2015年10月 アーカイブ

うそ。

 うそは悪いのか良いのか?

 冴えないデトロイトの主人公がある娼婦に恋をした。男としてのけじめをつけるため、恋した女性のため、男は女性を開放するべく元締めに交渉に行く。相手は折り紙つきの暴挙。しかも、その暴挙には巨大なギャングファミリーがバックに付いている、という設定。結果、ファミリーの重要な商品を間違って持ち帰ってしまい、ハリウッドの親友をたずねるべく旅立つことになる。同じくデトロイトで警官を退職し駐車場の管理をしている父親を訪ね、自分が起こした事件の状況を確認するが、父親は破天荒な息子に手を差し伸べることができないまま、息子が恋した女性と共にハリウッドに旅立つ姿を見送る。

 その後、ファミリーの幹部、名うての乱暴者が父親が暮らすトレーラーハウスに現れる。

 当然、父親は息子の安全を思い、二人が訪ねてきたこと、ハリウッドに向かったことを隠す。しかし、その表情を洞察した幹部は拳銃をちらつかせ、「お前は今、うそをついた。俺は男がうそをつく時のパフォーマンスに熟知している。」と脅す。しかし、意を決して父親はその幹部にある物語を話し始める。ファミリーがシシリアの出身であることを知っている父親は、「シシリアンは黒人とのハーフだ」と言い切る。その侮辱を受けて幹部は怒りを超え、しばらくその父親の話しに耳を傾ける。父親はさらに語り始める。その昔、シシリア島にやってきた黒人が島の女性をレイプしその結果、生まれたのがお前達の子孫だという理論である。つまり、お前らのルーツはボケナスどもであり、お前らには黒人の血が流れているという論理だ。そして、父親は改めて幹部を問い詰める。部下達が狭いトレーラーハウスの中、拳銃を構えている状況でこう言う。「さぁ、俺は今、うそをついたか?見抜いてみろ?このボケナス」と。

 このシーンは「うそ」とは何か?何故?人はうそをつくのか?について真理を語っている。

 当然、幹部は父親に数発の弾丸を撃ち込みその場をあとにするが、父親はうそをつき、息子と恋した女性の安全を自分の命とひきかえに守ったのである。

 さて、うそは悪いのか?良いのか?何が真実で何が虚実なのか?常に正直者でありたいと願うが、状況次第で方便の利も有効だと捉えておくことは、必要なことだと思います。

熱血とポンコツ。

 世の中には熱血タイプとポンコツタイプがいて、私など常にこの間で右往左往しているのですが、自分のことはさて置き、他人の「熱血さ」加減と「ポンコツさ」加減から何かを学ぼうと考えています。自身の熱血さにもポンコツさにもいろいろなタイプがあり、いつもその中間地点で安定してくれればいいのですが、青天井と泥沼に翻弄され、つい、「うかつ」に思考と行動の歯車がずれる。昨日、接点のあった「熱血タイプ」と「ポンコツタイプ」からも学ぶべきことは多く、できれば、その中間ゾーンあたりを自身の糧としたい。

 まず、そのポンコツタイプは、明らかに風体・風貌・ふるまいがポンコツで、当然、取り組んでいるビジネスモデルもポンコツだった。そもそもビジネスで取り組んでいる以上、関係者各位とビジネス上のつながりがある。お世話になっている方がいてビジネスは成立しているのだから、どんな案件であれ、受注させていただいている以上、自身のビジネスの外観を整えるべきだ。よれよれの風体で、言葉のキレも悪いし、当然、表情は濁り、口から出る言葉に精力がなく論理が崩れている。ボキャブラリーなど当然のように支離滅裂。この思考と行動でよくビジネスが成立しているものだと終始呆れる初見となる。短時間でこれだけの見切りをしてしまうタイプとの出会いは、最近、非常に稀だったので、呆れる以上に、何故?どこが?このタイプはポンコツなのかと、ひとつひとつその要因をカウントしいていた。実に21個が、私のポンコツゾーンに適用された。まぁ、何がどうあれ、人との出会いは大切ですから、今後、お客様になる可能性も0%ではないので、礼儀と節度をキープしながら対応し、打ち合わせの場を失礼したが、21個は新記録だった。真理から言えば、ビジネスとは人である。人との関係性よりもコストや手前の都合を優先した段階ですべての歯車が狂う。このことを特にポンコツタイプは理解していない。

 一方、熱血タイプの方は、言葉の丁寧さや論理の脈が一本通っていて、その対応速度も速い。レスポンスが速いだけで質量が伴わない人は、レスポンス自体を勘違いしていることが多く、それらのタイプと比較するとこの熱血タイプは、非常にクレバーさが際立つ。クライアントとの連携について、自分のポジション・スタンスをしっかりわきまえていて、円滑に仕事が進むことや、重要度の高い、優先すべき順列が適正なのである。優先順位について、理論的なタイプは、自分の理論を組み替えることをあまりしない。固執しているとまではいかないものの、自分の理論が常に起こる自体よりも優先されて、ジグソーパズルのように、どこかに必ず大きな絵を完成するためのピースがあると信じている。このタイプは、たったひとつのピースがなくなっただけ不安になり、絵を完成させることを諦める。当然、ビジネスも経済状況もたったひとつのピースの都合で放棄し、致命的な状況を招く。しかし、それでも自分の理論を崩さないという破滅的で悲観的なタイプです。一方、この熱血タイプはそのプライオリティーを健全に適正に組み替えるセンスがある。ビジネスの展開上、ピースが紛失することなど日常茶飯事だからだ。欠けたピースなど自分で作ればいいのです。そのテクニックがないから、自分のピース群に固執してしまい依存する結果になるのです。緊急事態にも関わらず、適正な判断と円滑な業務を再構築させようとする熱意には感銘を覚える。このように自分自身がその熱血タイプに感銘を覚えている以上、私は全力でその方を応援しようとする。これは当然のパワー配分である。現代は人間関係に苦労する人が多いストレス社会だという価値観が蔓延しているが、裏を返せばそこに勝機があるということになるだろう。生きていることはストレスの中で変化し続けること。ストレスは酸素のようなモノだから、変化するためのエネルギー源のひとつなのです。

