに、1m以内に人間(私)がいるのに、その一匹だけが餌を食べに来ます。「お前さん、勇気があるね。」ってかんじです。恐らく彼は「職人型」でも「起業家型」でもないはずです。

素敵なアイテム。

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 これがこう見えて鉛筆なのです。意外となかっただけに即バイト!


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 これは、世界のインク・オブ・イヤーになったインク。アメジズトという宝石をコンセプトにその成分も含まれているらしい。深い赤味のあるエンジ系とパープル系の中間の色で、なかなかこの色味はイラスト用のカラーインク(染料)にはなかった色調です。イラスト用ではなく文筆用です。


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 そして、こちらが500ページの特厚ノート。用紙はかの「パピルス」。なんか文庫本チックで素敵です。


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 そして、気まぐれ衝動買いが特に多いライト。とにかく、理由もなくライトとナイフは直感的に買ってしまいます。どうしても。いや、どうしてもってことではないのですが。

 なかなかの逸品揃いです。我ながら。

7月12日の伊庭内湖。

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 いやいや、この朝日を見ている段階では素敵な一日だったのですが。

猛暑。

 台風11号がやってくるようですが、梅雨は明けたのか?昨日、全国で820名が熱中症を訴え病院に搬送されたそうです。熱中症が原因で亡くなられた方も3名と新聞に出ていた。確かにかなり暑い。夜も熱帯夜だから水分補給と室温を調整しなければ脱水症状が悪化して命の危険もあるそうです。こまめな水分補給が熱中症を回避する最善策。食欲の減退が体力低下のサインの一つらしいですから、水分と食事をしっかり通常通りに摂取してこの夏を乗り切りたいものです。

 しかし、820名ってよく1日でカウントして調べ確認して公開できたものですね。これは単純に捉えて、多いのか普通なのか少ないのか?という疑問が浮かぶが、新聞で820名!って書いているってことは「こんなに多いのです!」というニュアンスがあるわけで、実際、どのようにリサーチしてどこまでのレベルが搬送の対象かについては記載されていないわけですから、ただ「熱中症で820名搬送」という文字にどこまで反応するべきかは実は曖昧だったりします。しかし、通念、新聞という大前提でわざわざ特筆して「820名搬送!」って書くぐらいだだから、820名は相当多いんだなだぁ~と思ってくださいというニュアンスになっているのでしょう。「猛暑」と「820名熱中症で搬送」の関係性を思考の中で繋げて、ニュース記事(情報)として成立していると理解させられているということ。これは新聞の記事であるという大前提だから情報の鮮度や数値の信ぴょう性が確保できるわけで、SNSにはまだその大前提がない。どこの誰がわからないけど、「このラーメンは絶品です!」という写真と文面に信ぴょう性を持たせることが、今後のIoTの取り組むべき課題なんでしょうね。イメージと言葉の組み合わせ方って難しいです。

 健康について書き始めたつもりがただの独り言になってしまいました。文章力って「理」と「情」を組み合わせて、独自の配分で自由自在に変化します。これは、私がまだまだ文章力を分かっていないから、理解力も分析力も表現力も足りていないのでしょう。もし、「新聞の大前提」がなければ、「820名熱中症で搬送」も書き手のさじ加減で自中自在に変化するわけですから。

 シリコンバレーのエンジニアはブログやSNSの中に含まれるキーワードをピックアップしてデータ化して、エンドユーザーのタイプを分類し新しいアルゴリズムの開発に活用しているらしいが、この記事の中から私という属性を特定する適正なキーワードなんだろう?

 今日も暑くなりそうなので、搬送されないように注意して頑張りましょう!

