2015年11月 アーカイブ

居合抜き

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 居合抜きの極意とは、「腰刀以三尺三寸勝九寸五分表六寸而勝之」だそうです。非常に興味深い。

33年目の電気ストーブ。

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 このストーブは1回生の冬に買ったストーブ。だから、今年で33年目。タフな奴です。

富良野かっ!?

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 只今、会社の前にきつね出現!仕事場(2階)から撮影した写真です。ここは富良野かっ!?

3日間のチーム。

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 自分自身、何かを生み出すプロセスにおいて、「チーム」という意識が欠落していた。その部分を強く意識できた3日間だった。他の3名の皆様には中途半端な参加でご迷惑をおかけした。本当に申し訳なかった。もっと、仕事の段取りを整えてこの3日間に対峙するべきだったと反省しています。つまり、何事も一期一会。一時が万事。時間の使い方とはそういう仕組みなのです。

 帰路、そんなことを考えていると新しい大きな旗が目の前にはためいていた。諸行無常の鐘の音が一瞬聞こえたような気がしました。

「宇宙兄弟」最新刊。

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 ただただ、やばい。

「かくれ里」白洲正子

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 「マサコシラス」は今までスルーしてきました。興味はあり、いつか何かのタイミングで出会うことになるだろう、いつかこうして書籍を手にする時が来るだろうという対象でした。しかし、そのタイミングがたまたまなかっただけでした。ようやくそのタイミングが訪れたので、まずは「かくれ里」に入っていこうと思っています。当然、意図的に「マサコシラス」についてリサーチはゼロ。イマドキ、情報などどうでもなる時代なのに、リサーチしないほど、興味があったという「天邪鬼方程式」を崩したということになります。

 ちなみに、最近、もうひとつ「天邪鬼方程式」が崩れたモノがあります。それは、「iPhone-6」。楽しみです。こういう気持ちなれた時は、いつも何かが動く時なので。

図で伝えるデザイン。

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 ひさびさにデザインの本を買った。改めて「図で伝える」というテイストの今を確認したいと思っています。必ずしも「デザイン=図」ではない部分があり、そこの部分との関係性がデザインの機能であり利点。つまり、「イメージと言葉」の関係性をつくり手がどこまでバランス良く解釈・理解・習得しているかが「デザイン力」になるわけです。まぁ、とりたててブログに書くようなことではないが、意外とこの部分が曖昧なまま「イメージ先行」や「言葉(理論)優先」になっているケースがあるので、このような完成度の高い一冊が手元にあると、都度、迷った時、探求したい時、モノゴトを掘り下げたい時にとても有効な基準になるものです。そういう捉え方でチョイスした本です。

少し松本伊代が。

 比較的、お気楽・楽天的な人も身勝手で利己的な人もねちっこい人も気にならない。恐らく自分自身がそういうタイプだから友の類だという捉え方なのでしょう。相反して、理論的で理屈ばかりこねる人も根暗で陰湿チックな人もスーパーネガティブな人も気にならない。気にならないというか気にしないという捉え方で、理屈にしても陰湿にしてもネガティブにしても、「ご自由に」という捉え方なので関わる関わらないに限らず、結局のところそのタイプは結果的に「どうでもいい人」だから、逆にどうすることもできなし、どうするつもりもないからスルーとなる。

 ただ、一番の私の天敵は「天然な人」。このタイプは濡れタオルで頚動脈をねじ上げても、手首を逆関節に締め上げても、応えない。テレビ的にはヒロミさんの奥様である松本伊代さんのようなタイプはどうにもこうにも手に負えない。ヒロミさんの場合、考え方やキャリアが突き抜けているし、達観しておられるから、「笑い」転換できるが、自分のこととして置き換えた身近な状況になると、これが辛い。勿論、人畜無害であることが前提なのですが、ノリとかテンポとか言葉のキャッチボールが成立しないので辛くなる。これが芸能人だから、天下の松本伊代だから、テレビのネタにもなるし、それでお金も稼げるわけだから、建設的であり生産的であり意義がある。しかし、普通の人で「松本伊代」が入っているとかなり辛い。決して、いいおっさんの「のろけ」ではないから、こうして備忘録(ブログ)に冷静に書き出しています。

