2015年09月 アーカイブ

いいなぁ~穂高。

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 ある山男さんからいただいたこの連休の穂高の写真。いいなぁ~行きたいなぁ~、でも、ザック15kgかぁ~。テント泊いいなぁ~、でも、早朝は気温が0度以下かぁ~。まず、何を揃えればいいのでしょう?寝袋かな?テントかな?それとも登山用のタフな精神力かな?このテント群は見事ですね。雪が降る前に山に行きたい。

犬的なアプローチ。

 「犬の収集癖」で検索するとこのような記事がヒットしました。

 「自然界で生きる動物の場合、いつ食べ物が食べられるかわからないため、あまった食料を隠して後日掘り起こすことがあります。これは後々自分で食べるためであって「大事なもの=隠す」という習性でもあります。ペットとして飼われている犬の場合は、しっかりと食事を与えられているためこのような動作が見られることは少ないものの、かわりに大事なものであるおもちゃを隠す傾向が強くなります。人間にとっては一見ガラクタと思えるようなもの(片方だけのサンダル、ペットボトル、壊れた植木鉢など)も、犬にとっては大事なコレクションのひとつなのです。」

 なるほどなるほど。「人間にとっては一見ガラクタ」という部分、何故かどこか共感します。他人から見ればくらだいないモノに価値を感じる感覚は本能だと言ってしまえばそれまでですし、趣向と捉えれば利己的な価値観になります。

 昨晩、地上波初ということでハリウッド版の「ゴジラ」がテレビで放送されていました。この地球上にゴジラが存在する可能性をつきつめれば限りなく0に近いのでしょうが、さりとて、0%でもないはず。原爆・水爆の影響が自然の生態系にどのような悪影響を及ぼしているか、及ぼしてきたかということについて人間はいつの時代も振り返り検証してきましたが、結果、巨大な未知の生物が海中や地中に潜んでいるかもしれないという可能性(仮設)は個人的にとても刺激的です。ムートーとゴジラの戦いにただ翻弄されている人間を人間が描いている以上、別段、ゴジラは救世主でもなければ人類の宿敵でもない。ゴジラに根拠も理由も理屈もないのですから、という設定です。

 ゴジラがムートーの小さい方(オス)をその尾で粉砕し、大きい方(メス)を放射能で狩った時、映画の登場人物達は「人間の味方だ」「地上神」「救世主」だと言いますが、それはゴジラにしてみれば全くの無意味です(という設定)。ゴジラはその本能(嗅覚)のままにどこかから現れ、自然界の法則のまま、相手を迎撃し駆逐しただけなのですね。日本のクリエィティブ「ゴジラ」がいい感じでひとり歩きを始めた瞬間でもあります。

 五感で捉え本能で受け取っている様々な情報に対して、言葉にならない理論化されていないゾーンをもっとしっかり捉える必要があるのかもしれません。犬がその本能でガラクタを集めるように、言葉にできない心のゾーンを開きたいものです。そしてそのゾーンを活用し、犬的なアプローチで自身のクリエティブ(仕事)に活用したいものです。

17秒65。

 陸上部の娘に近くの競上技場まで一緒に来てもらい100mのタイムを計測してもらった。特に毎日、ランニングをしているわけでもなく、ただ、腰痛にならない程度の健康管理(運動)しかしていない状態で、ちょっと無理をすれば100mぐらい走れないわけではないが、というレベルで一回自分の100mのタイムを知りたくなったからです。競技場のレーン以外でアップらしきことをして、何本かスタート練習らしきことを繰り返して2本走った。1本目は100mの感じを想い出すために70%程度で走った。すでに太ももがフワフワしてきた。50mあたりまでそれなりに加速する感覚があったが、あとは足のどの部分にも力が入らない。「ああ、やっぱ、ちゃんと走り込んでからだな。」と思いつつ、いよいよ計測。ゴールで娘にストップウォッチをセットしてもらう。目視でスタートをお願いして自分のタイミングでスタート。30m、50m、もう足が別人の足のようで、70mあたりでフワフワしてきてそのままゴール。タイムは17秒65でした。

 ある47歳の男性が市民総体の100mに出場された時の記事をインターネットで発見した。、その方は12秒89で決勝の5位だった。世の中にはすごい47歳がいるものです。その方曰く、「17秒は少し運動しろ、16秒は頑張れ、15秒は普通、14秒台なら早い方です。」とコメントされていた。何も、今から滋賀県の大会に出場するつもりはないが、17秒65は悔しい、悔しすぎる。

 また別のブログ記事で、40歳の身長170cm、体重72kgの人が100mをある大会で走られ、15秒台でしたというコメントを掲載されていた。私は51歳だが、身長は170cmで体重が62kgですから、なんとか!?目標タイム(その他いろいろな人のコメントとデータを総合して)として14秒台を設定しました。ヘルニアで通院したり、ぎっくり腰を何回も繰り返しているため、無茶な練習もできないが、せめて、あと3秒をなんとか縮めたい。これから秋になり走りやすい季節になるので、冬までになんとか14秒台を出したいと思っています。