 自己分析では、私の中の熱血タイプとポンコツタイプはこの両名をこのように分析・洞察した。反面教師ではないが、今日からの仕事の糧にしたいと思う。

 おまけネタとして「反面教師」という言葉、なかなかのツボであり、評価点が高い。この言葉が「反面医師」や「反面漁師」や「反面調理人」ではなく、「教師」だった根拠がツボなのである。学校の先生とは、いわばその矢面に立っているわけだから、特殊な仕事だと思います。最近は「反面」でさえもなく、「鏡面」だったりするから、教育者というポジション、なかなか混迷である。熱血なら救いがあるが、ポンコツだった日には、生徒達の自立精神が自立能力がその反作用としてより高まることだろうと期待できる、という利点もあるだろう。

クマノミ!

 クイズ番組が好きでよく観ます。

 芸能人のゴシップネタやグルメネタには飽きてしまい、特にグルメ番組などは、どれだけ巧みな芸能人のグルメトークを聞いて、銀座や渋谷のレストランを紹介されてもそんなところへ食べに行く機会などないからである。だから、テレビの情報を観て「美味しそうだな」などと感じることにさえ飽きてしまった。映像時代、仰天映像やペットの可愛い映像などもMCが巧みに番組として仕上げてはいるが、それにしてもどこかで見たような映像ばかり。ユーチューブの方が勝ち。テレビで配信する以上、ネット以上に制約が多いのだろうし、コメントをしている方の知識やキャラが映像とマッチしていなければ、結果、自分はテレビで何を見せられているのだろう?という疑問が先に立ち、チャンネルを変えることが多い。

 ドラマにしても半期で極端な山と谷がある(予算の関係?)ので、谷の時はほんとに冷え切っている。だから、気合の入っているテレビドラマが際立つという効果につながるのでしょうが、冷え切ったドラマはいつも主演を確認して秒殺となる。この半期クールでは「無痛」と「下町ロケット」は最後まで見ようと思っていますが、「シティーハンター」についてはどん底である。北条さんの作品は集英社で漫画の原版を見せてもらったあたり(大学生の頃)から、自身の中で別格の存在なので、テレビ番組にすることはテレビ局のいろいろな狙いもあってのことだから仕方なしとしても、ああなると辛い。

 さて、そんな一連のテレビ番組についての評価ですが、だから、どうしてもクイズ番組に落ち着く傾向にあります。東大・京大卒業、有名私大卒業の知的芸能人が登場してその知能を披露するクイズ番組も好きですし、東大生・有名私大の現役が登場して、とてつもない問題を秒殺で解答する様はリアルで圧倒されます。テレビ局側の問題を制作する方も1問あたり1万円ぐらいのコストをかけて問題を制作しているらしく、そんな問題をよく着想するなレベルの強烈な問題をひねり出さている。その解答者と製作者のせめぎ合いというか、バトル感がクイズ番組のリアリティーを高くキープしているように感じる。

 家族と一緒にテレビを見ていて、芸能人といっしょに考えるのは楽しいし、極端なバカが登場して、猿のような解答をするのも楽しい。東大・京大バトル的なノリのクイズ番組を見ていて、最終2名に絞り込まれた場面、こんな問題が出た。「火星で一番が高い山の名称は?」って!その知識はどこで何のために得たのか?というレベルの問題だが、決勝の二人は普通に正解していた。お前はグーグルか!また、その流れで、「富士山がすべて純金だったらその価格は?」という問題が出て仮説ではあるが、計算式は浮かんだが、底辺の数値が分からないし、形状も円すいではないからどうして体積を出すのだろうと考えていると、その二人はしっかり富士山の形状と底辺の数値を出して解答を導いていた。頭がいいというよりも、その知識・情報に対する貪欲さは素晴らしいと舌を巻く、という楽しさがクイズ番組にはある。

 先日も知的芸能人、宇治原さんや宮崎美子さんや石原良純さん、作家タレントなどが登場しているクイズ番組で、東大卒業の女子アナなどが排除され、上位7名ぐらいに絞られた段階で、その番組一番の盛り上がる場面があった。その後は順当に宇治原さんが適正な解答をして優勝したが、テレビ番組としてはこの7名に絞られた場面での伊集院さんの解答とそのスピードが会場を盛り上げた。

 その問題は写真問題で、世界遺産関連の問題だった。グレートバリアリーフという情報だけを共有しその問題がスタートした。「次の写真から関連する生物の名称を~」というナレーターの問題文に数秒遅れて、イクラのような卵が白い珊瑚の上に並んでいる写真が表示された。娘といっしょにテレビを観ていて、私は写真を見た瞬間に「クマノミ!」と答えた。その数秒後、伊集院さんが解答ボタンを押して、勢いよく「クマノミ!」と答え正解された。その後、上位のタレントから「ええ!伊集院さん、この写真だけでクマノミってよく分かりましたね!しかも、数秒ですよ!」などと賞賛のあめあられ。世界遺産、グレートバリアリーフ、珊瑚、魚の卵、あたりの連想で私はクマノミだと推測したが、伊集院さんも明確な根拠はなかったが、同じ連想でクマノミを連想されたとコメントしておられた。

 なかなか、娘も高校生になると、父親の威厳ってどう示せばいいのか混迷だ。自分の得意分野だけの知識や社会の通念を曖昧な根拠で示したところで、若い人は無頓だからである。よりも、リアルタイムでクイズの正解者よりも早く答えを出すということは、まさに現実であり、知識が豊富だってことよりも、知的な瞬発力の勝負だとも言える。つまり、ブレインパフォーマンスの勝負なのである。まぁ、たまたまだったということもあるが、人生、この「たままた」を身方にする奴ほど強い奴はいない。