6月21日第3戦、伊庭内湖にて。

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 いつも伊庭内湖のバスフィッシングトーナメントではこんな感じで釣っています。有志の方から頂いた写真です。エレキ万全の皆様と比較すればなんともおっさん臭い貧素な絵ですが、ここで入賞できそうなビックフィッシュをバラシました。あさっては第4戦です。マイペースに自分のスタイルで3匹をひねり出したいと思っています。当日、どんな幸運の風が吹くことやら。

ある夏の想い出

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 30歳の頃、ちょうどこの時期、ニューヨークの郊外に住んでいた。大学の授業がないときはよくこんな風景の中で英語の勉強をしていたことを、ふと想い出した。乾いた空気、静かな森、不安が次第に薄れ風景に馴染んでいる自分。いろいろなことを考えていた時期だっただけに、記憶の中の風景も鮮烈で印象的なシーンが多いが、決してトゲトゲしていない、とても「良い重さ」「良い厚さ」「良いテイスト」のひとときでした。
 いろいろお世話になったマレーシアのルームメイト、今、母国で元気にしているのだろうか?
 よく、ベンチに座っていると、野良リスや野良うさぎが視界を横切っていった。ある夏の懐かしいシーンです。

縁と相性。

 中島みゆきさんが言っている。「縁のある人は万里を超えてやってくる。縁のない人は顔を見合わせて術もなく行き過ぎる」と。人間同志の相性って不思議なモノで、特定のパターンがあるようでないようで、規則性や方程式が非常にとりとめない。この不安定なモノに一喜一憂していると恐ろしく時間を無駄遣いしてしまうので、私はできるだけ直感で迅速に見切り、「ああ、この人は縁がないな…」と感じてしまうと、踏み込むことも無碍に共感を抱くこともやめている。

 子どもの頃、小学生の頃などはここまで実感がないので、何故こいつはここまで角が立つのか?いちいち、反論するのは何故か?私が嫌いなんだろうけど、私は好きでも嫌いでもないのだから無視したらいいのだが、なんか気になって気になってというふうに思い悩むことで時間を無駄遣いしてきたように思う。例えば、その彼が学級委員長に立候補する。私はクラスから推薦を受けて二人の投票になる。当然、皆から推薦された私が学級委員長になり、彼は落選する。こんなパターンがよくありました。私は学級委員長などどうでもいいのに。それは、中学でも高校でも大学でもあったし、当然、社会に出てからも頻繁に起こっている。どうも苦手なパターンなのです。私自身は決して、嫌いなタイプではないのですが、相手は私を受け付けないというケースです。大学の時にもとにかくすべて(発言に行動に)にぶつかってくる奴がいましたが、私は彼の言葉が耳に入りませんでしたし、彼の存在に対して術もなく離れていました。

 一方、万里を超えてやってくる人もいるわけで、出会うその瞬間まで縁もゆかりもなかった人なのに、ただ「バス釣りが好き」「山登りが好き」「デザインが好き」「映画が好き」ということだけで、瞬間的に親密になるパターン。これはとことん嬉しいケースで、自分の世界観に共感してもらえる瞬間はどんなことよりも嬉しい。デザインの仕事もこのような一期一会の場面が多く、長年お世話になっているクライアント様に対しては、絶対に妥協せず、とにかくいいデザインの成果を生み出すことに365日を費やしている。できれば、1年は730日欲しいぐらいだ。その反面、苦手な人に対しては、申し訳ないぐらい心を閉ざしてしまっています。歩み寄っても脈が0%なのですから仕方ないのです。こればかりは。

 ただ、私が勝手に相性がいい思い込んでいる節も否めないので、私自身の自己分析だけで、縁とか相性を語るのは危険です。あくまでも相関・相対のことですから、思い込みや先入観や既成概念や悪しきバイアスはいつでもリセットできるコンデションを維持したいものです。