 例えば、カミさんは低血圧で体温が比較的低い。夏もあまり汗をかないし、もう9月の中旬ぐらいから毛布を引っ張り出してくる。現在、11月ともなれば、毛布の上に羽毛布団2枚で寝ているのに、「寒い」と言う。とにかく低体温ぎみなのである。それに比べ、私は極端に体温が高い。というか新陳代謝が激しく、体温は普通なのですが、いつも身体がホカホカしている。汗もよくかくし、冬もちょっと身体を動かせば身体はすぐに暖かくなる。つまり、新陳代謝が良く運動j効率がいい身体なのです。適当に脂肪もついているから有酸素運動が活発なタイプのようです。

 先日、カミさんがぎっくり腰になり、整骨院に通っている。ようやくまともに普通に歩けるようになって、「やっぱり、整骨院は凄いわ!」と言う。「普通に歩けること、普通に座っていられること、何よりも普通が一番、健康が一番やわ」とやけに「普通」を連呼する。

 カミさんの普通はあくまでも「毛布1枚に羽毛布団2枚」。私の普通は「わた布団1枚」なので、私としては、ちょっとからかう感じで
「普通普通と言ってるけど、僕の体温と比べたら12度ぐらい違うからな」というと、「そうそう、お父さんの体温は高いから羨ましいわ!」と、「体温12度の差」についてはノータッチ。私の体温が仮に36.6度だとしたら、カミさんは24.6度なのだが、その部分はスルーする。私は「体温24.6度」ということは「あなたの「普通」は「死体」に限りなく近いのだから、「普通」が一番やわとか言っているけど、それはゾンビレベルですよ。」という意味で言ったつもりなのですが、そこは軽くスルーする。愛犬のおすわりぐらいスルーする。

 ああ、天然タイプは仕掛ければ仕掛けるほどこちらが締め上げられる。ただスルーすればいいだけのことなのだが、松本伊代タイプは計算・戦略を土返しにして天然モード全開で仕掛けてくる。それがスルーできない上、安易にこちらが仕掛けると、そこにはデカイ地雷がある。松本伊代は取り扱い方が実に難しい。あなたの近くにも「松本伊代」はいませんか?

「虫の虫」と「下町ロケット2」

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 養老さんはよくファーブルの話をその書籍の中でされることが多い。「バカ」や「自分探し」や「脳」や「解剖学」の話も楽しいが、やはり、養老さんに共感を覚えるのは「虫」です。養老さんは何故虫が好きなんですか?と出版社の担当者やメディア関連の人に質問されるらしいですが、「好きは好き。理屈などありません。」と答えているらしい。嫌いには理由があるが、好きなことに理由があるはずがないでしょうという理論、というか、そういう本質がさらに共感を覚える。誰かと何かを共有するために言語や理論が必要であり、自分の好きなことを自分ひとりで楽しむ上で、理論や理屈は必要ないということです。万象を思考の中の理論で包括しよう、収束しようとするが、そんなのできるはずはないし、道理も意味もない。自分の手が届くゾーンの中でコツコツと行動し何かを生み出すことが大切。虫や地球上の生物達がそうしているように。

 昨晩、「下町ロケット」のテレビドラマが完結した。あの話を11話にどう分解するのだろう?という心配があったが完結に半クールで終了した。なんとも原作に忠実なテンポと展開に痺れました。いかに人間の手で何かを生み出すということが素晴らしいか、いや、そんな曖昧な表現ではなく、手が生み出す価値意外に価値はないということ。素晴らしい物語、素晴らしい俳優、素晴らしいテーマ、最近希に見るテレビ番組でした。ということで、「下町ロケット2」です。物語「1」は「ロケット打ち上げ」に関連する人間ドラマでしたが、「2」は医療の現場をテーマにした物語のようです。しかし、阿部さんの演技の素晴らしさが光っていました。流れとして「2」の原作の本の中にも阿部さんが登場するわけですから、「テレビ」と「原作」の良い連鎖が成立しているわけです。