 長距離、マラソンは性分に合わないし、長距離走はヘルニアの再発の可能性が高くなるのでできない。だから、51歳なりにトレーニングを工夫して100mで14秒台を今年中に出したいと思っています。

 数十年ぶりにスタートラインに両手を置いたが、とても心地の良い場所でした。

MARIA CODE#001

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 言葉(言語)が生まれる前にイメージ(画像)が在ったわけですから、言葉の中にすべての正解があるわけではりません。言葉が在るから正解もあるわけですから。イメージと組み合わせてこそ正解に近づくのだと思います。さりとて、その正解が人間にとって有益でないとしても。ダビンチが歴史にその名前を刻んだのはその類まれなる知能があったからではなく、自分が見たモノ(現実)を正確に記述(描写)するテクニックがあったからだという説があります。見えたモノを思考(言葉)と組み合わせて残そうとしたからこそ、偉業として私達が共有できるのです。人間のアウトプットは骨格と筋肉にほぼ依存しています。四肢や口頭や表情の制御でしか人間はアウトプットする術がありませんから、ツールを変化させて代用しているのです。先日、大阪に仕事で行った時、電車の中に18人の乗客がいました。2名は寝ていて、起きている16名の内12名がスマホを操作していました。思考よりも指で何かをアウトプットしている感覚が、よほど心地がいいのでしょう。

ハニピー

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 確かに、買い物につきあわず、お土産で何か買ってきてくれた時、文句ばっかり言っていた。

 確かに、ハニーピーナッツは美味しかったし、テンションは上がった。

 今日も朝から買い物に行ってきて、「はい、お土産」って、カミさんがこれを仕事場に持ってきた。

 これで5回連続、ハニピーである。美味しいからこのお土産に関して全く文句はありません。100点です。だからと言って、ちょっと買い物のテイでお土産と言えば「ハニピー」というのはいかなものか。確かに好き嫌いの趣向が私は偏っているので、ストライクゾーンが狭い。だから、「ハニピー」を買ってくれば、間違いないことは事実。しかし、ペットの猿の餌のように、「はい、ハニピーです。」とこの缶を目の前に置かれると妙な気持ちになります。例えば、オリの中で猿を飼っていて、外へ出かけて、「お留守番、ご苦労様、はい、ハニピー」という感じで餌の缶を見つめている猿の気持ちがちょっと分かったような気がする。確かに美味しいから仕事中にちょこちょこと開けて食べているわけだから、オリに入っていない猿みたいなもの。しかも、これが結果100点のお土産なんだから、自分の好みが結論としてハニピーをチョイスしたわけだから、この一連の流れに違和感は全くない。

 だが、いつものハニピーの缶を見ていると、今日は別の新しい違和感がありました。

 さぁ、食べよ。

変幻自在

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 ほんとに変幻自在なんですね。次の映画、「マイインターン」も期待したいです。

ラフの打ち方。

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 コースでボールがラフに入ると当然ボールは深い芝生の中にある。フェアウエイのようにライが良く、ボール全体が見ている状態ではスイングイメージを遮るモノがないのでショットのイメージが明確になるのですが、芝生にボールが隠れるとイメージを深い芝生が遮断する壁になるのです。バックスイングをちょっとアップにし鋭角に入れたり、ヘッドの抜けを良くするためにカット気味にヘッドを入れようなどと小手先のテクニックが発動する。普通のライよりも余計に力むことでスイングプレーンが乱れヘッドコントロールが乱れボールへのヒット率が下がるのです。結果、極端なトップやシャンクになり次のラフへという展開。しかし、丸山茂樹さんのテクニック本を読んだ時、ラフショットの対策についてこう書いてありました。「普段のスイングよりも大きくゆったり振ること」と。木の枝や大きな草の根がヘッドの入る位置を邪魔しているなら特殊な打ち方(いつもよりボールを右に起き、鋭角に入れる。)が必要ですが、ヘッドがラフに入った時グリップが緩まない程度の握力だけ注意すれば、あとはゆったりと大きくスイングするれば、ヘッドとボールの間に芝がかみ、スピンがなくなる分、ボールは飛ぶ。つまり、フライヤーを想定すればボールのキャリーはある程度、想定できるのです。

 まぁ、実際はこんな知識をいちいちその場で想い出して再確認するのではなく、普通にスタンスを決めてちょっと短めのクラブを選択して、インパクトでのグリップの緩みだけ注意してドカンと打つだけが正解なのです。千変万化なコースはゴルフの醍醐味です。

CHAPPIE

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 「期待通り」「期待以上」という言葉が随所にちりばめれた作品でした。青天井に「期待」していた映画だったにもかかわらず。ここで「これほど」と表現してもどれほどなのか曖昧になってしまいますが、人工頭脳を使ったSF映画への私の期待は、「この作品がはじまりでした」と限定できるほど安易ではない。いつしかどこかで心の中に入り込んだ種が複数の条件が微妙に重なり発芽した期待であり、デザインの仕事に長年携わってきたエネルギーや探究心と同じレベルの期待、つまり、発芽した後も丁寧に親愛を抱きながら育成してきた期待だからです。