 「縁と相性」、不思議な関係性です。

垂直飛び

 年齢と共に「健康の数値」が気になる。健康診断などで検査される血圧や脈拍や血液の成分なども気になるし、視力や聴力も気になる。当然、肺のレントゲンなども。ここ数年、健康診断に行っていなかったが、まぁ、この年齢になれば3年に一回ぐらいはと思ってエントリーしました。前夜から胃の中を空にしたり、消化器系の動きを抑制する注射を検査の当日打たれるので、逆にテンションが下がるが、これも正確な健康の数値を得るための必然。気持ち的にも個々の部位的にも現在不安要素はないが、当日、まな板の上に乗れば51歳なりの現実的な数値に直面することになるだろう。
 一方、運動能力(身体能力)の点では、地元で一般応募可能な陸上記録会があり、この秋に100mにエントリーしようと思っていますが、今のところまったく走れていないので少なくとも1ヶ月前あたりから走りこまねばと思っています。目標は13.9秒。また、握力計もデジタルのモノを持っているので、気まぐれに計測しています。握力って手の筋肉の強さの数値なのですが、握力が低下することで、その他の筋肉も低下している可能性があるらしく、身体全体の筋肉力の低下を示す目安だそうです。現在、右が58kg、左が45kgなのですが、これは51歳の平均よりも10kgづつ高いレベル。また、握力の強さは手先の器用さや上半身の俊敏性にも関係が深いので低下しないように現在の数値をキープしたいと思っています。
 そして、最近、ふと気になったのが「垂直飛び」。全国平均一覧表を確認すると、最高は17~20歳ぐらいで平均値が60cm。私は高校3年生の時、両足を故障していたが75cmだった。現在、51歳。全国平均は43.47cmですが、私は58cmでした。つまり、平均よりも15cm上のあたりをキープできていれば、自身の安心適正ゾーンかなと思っています。健康診断も100mも実際ガチで計測しようとすれば、専門機器や準備が大変ですが、握力や垂直飛びぐらいは簡単にどこでも計測できるので、自分の健康の数値を確認するにはお手ごろでお手軽なチェック項目だと思います。ちなみに、垂直飛び(全国平均)の最高年齢は17歳の61.09cmなので、あと3cmで17歳レベルかと思うとなんとか62cm超えを狙いたくなる健康オタクなおっさんでした。
 いやいや、こんな奴(私)に限ってコロリと逝ってしまうもので、それはそれで仕方ない。

雑談力と共感力

 どれだけコンピューター(人工頭脳)が進化しても人間の「雑談力」と「共感力」はプログラムで再現できないらしい。記憶力や整理力や様々な機能は圧倒的に人工頭脳が有利らしいのですが、人間の人間たる証として「雑談力」と「共感力」こそが決定的な違いだと、ある脳科学者がその著書で言っておられた。例えば、人工頭脳と人間が雑談らしき会話をしても、人間の思考の展開には到底及ばないというレベルで、人間らしさとは思考の展開・連携・結合であり、それは記憶をただ時系列に並べるだけの直線的な経路ではなく、複雑に絡み合った思考の綾なのだそうです。この過程で「不安」「焦燥」「憤慨」など喜怒哀楽が生まれ、その状況をまた多重な人格が捉えることで、人間らしさが生まれるのでしょう。いわばストレスもコンプレックスもアレルギーもシンドロームもこの接点で生まれるクオリアであり、でこそ人間だと。

 実際、私はあまり雑談が好きではありません。井戸端会議的な酒の席での無味乾燥な雑談が好きではありません。できることなら雑談が始まりそうな雰囲気の前にその場を退席したいと考えているタイプです。狙い・意図の明確ではない会話がたた退屈なのです。しかし、雑談力こそが人間らしさというこの著者の見解を知るにつけ、もしや、それを毛嫌いしている私は人間らしくないのかとも感じました。一方、仕事でパソコンは活用していて、初期のMACからだとほぼ27年ほどお世話になっている。当然、パソコンを使う主目的は仕事だから、余計なアプリもアイテムもハードから削除しています。なんせ、パソコンというツールの目的・成果に対するストレートで無駄のない仕組みが好きなので相性もいいのでしょう。パソコンがないと成立しない仕事をしているために必須アイテムだとは言え、初期の頃から初級者の頃から、パソコンに対するアレルギーはなく、興味を持って取り組めたことでいろいろ専門的な経験値が習得・蓄積できたのだと捉えています。時々、フリーズしたり故障するロジックでさえ、愛らしいツールです。また、プログラムを組む時も、言語(文法)にミステイクがあったり、一文字でも欠ければ機能不可になる正直さも好きです。期待値と反応の等価交換率が適正な部分がお気に入りなのでしょう。