 大人気なくてもいい、いつまでも、思考と行動のパフォーマンスを高く維持していきたいものです。

 街のイベントでどこにでもあるダンボールを使ったオブジェのコンテストがあった。参加作品が少ないと会場が心配され、絵的に盛り上がらないという理由で、関係者の私も作品を作ることになった。子どもや街の人が自由に参加されるイベントだけに、アイディア的にもテクニック的にもホットな作品が想定された。しかし、どうせつくるならイベントを盛り上げようと私はガチで作品を作成した。作品は計40~50ほど集まって、2会場でイベント中アンケートが実施され優秀作品が選ばれる仕組みだった。結果、私の作品が大人気なくたまたま一番になってしまたが、イベントとしては成功したわけで、流れで優勝賞品を、大人気なくいただいた。

 このように、地位や肩書きを抜きにして同じ条件で対戦する他流試合は楽しいし、テレビのクイズ番組で一喜一憂すのも楽しい。人は誰かへの評価を対象と比較することよりも、自分へのダイレクトな評価に興味があるはずなのだから。その部分を、そのゾーンを狙ったコンテンツこそが新しい価値を生み出しやすい構造なのだと思います。

 さて、11月後半に「多文化共生」というテーマの事業イベントにプレイヤーとして参加するが、その会場で自分自身がどのような思考と行動を生み出すか楽しみです。

電話帳の広告。

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 アクトの電話帳広告デザインです。日頃、仕事中の正直な気持ちを広告にしてみました。

2015シーズン終了。

 10月18日(日)、能登川の伊庭内湖で開催された7パーム様主催のレギュラー戦(年間6戦)が終了した。天候にも恵まれ総勢64名の満員御礼でした。いつものことながらエレキ野郎(上級者)59名と手こぎボート5名の内訳で、タフなコンディションながら上位陣は凄まじいサイズをゲットしておられた。年間6戦(4月~10月)開催される大会で上位入賞者が11月1日に開催されるファイナルへの出場参加権を獲得されるのですが、今シーズンの私の成績ではこのファイナル出場権は獲得できなかった。ガチの大会だけに、上位に入賞するのはラックだけでは絶対にありえないのです。で、そのガチの人たちがこちらです。

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 そして、この一番上に立っている人が優勝者。伊庭内湖に通い始め3年目の快挙である。これだけの上級者が集まる大会で一番高いところ(表彰台)からの眺めはさぞ爽快だったことでしょう。

 →優勝者のブログはこちらです。

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 で、私の2匹はこちら。天候は良かったが水の中は非常にタフで、64名中、ノーフィッシュの人も20名ほどおられた中、私はなんとかこの2匹をゲットできました。バイト(アタリ)が2で魚が2匹だから、これ以上、私のテクニックではどうすることもできなかった。そして、私の2015シーズンが終わったということです。ほんと、今シーズンは大会以外にあまりフィールドに行けなかったから仕方ないのですが、ビックサイズ(40センチ以上)が釣れなかった。これも実力ですから仕方なし。

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 ただ、この2匹、伊庭内湖では延々と続く葦の際を釣るのが自身、ここでの釣り方のセオリーだったのですが、この日は9時30分頃(開始7時~)に葦際を見切り、畔から5~10メートルの沖のボトム、恐らく水深2~3mのエリアを釣った。どうも、葦際の反応が皆無だったからです。そして、何も狙いどころがないエリアでバスを出すということは勇気がいることなのですが、そこで出したバスだけに、新しい発見でしたし、従来、ボトムの横の釣りは私が好きな釣り方だったので、じっくりネチネチとボトムにルアーをキープして出したこの2匹は2016シーズンに繋がる2匹だったと捉えています。

 この大会に参加していると、たくさんのバス釣り仲間も増えて、「まったく!楽しいったらありゃしない!」状態です。2016年4月まで、こちらの皆様との再会はおあずけになりますが、来年こそは白い台の上に立ちたいものです。本庄さん!永田さん!来年も手こぎで頑張りましょうね!そうそう、本庄さん、ファイナル頑張ってください!

逆じゃん!

 ことごとく私の直感は逆である。

 例えば知らない道を車で走っていて、恐らく目的地は右だろうと右折すると左だったり、仕事中に目的の作業をするために行程を決める場合、恐らくこの方向で効率的に作業を展開できるだろうと進めていくと、全く反対の方法だったり。つまり、一番の問題点は確証を得ず、すべてを「恐らく」で判断しているからに他ならないだけなのだ。カミさんに言わせれば「ウロウロする前に目的をちゃんと確認して調べてよ!そういう奴にこそカーナビという商品が必要なのに、そんなモノは必要ないとか言って!へそまがりにも程がある!」となる。実際、仕事中、思うように事が運ばすイライラしている100%は私の確認不足だったり、準備不足が原因であるにも関わらず、そこは適当にスルーして、パスワードを無くしたことや、依頼内容を控えるのを忘れ、ちゃんと保管していないことにイライラして、ひとり沸点に達している。こんなことを長年繰り返していながら、「忘れる」「控えない」「保管しない」「整理しない」を繰り返す非常にやっかいな人なのである。

 では、実際、お前(私)は何をしているのか?それは、目の前にぶら下がった人参だけを見ている視界の狭い馬なのである。このいい加減さを「良い加減だ」などと嘯き、その場その場を凌いでいるだけなのです。これは自身でもホトホトなのだが、どうにもこうにも心に気持ちに余裕が生まれないのは何故か?これもただの言い訳に過ぎないのだが、馬だから「人参」が好きなのは仕方ないのである。誰かにムチを入れられるわけでもなく、人参があれば、ただ、つっぱしる馬なのである。轡を引き締める人を振り落とし、フンフンと息だけを荒げ猛進・直進・迷走が得意技なのです。