 例えば、「ブレードランナー」という栄養素は大きな作用・影響・効用があり、どんな状況でもその物語の全容がフラッシュバックするほど強力な栄養素だったし、「2001年」などは思考の感覚がマヒするぐらい、痺れと震えの先にある感覚レベルのカンフル剤でした。これらの要素がベースにある期待だから、「期待以上」という評価は相当な秀逸レベルなのです。アシモフ・セーガンからクライトンまでサイエンスを巧みに操る美学に心を奪われてから、私の古典はSFになりました。最近、ダビンチが描いた解剖図の緻密さや、その頃、研究され仮説をたてていた科学・医学・解剖学の分野の自然に対する分析力・洞察力の痕跡の一部分を見つめながら、例えば、骨内部の繊維構造情報が現在の建築物の構造に活用・転用されていることを彼らの作品の中で知ると、科学以前(以外)の書物の創造性の比率がいかに高く言葉の先にあったことを曖昧にし、頭の中にあった思考から事を始めているかに気づく。歴史とは視覚情報の正確無比な複製から起こるべきだった流れを、複製技術が伴わなかった故に思考に依存した結果となり、当然、その史実は曖昧に同じ場所を繰り返し輪廻している捉え方になる。当然、同じテイストの思考が生まれ続けるわけですが、科学はその輪廻にメスをいれた。正確に刻印し私情を排除し残すこと、残ったことからイメージを膨らませ仮説を組み上げていったのです。その一部がSF作品なのです。「これほど」の期待に応えるに値する映画だったと私は捉えています。期待以上でした。

 ハリウッドでも超有名で一流な俳優さんが2名登場しますが、それぞれのイメージとは異なる、ヒールな存在がまた秀逸でした。詳しくは映画をご覧ください。

MAGIC-CAST OPEN EXTRA 2015

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 ただバスフィッシングをするだけではない、つまり、普通の釣りをするだけにとどまらないこと。ゲームフィッシングとは何かを探求するとき、バスフィッシングとは何か?という疑問にぶつかる。ただバス釣りをする、ただ大会に参加する立場から視点から、1~2歩踏み込んで4年が経とうとしているが、未だに正解が見えない。自分自身が楽しいと感じてるポイントを外へ出す難しさとでも言うのだろうか、頭の中のイメージや言葉を誰かに伝えるためにどのように変換すればいいのか、この部分を試行錯誤しています。自分が楽しいから相手も誰かも楽しいだろうというアプローチはかなり粗く細く弱いということを実感しています。どうしたら自分自身の楽しさをアウトプットできるのか?と。

 その試行錯誤の中でもっとも有力で有効なルートは少しタイプが違うけど、同じベクトルの方に協力をしていただくことだった(他に選択肢がなかったとも言える)。そこから共鳴が生まれ、別の細胞分裂が始まる。自分だけで考えていてはすぐ器があふれてしまう部分を協力者(理解者)は、ささっとと汲み取ってくれる。それをさらに化学変化させ想いを培養してくださる。私の中にあった種が別の亜種になり二足歩行から独自の闊歩を始める。その速度はもう私の制御域を超えて自由に歩き始める。この関係性に輪(和)が生まれたときのみ、モノゴトはそれらしい変化を繰り返す新しい仕組みになる。

 自然災害という人知の及ばない力で一旦食い止められたせき止められた水流がこの日、そっと流れ出した。私の器をあふれた水がダムに蓄積されタービンが回る時、当然、新しいエネルギーが生まれる。自然の仕組みと人間の狙いは同期するものです。

 私も含めこの日、大野ダムに16名のエクストラが集まった。当然、私の想いが16倍になった瞬間だと捉えています。同時に私も15名の想いを受け止めた瞬間でもあり、この輪が次のスパイラルを生み出すことを期待して止まない。

 皆様、本当にお疲れ様でした。 

勤続疲労。

 「勤続疲労」という言葉を、確か、テレビで知った。どういう状況だったのかは覚えていないが、何気にこの言葉が気になった。本来は「金属疲労」なのに、「金属」を「勤続」に置き換えるセンスに良い違和感を感じたのです。

 しかし、「勤続疲労」って痛々しい。長年、人生をかけて会社組織の中で会社を支えてきたが、その疲労が溜まっている感じ、まるでそのイメージがサビで劣化した金属のようで、ちょっと触れただけでボロボロと崩れてしまうような状態をイメージしてしまいました。「勤続」が必ずしも美学ではなくなった時代だけに、さらにその劣化加減が増すのでしょう。「勤続疲労」ならまだしも、その「勤続」さえ予期せぬ想定外の要因で失った場合、疲労・劣化・萎縮のレベルではない。先見の明があるなしに関係なく、企業・自立・自営のルートを歩んだ人の方が結果、疲労度が軽かった。いや、疲労の解釈や順応性が備わっていたと解釈できるのかもしれません。

