自分のスピード感。

 10数年前、ある地域のコミュニティーに参加した際、その自己紹介の場で私はこのような言葉を選んだ。「自分のスピード感で精一杯頑張ります。」と。つまり、自分のスピード感に合わなければ精一杯頑張ることが難しいという意味である。かなり高慢な言い方である。今、想い出すと大変失礼な言い回しをしたものだと反省している。それほど緊張し、それほどそのコミュニティーに参画することが刺激的であり期待値が高かったとも言える。結果、時間の配分や思考のタイプが合わず、元来、何かに所属すること、属性を持つことが得手ではないので、3年でそのコミュニティーは離脱してしまった。石の上にも三年だったのである。
 自分のスピード感って、誰に諭されたわけでも、公認基準で明確に捉えているわけでもないのに、社会生活をしていく中で自然と身についているものです。「ああ、この人はテンポがは早くてちょっとついていけないな」とか、「今更、何を言っているのだろう?その程度のことはこの場で取り立てて確認しなければならないレベルの大前提かな?」とか、リズム・テンポ・スピード感は思考に行動に言動にふるまいに露呈・露出する。だから、予防線として冒頭のような宣言をしたのだろう。いわば「石の上にも三年保険」である。その代わり、私自身、その3年間は自分なりに中身のある充実した期間だった。ひとつひとつのシーンが今でも明確に想い出され、仕事で人生で、いろいろな場面でその時の自身の思考パターン・行動パターンと照合し、同コミュニティーで出会い、いろいろな助言を頂いたことを明確に想い出すことができる。スピード感という自己評価と属性の中で相手・他人から頂いた様々な角度の評価はしっかりと私の心に身体にタトゥーのように刻まれているのです。
 属性から離脱すると大きな開放感と共に自己という制約に縛られることが意識され、使命感や責任感が無限に増幅する。組織・コミュニティー・団体の一員であれば、依存できること、共有できることがすべて自分自身で賄う必要があるのです。不安も焦燥も増幅しているのです。時間の余裕など常になく、自分の決めたスピード感を自己管理することで精一杯な状態になります。当然、それを望んだからそうなっているのであるが、苦しさと楽しさが表裏一体になり、理想と現実が交差する座標に自分がふっと立っていたとき、無類のリアリティーがこみ上げてくる。誰にも言い訳できず、自分の中の「精一杯」という言葉の重さ・サイズを直視する瞬間です。これが自分のスピード感なのかと。