 その一方で、「バイタリティー」「ポジティブ」「積極的」「貪欲」「探究心」などという類の言葉に過剰に反応・解釈し、根拠のない幻想を抱き、躊躇しているぐらいなら闇雲にでもいいから前へ進もうとする荒馬なのです。「なんでそこまで突き進むことができるのですか?」「そのエネルギーはどこから生まれてくるのですか?」「その前向き(ノーカン)さはどうしたら身につくのですか?」などと言われたら、さらに調子にのって脇のモノが見えなくなるのです。当然、失敗はひと一倍多く、無意味な傷も多い。そんなケースでさえ「骨は一回折れてから太くなるんだ!」などと開き直っているタイプから、さらにタチが悪い。

 すべて一事が万事、逆なのである。この気質、恐らく死ぬまで治らないだろうから、近くに優秀な騎手が必要なのです。「走れ!」とムチを入れれば息絶えるまで疾走する馬なので、轡とムチを握り背に乗っていただく騎手が必要なのです。「そっちじゃないだろ!こっちこっち!!」と方向さえ教えてくれれば目的地までは最速で行けるのだから。

 このタイプ、自分の捉え方だけで何かに挑戦し試行錯誤し探求している場合、うまく事が運べている状態ではそのまま放置しおけばどこまでも走り続けるのですが、ちょっと方向や目的地がズレ始めると止めどがない。ブレーキがないレーシングカーのような、いや、そんな立派なモノではない、ブレーキの壊れたママチャリのようなモノで、勾配に関係なく、とにかくこぎ続ける。登りでも下りでも。石につまずき転倒するまで止まらない。だから、誰かに「逆じゃん!」と言ってもらえることが何よりも嬉しい。

 天高く、馬肥える秋ではあるが、美味しそうな人参が見えたからと言ってすぐに走り出さないこと。でも、逆方向だと気づくということは正しい進路も実感できるわけで、今、現在進んでいる方向が正しいと知るためにも、一回、逆方向に走り出すということも大切なのです。ただ、棒立ち状態にだけはなりたくないのです。

 このタイプ、突き進む疾走力もあるが、撤退する逃げ足も速い。いつも刀と白旗は必需品です。

イラレとフォトショップ。

 デザインの仕事を展開する上で、アドビのイラストレーターとフォトショップの2大ソフトウエアはマストツールです。デザイン系の大学や専門学校でもこの2大ソフトは必須科目だし、当然、現場に出ればこのソフトウエアの知識やテクニックは実践に非常に有効です。一般的にもデザイン制作会社以外でも広くこのソフトは浸透し、活用されているだけにこの2つのソフトを習得することはデザイナー(つくり手)として避けて通れない王道です。一方、オフィス系のソフト(ワードやパワーポイントなど)をグラフィックデザインに活用しているケースも最近は多いようですが、私はオフィス系で何かデザインを制作した経験も知識もない。デザイン感覚で取り組めばツールなのだから、できないことはないだろうが、オフィス系は完全に見切っています。

 では、イラレとフォトショップで具体的に現場ではどんな作業をしているのか?この質問はよく仕事仲間やクライアントさんからされますが、ひとことで語ることは難しい。決してテクニックや知識を出し惜しみをしているわけではなのですが、世界中のデザイン制作現場に完全に定着しているこの2大ソフトの膨大な機能や活用術を短時間でまとめることはできないのです。また、芸術系の大学や専門学校でどのようなチュートリアルに取り組んでいるかも不明なので独自独学の知識と一般常識レベルのソフトの基礎から応用を比較することもできないのが実情(正直なところ)です。

 しかし、デザイン制作現場でイラレとフォトショップを活用している、の「活用」の部分を事細かに分析していくと根本の原理はポストスクリプトとピクセルの制御となる。ベクトルデータとビットマップデータの原理・特性を理解することと、さらに、デザイン全般の思考や概念を経験値から総括し応用に繋げるには、相当多くの多様な予備知識とコンデションを維持しなければならない。

 デザインの現場で私自身はイラレとフォトショップ以外に多くのソフトウエアを活用しているが、どこまで便利な機能が増えたとしても、それは機能が増えたに過ぎない。どの機能をどの成果に対してチョイスして実際にオブジェクトを加工・編集・チューニングするかは、完全につくり手のテクニックに依存する。イラストレーション(絵)を描くプロとはテクニックや経験値もさることながら、本質的に絵を描く人であり、デザイン、特にグラフィックデザインは視覚的な表現手法を生み出すことに精通している、つまり、そもそもが「そいう人」なのです。努力や修練で培えるテクニックもあるが、そもそもという部分との関係性が仕事現場での伸びしろ・成果に大きく作用するように思います。

 というのも、文章を生み出し、それを生業とする「物書き」「執筆家」「小説家」なども同様に、ただ、文章に親しんでいるだけ、つまり、単なるリーダーでは文章のつくり手にはなりえないのです。文章表現は知識とアイディアなど気心があれば誰でも書けでしょうが、根本的にアマとプロの違いは、技術や知識や理論などが生まれた素養・素質の部分に大きく関係しているのだと最近、強く感じています。

 イラレとフォトショップ、つくり手を選ぶほど、偉大で鉄板な秀逸なデザインツールなんですね。最新のCCのテキスト本なども書店でよくチラミするが、そのあたりの微妙な部分の記載はないから、これからこの2大ソフトに対峙しようとする人達はそれ相当の覚悟が必要だし、手に馴染めばこれほど有効な表現手段はないということになります。文章なら鉛筆1本あればいいが、デザイン制作において、もはや、2大ソフトは不可欠な存在なのです。機会が得られ要望があれば、この2大ソフトに対する自身の取り組みやノウハウをお伝えしたいとは思っているが、なかなか、日々の仕事に忙殺されてその余裕が生まれないのが現実です。しかし、ご要望があれば何でもお答えする所存です。