 私自身、29歳から、雇われてる立場ではなくなったので、「勤続」という意識が薄く、23歳で雇っていただけたデザイン会社でも、どうも「勤めている」という意識が欠落していました。大変生意気な生き方ですが、「常に独立する。いつか起業する。」という意識が強かったからかもしれません。だから、何事にも貪欲になれたのでしょうし、勤続意識が皆無だったのだろうと自己分析しています。

 「勤続疲労」という言葉、世の中的には流行っていませんが、私の中では2015年流行語大賞候補第1位です。

秋晴れの琵琶湖。

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 本日の琵琶湖です。水も澄み空も青く対岸がよく見えました。この景色、私は富士山の次に日本の絶景だとひとり勝手にランキングしています。波もなく穏やかな表情です。ずっと見ていたい風景です。

あきない商い。

 何をどう理屈で考え理論で解釈しても人って飽きる時は飽きます。例えそれが信頼できる師匠からの助言だとしても、無二の親友からのオススメだとしても。一時期のマイブームのように盛り上がることでさえ、時間の経過と共に気持ちがのらず、テンションが下降しブームが去っていく感覚。

 学生時代、アルバイト先を選択する時も最初はちょっとぐらいタフな仕事内容でも給料が良ければそちらを選択しているが、結果、いろいろなアルバイトを重ねていくと自分自身の本質との相性が見えてくる。すると、その相性基準でアルバイトを決めるようになり、給料待遇よりも自分の相性が優先される。結果、本質的な好みや解釈の基準がアルバイト先を決める結果となり、そこからやりがいや達成感や充実感が生まれる。しかし、それも原因不明の「飽き」がどこからともなくやってきて、「あれれ?これが自分の本道だと思っていたが、ちょっと飽きてきた。」のように変化する。気まぐれで気分次第のこの「自分」が今、何を求めているのか何をフェイバリットと捉えているのかを都度整理しておかないと、次から次へと飽きてきて、最後は結局どこへもたどり着けなくなる。結果、アルバイト代は稼げないという事態になる。このベクトル、下降している時と上昇している時があり、「飽きる」ことひとつにしても、メリットとデメリットがある。「飽き性」と捉えるか「貪欲さ」「探究心旺盛」と捉えるかも自分次第なのである。

 さて、自分の仕事はどうか?結果、続けるためには自分が「あきない商い」になるようです。私の場合。

IMPROVISATION(インプロビゼージョン)

 インプロビゼーションとは即興である。本来は音楽や演劇の分野で使われている用語です。型にとらわれず自由に思うままに作り上げる、作り上げていく動きや演奏、またその手法のことを指しています。アドリブともいいます。

 形式による制約よりも、演奏時・演舞時の知覚を優先とすることで、音楽・ダンスなどにおける創造の源流でもあり、作品制作時のインスピレーションとも深く関係しています。

 さて、「即興」という言葉の語感にはちょっと「軽快=軽率」「直感=安易」などのニュアンスが含まれているような気が私はしています。形式や理論を重んじる、方程式や法則から生まれるものこそが真価であり、軽快さや直感で生まれるモノは品質的に低いと。どこか「その場しのぎ」「小手先の」というニュアンスが通念にはあります。しかし、デザインの仕事やアートの制作現場では、即興から生まれる優れた成果が多い。むしろ、即興で生まれたモノは鮮度が高く表現的に研ぎ澄まされているケースが非常に多いと捉えています。何故か?それは、つくり手として理論や理屈でつくることが成果に足してあまり効果的に作用していないことが多いと考えているからです。

 若い頃、デザインの仕事現場で知識もテクニックも足りない状況では、自分の中に蓄積し予習した知識だけが唯一の頼りでした。当然、経験がないということは失敗も壁にもぶつかっていないピュアな状態です。テクニックも知識として頭の中にはありますが、実戦経験とはシンクロしていませんから、言葉にリアリティーがありません。知識だけ理論だけでどれだけ言葉を巧みに操っても人の心は動かないことを知らなかったのです。そんな実戦経験から学んだことが、「即興」の重要性でした。仕事には必ず、相手(クライアントさん)が存在します。ただ相手の意向に合わせるという安易な対応ではなく、相手がいい仕事をしてもらうために放った言葉やイメージをどこまで受け取れるかがまず仕事のスタートラインです。どれだけ経験がありテクニックがあり知識が豊富だとしても、まず、相手の考えを受け取る力がなければ、仕事は成立しません。受け取る情報も明確な言葉が理路整然と整っているとは限りません。むしろ、そうでないケースの方が圧倒的の多いのです。まして、クライアントさんはつくるプロではありません。意図や狙いはあっても伝えることが得手なわけではありません。伝える表現力が高ければ、つくり手としても能力がることになりますから、私は必要ありません。そのような場面では、「聞くテクニック」や「感じるテクニック」が必要なのです。