 一方、バグの不確定要素の気分次第の多重多層なタイプの人との雑談は好まず、当然、共感もできないようです。不確定要素こそが人間らしさだと言えばそのとおりではありますが、やはり、私は偏屈者なのか、心底、繋がっていたいというタイプの人はあまり多くありません。

新しい机

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 ホテルの支配人のご好意で白いデスクを譲っていただいた。お部屋をモデルチェンジしたため必要なくなった机です。保管場所に困っているため、という理由で処分するぐらいなら使っていただければという経緯です。ホテルのお部屋用の机なのでビジネス用ではないのですが、とてもしっかりした作りです。広さも十分ですし、余計な引き出しがついていないのでシンプルなデザインの机です。

 白い机、そして、いつも仕事で使っているアイテムです。気がつけば「白色」が多いことに気がつきました。あまり意識はしていなかったのですが、最近、ここ1年ほど、購入するツールやアイテムは「ホワイト系」が多い傾向です。元々、白という色は一番好きな色なので、年齢を重ねる毎に本質的な趣味趣向に立ち返っていくようです。白色が精神安定上、フェイバリットな色のようです。

 机も広くなったので、思考枠もしっかり余裕をつくりながら仕事を頑張ろう、という感じです。

最速チェックメイト。

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 これは気持ちいい!自身最速のチェックメイトです。

サムライスタイル。

 かれこれバスフィッシングを始め25年目になりました。バスフィッシングに関する情報発信をしたり、海外(中国)の雑誌に記事を書くようになり、改めてバスフィッシングの多様さを再確認しています。餌釣りに対してルアーフィッシングは道具やルアーの種類も多種多様で、必然的に釣りのスタイルも多種多様です。例えば、船に乗ってジグでハマチを狙う場合、ロッドやルアーのバリエーションが極端に多くなることはありません。予備として2本目のロッドやルアーが増えることはあっても。しかし、バスフィッシングのロッドやタックル・ルアーは種類が非常に多い。まだビギナーの頃、専門店に行き、その種類の多さにドンビキだった記憶があるくらいです。どのロッドとリールとタックルを組み合わせればいいのか皆目検討がつかない状態でした。そんな中でも上級者の方のアドバイスや経験豊富なエキスパートからいろいろな助言をいただきながら、現在も自分のスタイルを模索して楽しくバスフィッシングをしています。

 そんな中、さて、それだけ多種多様なバスフィッシングの中において、自分のスタイルはどのゾーンなのだろう?という疑問がふと浮かびました。何が正解かは人それぞれでいいと捉えていても、自分のスタイルについてはある程度認識しておく必要があると感じたからです。特に顕著なのはバス釣りの大会などに参戦すると自分のスタイルと他のプレイヤーとの装備の違いが明確です。明らかにボート釣りの大会ならば、ボートの上にある装備が異なるからです。例えばロッドの本数です。私は通常3本(3本しかもっていない。)ですが、ほとんどのプレイヤーは5~10本のロッドをボートに持ち込みます。知識としてどのロッドでどのルアーを投げるのかについては理解していますが、必要性はとなると、私のスタイルとは明らかに違うことが分かります。では、何故なのか?同じ大会時間(5時間)を競うのに、私はほぼ1本、他の多くは10本という違いは何故なのか?という疑問です。これは当然、キャストするルアーやタックルのバリエーションに比例しているのですが、それはより多くの大きなバスを大会で釣るためだということなのですが。これが一般的なスタイルなのに、では、何故、私は1本なのか?ということです。こだわりと言えばこだわりですし、マイスタイルといえばマイスタイルですが、10本と1本でどのような狙いの違いがあるのかと最近よく考えます。ただ、好きで釣りをしている状況なら、このような分析は必要ないのですが、情報発信者として記事を書くライターとしては、やはり、この部分をニュートラルに認識しておかねばと感じたのです。