高度人材。

 海外の優秀な人材が日本の永住権を目的で移住されるケースが増えているらしい。企業も優れた人材を確保しようと、国内での人材育成にコストをかけるよりも、海外の優秀な即戦力のある人材を確保する展開が加速しているらしい。高度経済成長期を振り返っても、海外からの優秀な人材が日本の経済や文化を様々な分野で支えてきたのも事実。特にIT関連で言えば、日本のIT産業が発展途上の頃から海外の優秀なエンジニアやマネージメント関連の人材から多くの手ほどき・指南を受けてきた。特にプログラムやソフトウエアの開発となると、日本は「開発」という名目の「複製」に邁進してきたことは周知の事実である。背景に必ず優秀な海外の人材がいたのです。

 さて、そんな折、海外からの優秀な人材に対して政府や国家機関が公認の査定をしているらしい。海外での実績や技能などを数値化して人材をランク付けし、国内での企業活動へ適正に適用・配置しようとする狙いなのだそうです。しかし、海外の「高度人材」に厳しいランクをつけ、国内の人材育成には無尽蔵の手厚い支援をする体制・仕組みが、いかにも!?ではあるが、こうなった状況には多彩な原因と長期にわたる経緯があるわけで、日本が経済的にも文化的にも萎縮しないように徹底的な擁護をしつつ、海外からの人材補強でつじつまを合わせようという狙いなのでしょう。さて、ゴールはどこか?という問題です。

 では、「高度人材」とはどのような人材なのか、その新聞記事には細かい査定基準が書かれていたが、そもそも、何故、そんなに「高度」を欲しがるのだろう?「高度」って言葉にはいろいろな意味や属性や特質があるのでしょうけれど、今、本当に必要な人材は「高さ」に猛進するタイプではなく、状況を適正に察知・判断して柔軟で強く「変化」できる人だと思います。

 実際、自分より年上で変化した人を3名知っているが、その方達の「変化」は、当然、日本人ばなれしています。凄まじく。

 逆の観点で捉えてみると、自分が海外に移住しようとする場合、さて、どの程度「高度」なのだろう?と。おそらく箸にも棒にも状態だろうから、せめて、いつでもどこでも「変化」できる準備体制・コンデションづくりはしておきたいと思います。

250ヤード。

 どうも自身のゴルフがこじんまりと小粒になっている実感がずっとありました。スコアを気にするばかりに、ダイナミックさというか飛距離を二の次にしていたという実感です。それでスコアはある程度までまとまるのですが、ゴルフの一番の楽しさ、「飛ばす」ということを犠牲にして小さくまとめていたようです。つまり、つまらないゴルフになっていたようです。

 こんなこと誰に諭されるわけでもなく、なんだかスコアだけを気にしている自身がさみしい存在に思えたから、改めてゴルフ熱の基本に立ち返り、ゴルフの醍醐味である「飛ばし」に再チャレンジしようと思っています。確かに今まで「飛ばす」ことに対してまったく興味がなく、100を切る、90を切ることだけを意識してきましたが、結果、そこそこまとまっても楽しくないことに気がついた。「あれ?スコアだけを気にしているのってつまらないぞ」と。この傾向は結構一時が万事で、仕事や趣味についても同様に「小粒」になっているんじゃないかという疑心暗鬼です。「疑心」だなどと体裁を繕ってみても実際やっていることは「小粒な」ことばかりで、この殻は意外と固たかった。3年前、あることをきっかけで、いろいろな自身のスタイルやフォームの大改造に着手した。それは、仕事に対する思考や日々の行動パターンにもメスを入れ、そもそもの根底にある気質や根性や魂の部分の改造でした。凝り固まったスタイルを壊すのは勇気がいったし、まだまだ、新しいスタイルが身体に心に馴染んでいるわけではないですが、このまま年齢を重ねて老化と共に日々を過ごすくらいなら大きなムチを入れようという挑戦でした。

 さて、いつものことながら話が脱線しましたが、目の前のテーマは250ヤードである。つまり、具体的にはドライバーなのである。もう、新品から中古から含めてドライバーは覚えていないほど買ってきたが、いつもラウンドは「飛ばし」よりもフェアウエイ思考だったので、どうでもいいゾーンのクラブだった。しかし、最近買った書籍に「スコアをアップしたいなら、まず、ドライバー(飛距離アップ)だ。」と書かれていた。小粒モード全開で狭い視野の時は、一切、この類の言葉を無視してきたし、スコアアップはまずアプローチだろうと勝手な持論(固定観念)で納得していたのです。それがそれで心地良かったし、可もなく不可ものないでいいやと。しかし、その書籍には現代のアメリカのPGAツアーのランキング上位の選手は当然のようにドライバーの飛距離も上位なのです。小手先のテクニックに固執しがちな日本人(私)はパターやアプローチでスコアをアップしようとするのですが、実際、スコアに繋がるのはドライバーの飛距離だというその書籍の結論でした。「いやいや、それも大切ですが・・・」と、へそまがりな捉え方をしていたのは、自身、結論としてただ諦めていたようです。だから、51歳、老化が加速する前に、ドライバーの飛距離を改めて追求・探求していきたいと思っています。

 その書籍でズドーンと心に響いた言葉の中のひとつには、「ゴルフのスイングの体重移動は左右ではなく上下だ。」という言葉。これには痺れました。かれこれいろいろなタイプのゴルフの指南書の言葉を読んできましたが、「上下移動」という言葉は初めて出会いました。早速、この週末は打ち込みです。