 そして、「即興テクニック」が有効です。仕事の実戦現場でのヒアリングとはレコーダーで録音するのような無味乾燥な捉え方では何も引き出せません。そんな聞き方なら簡潔にまとめた企画書を預かってくるだけ事は済みます。つくり手として仕事の主旨を聞くということは、「引き出す」ということなのです。自分の理論や理屈をただ当てはめて正解と不正解で判別するのなら、小学生でもクリエイターになれます。言わば、小学生レベル、もしくは、それ以下のヒアリングテクニックでは実戦現場では通用しないということ。「雑談テクニック」「即興テクニック」はとても重要なコミュニケーション能力なのです。当然、リズム・テンポ・ユーモアなどのアドリブも効果的です。

ルール。

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 グーグルのルールか。凄まじいのだろうか?どこまでも普遍なのだろうか?歴史的にも鉄板中の鉄板なのだろうか?本丸があるだろうが、そこにはどんな殿様が鎮座しているのだろう?楽しみな一冊です。

 最近、映画「インターステラー(DVD)」を観て欲しくなったサウンドトラック。もう、この映画、何回観たのか覚えていないが、音楽だけ切り取ったらどんな気持ちになるのだろう?どんなイメージが心に浮かぶのだろう?それが楽しみです。

グラフィックデザイン。

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 どうも本文をおざなりにし、煌びやかな世界に気持ちを奪われる傾向があります。イラストレーター・グラフィックデザインから自身のデザインの仕事はスタートしたのだから、今更、煌びやかで流行を追いかけても仕方ない。触手を伸ばすタイミングはこれからもあるだろうし、やはり、基本的に私自身はグラフィックデザイナーなのだから、DTPや2次元のデザイン制作についてしっかり向き合わなければならないと、最近、感じています。言葉やイメージからグラフィックデザインを生み出すテクニックって、普段から普通にオートマチックにやっていますが、改めて俯瞰で捉えると、緻密な感覚と思考術も含めた理屈・理論で取り組んでいるようです。打ち合わせの際、「この作業をこの短時間でやっちゃうんですか!」「そこまでロゴマークひとつで深く思考して着想しているんですか!」などと、ヨイショさると、そりゃ51歳だって木に登ります。

勝負。

 比較的、ビジネス書や思考術の書籍をよく読む。そのテーマといえば国内・海外それぞれ多種多様だが、結局、人間と機械の勝負予測が多いように感じる。それは自分自身がそういう捉え方をしてしまっている、そういう視点・立ち位置にいることが大きく作用しているからなのだが、そういう捉え方で書籍を読むと、いかに優れた機械を組み立てたほうが有利かに終始し、本来、人間の良さについては触れず、人間の愚かさや醜態ばかりにクローズアップしているように思える。特にメディアやインターネットの中では、普通のことが黙認され、愚かさや醜態ばかりにスポットライトをあて、いかに下劣で醜いかについての言葉言葉言葉の百花繚乱である。結果、そこをボトム(基軸)に人間の素晴らしさを際立たせることも怠ってはいないものの、である。
 そもそも、人間に機械はつくれるが、機械に人はつくれない。SFの世界の仮説では可能かもしれないが、機械ができることはつくることではなく組み立てることだけだからだ。そんな人間と機械を強引に同じ土俵にのせ、ただ、競わせているだけの時間つぶしのような気がします。人は人が生み出したことばかりを話題にするのではなく、もっと、「人そのもの」を話題にするべきではないかと。ふるまいや気質や本質について、ただ、いい悪いや有益無益のモノサシではなく、ただ、しっかり捉えることで、どうあるべきかやお互いの適正な関係性が分かる、見えてくるような気がします。

快速チェックメイト。

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 ひさびさの快速チェックメイト。こういう展開もあるからチェスは楽しい。

気楽な飲み会。

 よくあるSNSからのメール。クリエイターのコミュニティーに登録しているだけで、「クリエイター同志の楽しい飲み会開催します!」という言葉が届く。私は楽しいだけの飲み会が嫌いなので、クリエイターがお酒軸の飲み会を開催してもあまり得ることがないと捉えている。人と人の出会いの場、コミュニケーションの場を否定的に捉えているのではなく、「お酒きっかけで飲み合う場」というのが好きではない。お酒が嫌いなのでも、飲み会が嫌いなのでもなく、「クリエイター前提」でクリエイターらしくないと自身が捉えてる行動が嫌いなのです。その大前提には自分のクリエイターとはどうあるべきだという気持ちがいくつかあるからこう捉えてしまうのですが、まして、SNSのお気楽なコミュニティーで集まった、楽しいお酒が飲めた程度ならば、ひとりで何かをつくっている時間を優先する。結果、365日仕事人間が完成していまうわけですが、それはそれでいいじゃん。立派な個性だと捉えている。

 貴重で有益な情報は、毎日顔を合わせたり情報交換している人よりも、1年に1回程度会う人から受け取ることが多いというリデータをアメリカの投資家の書籍で読んで知ったが、習慣の中では新しい習慣は生まれないということだろう。まして、お互いの属性について極表面的なつながりしかないSNSから何が生まれよう。何事も出会い・機会がなければ新しい行動は生まれないとしても、お互い素性も属性も人間のひととなりも知らない、文字・画像レベルの繋がりから何か新しいことが生まれたら、人間は素晴らし過ぎる。建設的なことが生まれないからこそSNSが成立しているのだから、仕組みと論理は間違っていないが。