 なんで、実写映画「宇宙兄弟」の仕上がりはああなってしまったのだろう。同じロケットが登場する、宇宙への夢を語る物語なのに。

 余談ですが、昨晩、テレビで初めて映画「007」のCMを観た。一瞬だけD.クレイグが登場したので、「ミレニアム2」の映画のCMだと勘違いしてしまった。かなり、かなり期待していた続編だけに、「2」と「3」の映画化の話が流れたことでずっとモヤモヤしていたからでしょう。残念。「好き」の作用って、まずいろいろな理論・理屈を押しのけてイナズマのようにひらめくから取り扱いに注意が必要です。

WINDOWS10

 毎日パソコンを起動する度にWINDOWS10へのアップグレードを訴求されるが、私は一切、WIN10を使う気持ちはありません。趣味レベルならWIN10の新しいインターフェイスを使ってみたいという好奇心は正常なのかもしれませんし、リリースの流れが今後、どう考えても、逆行することはありえないので、いつかWIN10が主流になり、WIN7のサポートが終了したときのために、という捉え方も適正な捉え方だと思います。しかし、「捉え方」と「仕事」を混同してはいけないと私は考えていて、15年以上前、デザインの仕事を展開するのならMACだと、しかないという捉え方をしていました。本体のデザイン性や機能性がデザインの仕事にマッチしている、デザインの仕事をするのならMACだというセオリーがあったからです。しかし、このセオリーもただの捉え方でした。並行してWIN-XPを仕事に使い始めてそれが確信・実感できたからです。いいデザインの仕事をすることを目的として、機能性や安定性と筐体のデザインや素材は無関係だったという結論です。デザインの業務をMACからWINに移行してなんのトラブルも問題も不具合もありませんでした。デザイン=MACという固定観念はただのアップルの戦略であり、その啓蒙・訴求にはさほど実益がなかったということです。確かにデザインは思考面やイメージを着想する部分でツールに依存している面が多いのですが、それさえも固定観念だったのです。その背景にアドビはWINでしっかりソフトを走らせているし、インターネットに関してはWINの方が有利です。そんな中、MACの購買ゾーン(市場)がWINに圧迫されたのでしょう。その結果、当然、MACは販売価格帯を下げてきました。「デザインワークにはMACだ!」いうマジックのネタがばれたからに他なりません。それから私がデザインの仕事を日々展開する上で、MACの比率・配分は極端に減り、最近ではMACを起動しない日もあります。どういうケースでMACを起動するかと言えば、ただ、なんとなく起動したくなった時だけです。まったく、明確な根拠はなく、どこまで行ってもMACというツールは「気分次第」で使う、使われているのだと個人的に捉えています。

 そこへ、WIN10の登場です。何故?WIN9をスルーしてWIN10にしたのかは諸説ありますが、結果、作り手・開発元の「気分次第」だったように捉えています。市場に対して明確な機能性や安定性の根拠がないケースでは気分次第で「イメージ」や「概念」に対して訴求しようとする流れ・傾向が、パソコンというツールにはあるようです。これは別段、何が正解だという問題ではないのですが、何より仕事で円滑に活用できて、時代の流れにマッチしてさえいえれば、適正だと捉えるしか選択肢はないと捉えています。それぞれのOSの歴史は安定と不安定の振幅がありますから、世の中の情報と自分自身が実際活用しながら適正ゾーンを模索し続けるというスタンスです。

 このスタンスで言えば、現状、「WIN10」はナシです。MACについても高解像度のiMACが登場するたびに購入を検討していますが、どのスペックも実際の仕事に活用できるか?となれば違和感がありそうで、購入には至っていません。「イメージ」や「概念」でツールを選択できるほどの余裕がないということと合わせて、「決め手」のないツールにコストはかけたくないという結論です。