事件は現場で起きている。

 「事件は現場で起きている。会議室で起きているんじゃない!」という内容の有名な映画のセリフがありますが、現場と会議質の関係を自分自身に置き換えてみると、思考が会議室、行動が現場のような関係になります。この年齢(51歳)になっても、デザインの仕事をしていて分からないことが発生します(というか分からないことばかり)。そんな時、専門書を調べる、ネットでエキスパートの意見を調べる、専門家に相談するなどと試行錯誤をして、問題解決のとば口に辿り着く。この連続です。デザインの仕事に限ったことではないのですが(デザインの仕事しかしてこなかったので知識不足)、思考と行動をつなげているのはテクニックです。当然、思考の前段階にもテクニックがあり、行動後、つまり、何か成果物を生み出した後のテクニックもあります。デザインテクニックと言うと、一般的にその中間の思考から行動につなげるための「つくる」テクニックを注目されがちで、前後関係はあまり重要視されない傾向があります。

 例えば、ルアー釣りをはじめたい、ブラックバスを釣りたい、大会で優勝したという狙いを設定した場合、当然、目立つテクニックは道具や釣り方やフィールドの選択です。釣れないフィールドよりもつれるフィールドの情報を得る方がブラックバスが釣れるからです。そして、どのように実際釣れたかという実感を経て自分の道具や釣り方のテクニックをブラッシュアップ・バージョンアップさせる。そういう経験を何回も繰り返しながら自分のテクニックのレベルを上げていく。その結果が「優勝」という成果であり、評価となるのです。しかし、どうしても傾向として道具の吟味や釣り方のテクニック情報が単純で分かりやすいため、そして、入手が容易なため、そればかりを集めて、逆に混乱している人も少なくありません。問題は、その前後にある、ルアー釣りをはじめたいとひらめいたきっかけや、その気持ちを得た機会のことを再確認することで「自分らしい工夫や釣り方のアイディア」に気づきます。また、釣れなかった経験を重ねていると、同様に道具や釣り方ばかりに理由や要因をもとめて、本来の気持ちを曖昧にしたまま道具を変えたり、釣り方を変えたりして、進化・進歩のない思考と行動を繰り返す。これが、スランプです。レベルアップも実現しません。イップスとは自己抑制であり危険を回避するバイアスが過剰に思考や行動を抑制してしまうことですが、スランプは思考パターンや行動パターンを能動的・主体的に変えること、つまり、自分の判断で前後関係に意識を広げることで解決する場合が非常に多いです。

 話をデザインの仕事に戻しますが、当然、バス釣りと同じようなことがデザインの仕事現場でも日々起こっていて、スランプもあればイップスもあればバイアスもある中、自分自身の中の触りたくなようなドロドロベトベトとした部分やトゲトゲツンツンした部分に勇気を出し、タッチすることで痛みは伴いますが、視野が広がり深さや奥行を発見できます。危険ゾーンを避け、会議室のような空間で思考だけを重ねていると、当然、行動力が劣化・退化・低下します。傷つきやすい体質・気質になります。現場は無菌室ではないので、耐久性(タフさと柔軟さと良い加減(適正)さ)が必要なのです。

 養老さんが現代の人間は危険を回避するために都市をつくりその中に退避した。自然の驚異から逃げるために。自然の驚異は予測不可能なことであり、人間の存在を無視するからだと(原文ではありません)。都市空間を象徴する空間とは何か?と自分の経験で振り返ると一番シンボル的な場所は会議室でした。クリーンな会議室で思考を幾重にも重ね合い、引き合わせ、ねんど遊びに興じていれば、まず、危険はありません。ドロドロベトベトトゲトゲツンツンは排除された空間が会議室だからです。よりも、私は現場が大好きです。豪雨の中、ボートの上でレインウエアを着てルアーを投げていると身体的にも精神的にも非常に辛い状況ですが、思考の集中力が高まりメンタルが鋭敏になる実感があります。ロッドにバスのバイトが伝わった瞬間、身体が反応する感覚こそが現場のリアル(実感)だからです。その先にしか実は本当(自分が狙う)の成果はないのです。

マクラ!?

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 仕事中に寝るなどと不謹慎な、と考える人。仕事中でも適正に休みパフォーマンス・コンディションを整えようとする人。この商品に惹かれる人は後者なのでしょうね。欲しい。

コントを採点する。

 昨晩の「キングオブコント2015」で5名の審査員はほんとに難しい条件の審査をされたと思う。コント表現に一定の基準を設定して優劣を決めることは本来、不可能だからです。同様にテレビ番組として成立させるために、アワード的なプログラムは多く存在し、漫才にしてもピン芸にしても、常に権威・公認・通念で然るべき審査員が配置され数値(得点)でジャッジされる。テレビ番組として見ている側は勝ったや負けたで、ただ、一喜一憂していればいいし、審査される側も数千人の頂点に立った実感を優勝という定義で実感できるわけで、一見、相互の関係はWINWINのように見える。というかそういう見方ができなくもない。そこで表現者と観戦者を繋いているのが審査員なのである。審査員が担う作業や労力は想定以上に大きく、テレビ番組の視聴率や好感度を左右することもしかり、表現者の人生さえ左右しかねないからである。その責任を負う立場になってみなければ実感はできないのですが、表現者の立場から言えば、賞金1000万円の価値以上に表現する機会を得た段階で大きな意義があり、誰だって1000万円は欲しいが、実は1000万円で買えないモノがあり、その基準は表現者によるのである。個人的には昨晩のキングは圧倒的に「ロッチ」さんだった。リズムネタはテンポがいいし、メジャーな楽曲に合わせて独自のネタを当てはめればそれで仕上がるが、物語りを設定しその設定の中でコントを成立させる本来のセンスやテクニックは、本来のコント表現から少しずれていると私は考えているからです。「ずらし」も表現だと言えばそれまでですが、本道・王道で言えば、そのゾーンに頼らず、表現者のみが作り上げる空間・時間・間合い・振る舞いから「笑い」を生んでもらいたいという気持ちが強い。そういうコントが好みです。