 「同じ釜の飯を食う仲間」という表現があるが、五感でつながってでさえ、すれ違うのが人間。機会の確率を上げることよりも、私は確率が低くとも質をあげる工夫に時間を活用したい。

養老孟司さんの著書「形を読む」。

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 養老孟司さん25歳の時の著書である。養老さんの書籍はいろいろ読んだが、このような著書があることを最近知りアマゾンで中古を購入した。若々しい文章と養老さんらしい言い回し。論理の組み立てからその豊富な知識の散りばめ方。最近、本の読み方が少し変わった。具体的には多重になった。ような気がしています。何故だろうと考えてみると、じっくり読みたくなったことと、今、読んでいる文字(文章)の裏にある著者の真意を想像する観点がより多様になったのだろうと思っています。最近の著書も必ず読んでいるため、77歳の養老さんと25歳の養老さんのお話を交互に聞くような感覚です。さて、「形を読む」というタイトル。らしく潔く難解で洗練されたタイトルです。私の人生で大切な書籍が一冊増えた瞬間です。

2015.09.06 MAGIC-CAST OPEN EX in 大野ダム

明日は2年越しのトーナメントを大野ダムさんで開催します。思えば2年前の台風の豪雨で大会が流されて、大野ダムさんは不運続きでした。甚大なる被害もあり、昨年もその痛手から完全復活できなかった。ようやく今シーズンは体制を整えて営業を円滑に展開しておられます。ボート数は若干減りましたが大野ダムは完全に復活しました。

この夏にも3年ぶりに大野ダムさん主催の大会を開催されて、多くのバスアングラー達で会場は賑わいました。自然の魅力はその驚異と常に背中合わせです。人工的なモノにはない破格の魅力があるだけに、その脅威が一旦牙を向くと人間に術はありません。当然、アングラーも同じで私達はずっとずっと復活の狼煙を上げるのを待機していたのです。

それを明日、同会場で上げます。大会とは言え、ボート数も制限がありますし、大野ダムさんの会場にも一般のアングラー・観光客さん達が集うので、大人数で開催すること、つまりOPEN大会で開催することを保留にしました。その背景がEX(イグジビジョン:展覧会・展示会)に企画主旨を補正しました。何を展示するのか?については、当然ブラックバスなのですが、MAGIC-CASTメンバーとして声をかけさせていただいたプロからエキスパートの皆様のテクとその本気を経てのブラックバスだと捉えています。よって、当然、集まった15名の精鋭の皆様は多かれ少なかれ魂の中に大きなトロフィーを持っておられる皆様です。プロはプロの経歴と威信をかけ、エキスパートさんはそれぞれの本気と過去に獲得されたチャンプの威信をかけたバトルなのです。

油がのったとはベタな表現ですが、ここまでの精鋭が集まってくださるとは至極の喜びであり2年前の悲劇を完全払拭し、MAGIC-CASTがひとつステップアップするための必然が明日の大会なのです。

この結果は当サイトでもMAGC-CASTのテクニカルアドバイザーでもある両プレイヤー(KUNIKATSUYA)のブログでも紹介・報告しますが、私が昨年の9月から2プレイヤーと共に執筆している、中国の「ルアービジョン」に特集として次号(10月号)に紹介する予定です。1,000万人の中国アングラー協会の会員へ、30,000人のパワーユーザー(定期購読会員)へ、明日の結果を紙面で報告する予定です。

今後の狙いはMAGIC-CAST OPNEで集まってくれたメンバーを中心に、中国本土、もしくは、FLWの本拠地アメリカでの3国友好トーナメントバトルの開催などをルアービジョン発行の出版社(上海)の連中と企画連携してMAGIC-CASTメンバーを中心に中国のアメリカのバス太公望達と快活な友好を結びたいと虎視眈々、狙いをフォーカスしています。

なんでもかんでもビジネスに繋げたらいいと考える勤勉な日本人と国家経済を浮沈の中、逞しい成長を遂げた中国人。双方に大きな歴史的遺恨はありますが、それは過去のお話。今、目の前にある水の中にいるブラックバスを共に狙い、同じ水の上でバス釣りを競う。それが最高に美しく、最高に魅力的なカタチ・スタイル・スピリッツだと私は考えています。

いろいろな想いが交錯し、明日の私の釣果は悲惨な結果なるでしょうが、私のビックバスはすでにライブウエルの中にいます。とにかく、明日集まってくださる15名の精鋭の皆様が大会実行委員長のスタートの合図で一斉に上流を目指す風景を見れたら、ただ、私は本望です。ゆったりボートの上でタバコをすいながら映像に収めたいと思っています。

楽しみです。

と、私の文面はその気性からとてもヘビーになりがちです。しかし、私の明日のタックルはライトの中のライト。一方、他のメンバーさんはエレキフル装備の、今からライオンを狩ろうかというヘビー・ハイテンションです。さて、どんなビックサイズを15名の皆様が持ち込むことか、とても楽しみです。すでに、プラクティスで今も大野ダムに浮いている人がいます。その中から優勝者・入賞者は出るのか?それとも伏兵が2年越しの想いが蓄積した入賞の盾を持って帰るのか。天気予報は曇りのち雨ですから、ほぼ99%開催可能。ので、私としては「勝ち」かなと思っています。