 このスタイルについては、デザインの仕事にも適用できる捉え方で、ロッド10本で巧みなテクニックで釣るタイプと1本にスタイルを収束し、じっくり丹念に成果を上げる狙いは酷似しています。結局、釣り人であり、デザイナー(クリエイター)である本体(自分)は一人なのですから、本質・気質にマッチしたスタイルに定着するということなのでしょう。

 成果を上げるスタイルはひとそれぞれ。そして、それぞれに理由や背景や根拠があるのです。

 10年前、大野ダムというフィールドで釣り大会に参戦していた頃、ある方が「兄さん(私)のスタイルは正にサムライスタイルですね!」と言われたことがある。ほぼ1本でルアーを投げ続けるスタイルを指して釣り仲間がそう命名してくれたのです。実はこのネーミングはとても気にっていて、ただ、不器用なだけなのですが、それにしては成果・結果が高い、ゆえにリスペクトしてくださったのだと捉えて、少しいい気になっています。

 世の中には、ほんと、いろいろな情報や手法が溢れておりますが、私はバス釣りも仕事も「サムライスタイル」でマイペースに取り組んでいこうと思っています。

兎に角

 うさぎに角はなく、亀に毛はないが、兎に角ということ。ありえないことではあるが、「とにかく」という当て字であり、「兎角亀毛」は仏教用語らしい。そのテイストを「とにかく」として文章に用いた記録は平安時代の文献で確認されているらしいが、本格的に世間一般に認知が広まったのは夏目漱石が作品で使ったことが要因らしい。言葉(言語)は生き物のように呼吸し変化し進化しているのです。

 とにかく、この夏は「三四郎」を再読してみようと思っています。

修正・訂正・微調整。

 デザインの仕事は一見、華やかでクールな印象を持たれやすい。実際、自身も東京でデザインの仕事を始めた頃は、自分のスタイルをクライアントに披露して理解させ、スイスイっと仕事を成立させるという理想像だけを描いていました。しかし、精通すればするほど、アイディアや着想はごくごく初期の段階のプロセスであり、独創的な表現や固執した技術だけでは成果につながらないことに気づきます。当然、無知で知識が足りていない状態ですからこそ、そう捉えてしまうしかないわけで、その裸の王様的な状態がクリエイターだと思い込んでいたのです。今、考えると冷たい汗が流れます。しかし、世の中には有名・著名なクリエイターがいて、その皆様は実際、自分のスタイルのみで成果を生み出すことを期待されている人たちです。しかし、一般的なデザインの仕事はこのような一方通行では決して成立しません。しっかり、クライアントさんの企画書や指示書を頭に入れて、デザインの方向性や表現手法なども習得しておかねばなりません。なんせ、それが欠落していれば仕事が成立しないのですから。いい仕事はこのような知識やテクニックを習得するとてもいい機会です。それは、20代の頃も、51歳になった今でも全く同じ捉え方をしています。

 着想・設計・制作からの、「修正・訂正・微調整」、このチューニングのテクニックこそが実はデザインの仕事の真骨頂なのだと捉えています。

 しかし、ただのチューニング専門職ではデザインの仕事は成立しません。修正・訂正・微調整作業など誰でもできるからです。このプロセスでも「より良く」「よりらしく」という捉え方をする必要があるのです。そのための経験値であり予備知識であり専門的なテクニックなのです。自分の理解力の低下、知識の浅さ、モチベーションの鈍化などなど、マイナス要素はあげればキリがなく、苦しいことも多い仕事ですが、それでもどこか「楽しい」のが、デザインの仕事の一番の魅力だと思います。私は。

 とにかく、うまくことが運んでいる状態、気持ちが高揚し調子に乗っている時こそ警戒しなければなりません。諸手を上げて浮かれていると、ひっそりこっそりと「暗雲」が西の空からやってくるからです。