CHAPPIE

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 「期待通り」「期待以上」という言葉が随所にちりばめれた作品でした。青天井に「期待」していた映画だったにもかかわらず。ここで「これほど」と表現してもどれほどなのか曖昧になってしまいますが、人工頭脳を使ったSF映画への私の期待は、「この作品がはじまりでした」と限定できるほど安易ではない。いつしかどこかで心の中に入り込んだ種が複数の条件が微妙に重なり発芽した期待であり、デザインの仕事に長年携わってきたエネルギーや探究心と同じレベルの期待、つまり、発芽した後も丁寧に親愛を抱きながら育成してきた期待だからです。

 例えば、「ブレードランナー」という栄養素は大きな作用・影響・効用があり、どんな状況でもその物語の全容がフラッシュバックするほど強力な栄養素だったし、「2001年」などは思考の感覚がマヒするぐらい、痺れと震えの先にある感覚レベルのカンフル剤でした。これらの要素がベースにある期待だから、「期待以上」という評価は相当な秀逸レベルなのです。アシモフ・セーガンからクライトンまでサイエンスを巧みに操る美学に心を奪われてから、私の古典はSFになりました。最近、ダビンチが描いた解剖図の緻密さや、その頃、研究され仮説をたてていた科学・医学・解剖学の分野の自然に対する分析力・洞察力の痕跡の一部分を見つめながら、例えば、骨内部の繊維構造情報が現在の建築物の構造に活用・転用されていることを彼らの作品の中で知ると、科学以前(以外)の書物の創造性の比率がいかに高く言葉の先にあったことを曖昧にし、頭の中にあった思考から事を始めているかに気づく。歴史とは視覚情報の正確無比な複製から起こるべきだった流れを、複製技術が伴わなかった故に思考に依存した結果となり、当然、その史実は曖昧に同じ場所を繰り返し輪廻している捉え方になる。当然、同じテイストの思考が生まれ続けるわけですが、科学はその輪廻にメスをいれた。正確に刻印し私情を排除し残すこと、残ったことからイメージを膨らませ仮説を組み上げていったのです。その一部がSF作品なのです。「これほど」の期待に応えるに値する映画だったと私は捉えています。期待以上でした。

 ハリウッドでも超有名で一流な俳優さんが2名登場しますが、それぞれのイメージとは異なる、ヒールな存在がまた秀逸でした。詳しくは映画をご覧ください。