KHUZ

ボーン・プリズナー

 ええ、「auCM雪女予測」に引き続き第2弾の「なんでも勝手に予測」シリーズです。

 昨日、映画ボーンシリーズの第5弾のクランクインが開始されたという記事を知り、ブログ記事に書いたのですが、まだクランクインだというのにひとりで期待値が高まり、タイトルを予測してみました。「アイディンティティ」「スプレマシー」「アルティメイタム」「レガシー」ときて第5弾ですから、シリーズの流れを継承しながら、新しい展開・設定・物語を展開してくれるでしょう。シナリオ・脚本も世界の一流が最高の手腕で仕上げているのでしょう。

 そんな第5弾のボーンシリーズですが、素人映画ファンなりに精一杯イマジネーションを起動・発動してタイトルと物語設定について推測してみました。これも素人ファンならではのレアな楽しみ方として稚拙な推察をお許しください。

 タイトル予測は「ボーン・プリズナー」。プリズナーは囚人の意味ですが、ちょっと第4弾の「レガシー」に引っ張られていますが、あえてその流れで法的な部分を掘り下げる物語ではないかと推測します。そもそも主人公のボーン自身の設定が特殊部隊なので、法律の外の設定です。しかし、暗い過去は一旦、アルティメイタムで終焉を向かえ、レガシーではちょっと消化不良な中途半端なノリになった。それをこの第5弾でギュっと絞めて絞り込む必要があると思います。まるで、アルティメイタムのトイレシーンのタオルのように。

 そこで、設定としてボーンは闇に消えたつもりが過去の後悔に日々苦しんで、計算の上で、他人の設定で軽犯罪を起こし刑務所に入ります。履歴も経歴もない状態で軽犯罪の初犯として服役しています。そこへ、以前、ボーンに攻撃を受けた、ドバイあたりの富豪がボーンに恨みを抱いていて、ふとした些細なきっかけからボーンがある刑務所で服役していることを知り、そこへ暗殺者を進入させます。出所まじかのタイミングでボーンは暗殺者を返り討ちにする。しかし、それが富豪からの刺客だと知らない刑務所の所長はただの囚人のいざこざと処理し、ボーンの出所を取りやめる。その事件をきっかけにボーンの存在が上層部にばれて刑務所の中でのディープな戦いが始まる。そこから逃れるために過去の相棒に連絡を取り、新しい組織との戦いが激化する。つまり、ボーンは刑務所の囚人であり、アメリカの国という大きな刑務所の囚人であったという物語で展開していくのかなという意味のタイトル背景です。

 いやいや、コウトムケイな予測・推測でした。

 恐らく、タイトルは今年の年末頃に公開されるでしょうね。楽しみです。

虫の虫か。

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 虫の嫌いな人が私のまわりには多い。

 野菜が嫌いな子どものように生命を脅かす植物の毒素に対する警戒の本能だという説があるが、虫も同位である。圧倒的な驚異よりも身近で日常的な驚異・恐怖を受け入れられないのだろう。これを養老さんは人間の「都市化」と過去に読んだ著書で表現しておられた。「自然」の対義である「都市」。頭の中で思考していることがすべてで仮想空間も含めて、イマジネーションの世界が本人を支配している状態を指している。これが情報化社会の本質構造である。特に言語による論理化についても、同様に言葉や言動に操られやすい思考派・理論派の人間は、本当の虫や植物の驚異も自然の驚異も思考で恐怖ゾーンに安易に追いやり、封じ込め、代償としての安心・安泰を手に入れている。トゲのある言葉、痺れを誘発する論理、毒を込めたひと噛み、いずれも苦手ゾーンに追いやり、安全な空想・夢想、つまり、御伽噺の世界だけの喜怒哀楽に余念がないタイプ。一方、自然、アウトドア、アウトサイドには何がある?そこには驚異と恐怖しかありませんから、思考から行動へ、そして、思考への循環を常に繰り返している人は驚異の実態を実感できている人だから、それを間際で食い止められるテクニックと知恵がある。しかし、虫が怖い、野菜が嫌い、正解がない、絆大好き、などと都市化されたシステムに酩酊している人は、寸止めテクニックがないために、いいも悪いもなく突き抜けてしまうのです。ここから先は危険だからという境界線の実態を知らないで、ギリギリまで、つまり、自分の限界点を目指すことはできません。

 「虫の虫」か、なんとも清々しく心地よいタイトルだろう。

二枚の葉に。

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 一本の葉を指したのが7月頃だった。2ヶ月もすると葉が二枚になる。毎日、水をあげているだけなのに。自然の変化の速度はなんとも心地いい。

ジェイソン・ボーン第5弾。

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 そうですかそうですか、第5弾がクランクインですか、楽しみです。