 デザインの業界にも権威ある協会があり、当然、アワードも多く存在する。グッドデザイン賞などもその最たるモノですが、ここに登録し挑戦し然るべき優劣の基準の中で「優秀」「優良」だとジャッジされたデザインって本当にグッドなのか?と私はずっと捉えている。これらの仕組みにも権威ある審査員が存在していて、彼らのモノサシで優劣が決まる、決められることが、誰にとってグッドなのかという違和感である。SNSでも「いいね!」が多いとホントに「いい」のか?という違和感で、天邪鬼加減もここまでねじれると修復不可能で、何周も回っているうちに、「正回転」「順回転」の方向がわからなり、思考の中で迷子になるのですが、迷子にならないためにも道路標識や知識ある人からの助言やルールにセオリーに準じる努力をしなければならないのも周知の上、そもそも、私は道路標識に違和感を感じている人間なのです。恐らく、間違った道(ルート)の上で本道を進んだ人たちを妬んでいるに過ぎないのですが、それでも、表現者やつくり手としての個性の価値は「自分の変化」に正直であることだと信じているので、追い風にも向かい風にもふらつかない意思、つまり、地に足をつけてこそいれば、自分の中にある羅針こそが真実と信じるしかないのです。ただ、それはとても勇気が必要で、いつ何時、自分を見失わないか、孤立してのけものにならなかと怯えているものなのです。

 つまり、どの分野でも、最強のチャンピオンとは真の臆病者なのである。それをあの短時間で表現したコカドさんと中岡さんこそがキングだと私は思いました。

怪物。

 いろいろな分野に怪物と呼ばれている人が存在する。現在、日本の芸能界では明石家さんまさんもその怪物のひとりだろう。相当、上のクラスの番組でMCを務める人達からも最高のリスペクトをされ、テレビ業界、芸能界をゴジラのように闊歩する怪物である。自分自身、芸能界やテレビ業界とは全く無縁の人間だから、その驚異の本質を知る術はないが、少なくともその他の芸能人、文化人、お笑い芸人の人たちの言葉を総合すると、間違いなく明石家さんまさんの怪物レベルは尋常ではないと捉えています。

 あの「しゃべり」は向かうところ敵なしだろうし、実際、テレビで拝見する部分だけを捉えても、あのライブ感は突き抜けた話術としか言いようがない。それでいて絶対的な好感もある。

 リズムやテンポをつくりながら、大きな流れを生み出す話術。現場の空気を微妙に察知しながら、相手の言葉や表情を瞬間的に判断し、その裏にある真意さえ観察・分析する観察眼。長年の現場経験だけがその高みへとさんまさんを召喚させてきたのでしょう。勿論、素養・才能・気質があってそうなったのでしょうが、その努力も凄まじいらしい。とにかく、仕事の合間にさんまさん自身もテレビを見て芸能人をチェックしておられるそうですし、仕事が終わっても後輩達と飲み歩き、情報収集を怠らないそうです。だから、口々に他のMCの人たちからは、「天才」ではなく、努力の人という意味で「秀才」と呼ばれているそうです。ご本人はそんな努力のことなどは微塵もお話にならないが、ただのよくしゃべる元気なおっさんではないのである。

 そういう部分にあこがれている自分もいて、知識や知恵や理論を記憶の中からチョイスして言葉にする能力よりも、自然に現場で習得したテクニックをその場その場で臨機応変に使い分け言葉にする能力の方を高めたいと思っています。同じ言葉だが、圧倒的な鮮度が違うのです。

 さんまさんはよく「生きているだけで丸儲け」という表現をされるが、この言葉がいろいろな仕事や日常生活の場面でふと頭をよぎることがあります。本当の貪欲さとは物資や理論・知識の蓄積に適用するのではなく、気質や心情の中にある本質に装備しなければならないのです。生きているとは、いつか必ずやってくる死の瞬間まで変化し続けるということなんです。ほんとに偉大な怪物である。

 一見、「適当」で「いい加減」で「ちゃらんぽらん」で「おてんば気質」で「世渡り上手風」でありながら、その場その場で最大のライブ感を成立させているわけですから、過去の正論に固執し、予測不可能で曖昧な未来に束縛されないためにも、今(現在)をガチで生きること。そんな理想のスタイルをテレビ中のさんまさんの姿に見出しています。とても素敵な怪物です。表現者、つくり手としてひとつの理想形だと思います。

グーグルでは何故?

 「グーグルの社員は何故120%のモチベーションで働くのか?」という気なるフレーズをメルマガの中で本日発見。社員数6万人の企業でありながら、社員は自らの高いモチベーションを維持し、グーグルの発展に寄与しているということ。その記事を読み進めていくと、先日購入した「ワーク・ルールズ」という書籍へ辿り着くというオチだったのですが、その本はもう読んだから、記憶している何かが、このフレーズに思わず反応してしまったのです。無意識に本能で触手が動くいそぎんちゃくのように。

 さて、モチベーションを生むことの大切さはビジネス書を読めば著者独自のアプローチがあり、非常に刺激になります。著者が実際に仕事現場で取り組んできた工夫やアイディアが思考と行動に連動し、棒立ち状態から戦闘臨戦体制に変化するわけですが、私は、棒立ち、もしくは踵体重の人とはあまり会話が弾まない。見事に弾まない。何度となく挑戦してきたが弾まない。同様にガードの固い人とも相性が悪い。言っていることはそれ相当のことなんだろうし、言葉選びも巧みなのだが、真意が分からない人がいて、つきあいにくいというか、どうでもいいかなとさえと感じてしまう。一旦、この気持ちが一定期間続くとその人に対して、モチベーションは上がらない。0になる。そのタイプと傷を舐め合っている時間が惜しいのです。その時間、見事に何も生み出しませんから。また、モチベーションをノウハウや表面的な小手先のテクニックと捉えている人も同様につきあいにくい。いろいろ思考していろいろな経験をして、結果、今、どうなの?という捉え方を私はよくしてしまうので、過去がどうであれ、キャリアがどうであれ、昔はそれで花が咲いていたかもしれないけど、今、あなたが大切に持っているその灰じゃ、枯れ木に花は咲かないよって感じ。何事も短気は損気だが、煮え切らない人は結果どこを掘ってもつまならい(つまらない金太郎飴)ことが多い。当然、行動もビジネスも共にしたくなくなります。

