コントを採点する。

 昨晩の「キングオブコント2015」で5名の審査員はほんとに難しい条件の審査をされたと思う。コント表現に一定の基準を設定して優劣を決めることは本来、不可能だからです。同様にテレビ番組として成立させるために、アワード的なプログラムは多く存在し、漫才にしてもピン芸にしても、常に権威・公認・通念で然るべき審査員が配置され数値(得点)でジャッジされる。テレビ番組として見ている側は勝ったや負けたで、ただ、一喜一憂していればいいし、審査される側も数千人の頂点に立った実感を優勝という定義で実感できるわけで、一見、相互の関係はWINWINのように見える。というかそういう見方ができなくもない。そこで表現者と観戦者を繋いているのが審査員なのである。審査員が担う作業や労力は想定以上に大きく、テレビ番組の視聴率や好感度を左右することもしかり、表現者の人生さえ左右しかねないからである。その責任を負う立場になってみなければ実感はできないのですが、表現者の立場から言えば、賞金1000万円の価値以上に表現する機会を得た段階で大きな意義があり、誰だって1000万円は欲しいが、実は1000万円で買えないモノがあり、その基準は表現者によるのである。個人的には昨晩のキングは圧倒的に「ロッチ」さんだった。リズムネタはテンポがいいし、メジャーな楽曲に合わせて独自のネタを当てはめればそれで仕上がるが、物語りを設定しその設定の中でコントを成立させる本来のセンスやテクニックは、本来のコント表現から少しずれていると私は考えているからです。「ずらし」も表現だと言えばそれまでですが、本道・王道で言えば、そのゾーンに頼らず、表現者のみが作り上げる空間・時間・間合い・振る舞いから「笑い」を生んでもらいたいという気持ちが強い。そういうコントが好みです。

 デザインの業界にも権威ある協会があり、当然、アワードも多く存在する。グッドデザイン賞などもその最たるモノですが、ここに登録し挑戦し然るべき優劣の基準の中で「優秀」「優良」だとジャッジされたデザインって本当にグッドなのか?と私はずっと捉えている。これらの仕組みにも権威ある審査員が存在していて、彼らのモノサシで優劣が決まる、決められることが、誰にとってグッドなのかという違和感である。SNSでも「いいね!」が多いとホントに「いい」のか?という違和感で、天邪鬼加減もここまでねじれると修復不可能で、何周も回っているうちに、「正回転」「順回転」の方向がわからなり、思考の中で迷子になるのですが、迷子にならないためにも道路標識や知識ある人からの助言やルールにセオリーに準じる努力をしなければならないのも周知の上、そもそも、私は道路標識に違和感を感じている人間なのです。恐らく、間違った道(ルート)の上で本道を進んだ人たちを妬んでいるに過ぎないのですが、それでも、表現者やつくり手としての個性の価値は「自分の変化」に正直であることだと信じているので、追い風にも向かい風にもふらつかない意思、つまり、地に足をつけてこそいれば、自分の中にある羅針こそが真実と信じるしかないのです。ただ、それはとても勇気が必要で、いつ何時、自分を見失わないか、孤立してのけものにならなかと怯えているものなのです。

 つまり、どの分野でも、最強のチャンピオンとは真の臆病者なのである。それをあの短時間で表現したコカドさんと中岡さんこそがキングだと私は思いました。