 シリーズモノといえば、ミレニアムの第2弾と第3弾はどうなっているのでしょう?すでに、2本ともクランクインしていて、第2弾を公開して間髪入れず第3弾みたいなことだったりすると嬉しい、嬉し過ぎなのですが、そんな情報はまだどこにもなさそうです。

 そりゃ、S.W.もJ.P.も、かのM.M.もシリーズ展開しているのだから、ミレニアムをつくらないはずがないと、などと、思っています。

脳。

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 26歳の時、東京でこの書籍に出会った。出会っていなければというイメージがまったく浮かばないほど、必然だったと思いたい一冊である。慣習やシステム、セオリーや定石、規範やルール、情報化社会の人工的な箍に囚われず、自分自身の都市化を抑制できたのもこの一冊のお陰。代価として素直さや真面目さを低下させてしまったし、組織や団体に属することに違和感を感じる気質になってしまい、さらに「ずるさ」も増幅した。が、それも本質であり必然だと確信できる一冊である。人間、確信しているほどタチの悪い状態はないので、いかに書籍が文章が言葉が人間そのものを変えるチカラが大きか、固める力が強いかを実感しています。言い換えれば、人間は変化し続けていることが自然なのだから、箍から開放してくれる作用が言葉や文字にはあるということだろう。聴覚言語か・・・、視覚言語か・・・、そして、触覚言語か。

 脳は偉大であると同時に、面白い(と、脳が言っている)。

ライバル。

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 親友とはライバルである。

 フェイスブックから「友達がいっぱいあなたを待っています。」というメッセージが届くが、日本語もドライになったものです。ちょっとひねって「ライバルがいっぱいあなたを待っています。」とか、「恩師や弟子がいっぱいあなたを待っています。」とかに変更したら、ユーザー数は増えるのだろうか減るのだろうか?

 とにかく、どこかにライバルがいる以上、私も自身の存在を意識・実感できるのです。

北。

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 オイルコンパス。何がどうであれ地球の上で生きている以上「北」はこっち。

機会と習慣と備忘録。

何億光年、輝く星にも寿命があると教えてくれたのはあなたでした。

季節ごとに咲く一輪の花に無限の命知らせてくれたのもあなたでした。

有名な阿木さんの作品である。

人が何かを想うとき、行動するとき、常に「あなた」という存在がある。

養老さんが書籍の中で「現実」とはあなたの習慣に影響を及ぼすことに限られると言っておられる。

どれほどの才能があり類まれなる努力・鍛錬を重ねようとも機会がなければ成果は生まれない。
当然、評価も生まれないので、実感にはならない。

人間は1日に約6万項目の思い巡らせ、その中で平均3,000項目が新しいことらしい。たった5%のことなのだから、いかに人間は習慣の中で生きているかという目安になるデータである。

機会と習慣が思考の中に循環を生み、そのパターンの中で比較的頻度の高いものから実感が生まれ、その実感が生きるためのテクニックになる。機会もなく、習慣もなければ、それは有益な情報だとしても、現実ではないので身体は反応できずテクニックにならない。

このブログは自分にとって言わば備忘録のような存在で、忘れる前に備えようと書き出した。とはいえブログだから公開されて第三者の目に触れている。自身の備忘録がわりに書き出して蓄積した記事がこの記事で4,000本目。正直、ここまで続けるつもりはなかったが、私は、よほど、思いついたことを忘れるのが嫌な気質なのだろう。

これも機会であり習慣である。つまり、「あなた」に対して思考している証がこの4,000本の記事なのです。

よく、書籍で冒頭に「~に捧ぐ」という一文を見る。S.キングなどはよく「レイチェルに捧ぐ」などと書いている。そこを掘ったことがないので、キングにとってレイチェルがどのような存在なのかは未だに知らないが、小説の冒頭に指名するぐらいだから、レイチェルはよほどの存在なのだろう。

私自身も少なからず闇雲に暗中模索で書いているわけではなく、思考する行動する以上、必ずその対象となる「あなた」の存在がいます。ここでそれを特定するとこれ以上ブログを続けられない事態になってしまうかもしれないので、特定はしないが、それは絶対に自分の中にいる「あなた」に対して思考しブログを書いています。

FACEBOOKだって、「あなた」が存在しなければ覚醒する機会さえなかっただろうし、かのキリストだって、釈迦だって、かならず「あなた」がいたはず。だから、機会と習慣を経て歴史に刻まれたのだと思います。たかがブログでキリストさんまで登場させるまでもないが、まぁ、4,000本目記念ということで、はじめて引用しました。

AIが世界を網羅し、人間の知能を超えるだろう2050年、私は生きていないだろうからいいが、若い人たちはあと35年後の世界をたくましく生きていられるのだろうか?ムーアの法則にもカオスが宿りフラクタルな機会と習慣が生まれていることを期待したい。

最後にでもないが(まだブログは書き続ける所存)、「スギノさん、やっぱりこれからの時代はブログぐらいは書いておかないと、完全に取り残されますよ!」と言ってくださった沖縄の「あなた」に感謝して4,000本目のブログ記事を終わりたいと思います。

いやいや、便秘状態は辛かった。出た出た。