 などと、愚痴から入ってしまいましたが、前体重、臨戦態勢、ガードも固いしジャブも鋭い、ポーンを綺麗に整列させながら、ビショップもクイーンもナイトも盤面に効かせてくる人は、勝負が楽しい。最近、ある女性起業家さんとデザインの仕事をしたのですが、この人、初めての起業で一見、線が細いように見えたのですが、実際、仕事をしてみるとタフでクレバーな女性でした。女性特有のキメの細やかさと慎重な振る舞いと建設的な意見が見事に綾を成し、自分の狙った的に的確に進まれる。起業は初めてとお聞きしていたが、かなり、以前のキャリアの中で起業することに対する熱意、モチベーションが蓄積していたのだと想像しながら、私も全力で対応した次第です。こういう人との仕事はほんとに心地良い。

 また、今年出会ったある制作会社さんの女性デレクターさんも女性的な物腰でありながら、デザインの仕事に精通し、お忙しい時間を過ごしておられるにも関わらず、参考資料や適正な文面で指示をしてくださる。中心にあるモチベーションの質が高いのです。年下でありながらここまで適正なディレクションをできる女性を、私はあとひとり知っているが、現在はママとして人生の安定期を過ごしておられるはず。しかし、私が26歳の頃、その方は35歳のバリバリ・ディレクターだったから、いっしょに仕事した時はヒリヒリ・ピリピリがずっと続いていた。こう考えると、ゴタクを並べ、理論で押し切ろうとする傾向の男性と比較して、できる女性は真からタフで柔軟だと思う。素質・ポテンシャルと言えばそれまでですが、素養のある人に経験値が加わると最強になるのです。しかも、それが女性だときた日には、男(私)はもうお手上げなのである。

 ハチや蟻の社会では常に女王が中心で働く担当は男と決まっている。団体で行動する時のひとつの模範スタイルである。奇しくも、チェスのコマのキングとクイーンの関係で、キングがひとマスしか動けないのに比べ、クイーンの縦横無尽な動きの設定には明確な根拠があるはずです。この自然界、生物界の基本的な構造・仕組みがどこかにある以上、私(男)は無敵の盾と矛を手にして常に臨戦態勢を崩してはいけないということなのでしょう。だから、つまり、何事にも常に矛盾が生じるわけです。

 強い女性に比べ、割れやすいガラスのような男性、もっと、がんばれ!(勿論、私もふくめてがんばれ!)

 想像だが、グーグルにはそういう人が多く集まってくる、を、引き寄せる磁場が存在するのでしょうね。恐らく、それは、当然、人なのだろう。

読書の秋。

 決して多くはないが、いろいろな本を読んできました。「読書の秋」という言葉があるぐらいなので、秋は書籍に親しみやすい季節です。夏と冬の間で少し気持ちを整理したいと考えたり、新しい情報や刺激を知りたいという探究心が生まれやすい季節だからだと思います。ある著者が脳を活性化するためには、自分の好きなジャンルの書籍とまったく未知のジャンルをバランス良く読んだ方がいいと書いていたので、長年(社会人になってから)、その努力を自分なりにしてきました。仕事や趣味の世界や本質的に興味がある分野と、まったく未経験で興味がないというよりも、否定的で拒絶しているような分野を努力して均等に読んできた。興味があり好きな分野の書籍の場合、ある程度自身もその分野の知識があるため、共感できることが多く、実感できることも多いため、著者と自分の知識や実感を比較したりしながら、新しい発見や驚きが楽しい。一方、否定的な分野でも著者の考え方やテーマの捉え方が想定外だったり、知識や経験がないだけで本当はいろいろな魅力が自分との共通点があるのだと知ることも多く楽しかったりします。

 小説で言えば、好きな作家と嫌いな作家がいて、水と油のように自分の中では分かれています。若い頃、一旦、分けてしまったらこの二つの分野や絶対に交わらず、好きゾーンと嫌いゾーンをオセロの盤面のように明確に分けていた。そのひとつに「芥川賞」を受賞した作品は読まないという妙な偏食傾向があり、少しだけ作家さんの情報を調べたりするものの、作品を読むことは絶対になかった。芥川龍之介についてはほぼ読んでいるが、私は「芥川賞受賞作品」については色眼鏡を外せなかったのです。

 しかし、数年前「穴」という作品を何故か読んでみたくなり、購入して3回ほど読んだ。まず、何故、否定的だった分野の作品を読もうと思った理由もその経緯も忘れたが、唯一、記憶しているのは、書店でその書籍を発見した時のその装丁デザインが印象的だったからのように思っています。その装丁デザインが「穴」というタイトルとはどこかかけ離れている印象があり、私の中で「芥川賞」「穴」「装丁デザイン」とうい三点バランスが妙に成立した、ような記憶があります。内容や感想について何も述べるつもりはありませんが、あれから数年、毎日の思考の中や行動の中で、穴を探している自分に気がつきました。すると、「穴(作品)」の中で登場した様々なシーンが部分的に映像で頭の中に現れ、毎日の風景の中や思考の中で穴を探す感覚(タイミング)と一致するようになったのです。穴と言えば、小さい蟻の巣穴から、壮大なブラックホールまでありますし、思考の穴と言えば「忘却(など)」、行動の穴と言えば「失敗(など)」と位置づけている、ような感覚なのです。

 つまり、私はこの作者(名前は覚えていない)の心地よい穴に落ちたのです。

 読書の秋、そんな素敵な書籍との出会いを期待しています。

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 これで方向性とミート率が安定するといいのですが。

スポーツクライミングジム。

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 いいなぁ~、こんな施設が長浜か彦根にオープンしないかなぁ~。