 余談ですが、スマホも同様の観点でナシです。ガラケーで電話はでき仕事に支障がない限り、余計なアプリも機能も興味がないからです。仕事用には各種デバイスを揃えているので、個人の趣向と仕事への活用・転用を明確に区分けしている結果、スマホはナシという現状の結論です。

 ただ、WIN10も最新MACもスマホも、一方的に排除する思考は、致命的な事態を誘発させる原因になる場合もあるので、意識の中で絶対に消さないようにしています。ツールなのだから入手すれば活用できるはずですし、必要性が生まれてから入手しようと思っています。私自身、新しいソフトウエアや日頃活用している以外の分野のソフトウエアやデジタル周辺機器については、貪欲に入手してしまう傾向が強いのですが、ことプラットフォームに関しては過剰に慎重すぎる傾向があります。この傾向は、興味があれば気分次第で次から次へと手を出して(購入)しまう本質のようなので、「衝動買い」や「宝の持ち腐れ渋滞」にならないためのブレーキだと思っています。仕事が目的で車を運転している以上、それにガソリン(コスト)も必要なので、アクセルとブレーキの加減は慎重になり、自分の安全運転(判断基準ゾーン)をしっかり意識したいと思っています。

 とはいえ、世の中の市場は「気分次第」で動いている、変化し続けていることも事実。同期し連携しなければならない場面もあるでしょうから、いつでもトップギアに入れられるようにしておきたいです、ですね。

ドロヘドロ

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 知らなかった。ただ、知らなかった。こんないい感じのマンガがあったなんて。集めよう集めよう集めよう。

50代の私でも。

 「50代の私でも本当に稼げますか?」

 「パソコン初心者の私でも稼げますか?」

 「本当に私でも稼げますか?」というキャッチコピーでパソコンのスキルアップ情報の案内がメルマガとして届いた。

 一概に「パソコンで稼ぐ」というニュアンスが具体的にどうなのか?までは、情報として明確ではなかったので、ある程度想像がつきますし、そこから深堀りはしなかったが、そもそも「パソコン」と「稼ぐ」という二つの要素をスキルアップで連動させるコツ・テクニック・ヒントは実際どの程度有効なのだろう?世の中にはデジタルツールも使わず、インターネットも活用せず、充分に稼いでいる人が多い。むしろ、すでに稼ぐ条件や稼ぐ状況、もしくは、たまたま稼ぐタイミング(機会)に出会えた人が、たまたまたパソコンを使えたケースの方が多いような気がします。世の中の仕組みや構造が仮に進化であれ退化であれ、稼ぐ人はパソコンスキルなどなくとも充分に稼いでいる。このキャッチコピーのようにリアルに率直に「50代の私でも」という少し卑下した低い自己評価のスタンスでモノゴトを捉えなければならない状況こそが、重要な問題である。

 最近、ハリウッドの映画を観ていると、どうもヒーロー達の敵が「宇宙人」から「人工頭脳」に切り替わっている傾向にある。ハリウッドの優秀なストーリーメーカー達がそう捉えている以上、世の中の思考は大きな作用・影響を受けるだろうし、影響を受けた人達が「人工頭脳」を敵対視し、いわゆるヒーロー的な存在が美化され敬われるという構図・仕組みが読み取れる。ヒーローは常に人間だからである。この前提は永遠に変化させることができない。市民の敵がショッカーだった時代はとても平和だったということである。毎週登場する悪者怪人がライダーキック一発で吹き飛ぶ単純明快な時代に戻れるなら、と考える50代も多いのではないだろうか。しかし、人間の最大の敵は「神」から「宇宙人」へ、「宇宙人」から「人工頭脳」に変化した。さて、50代の私はwhat do you do?となる。映画「スピード」に登場する犯人、デニス・ホッパーのように起爆スイッチに指をかけた状態で、パソコンが状況判断を迫ってくるかもしれない。さて、ジャックはこの状況をどう回避するべきなのだろう?恐らくこの状況で必要な判断力、パソコンのスキルとは無関係である。

商品写真。

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 インターネットで商品やサービスを訴求する場合、写真の力を侮ってはいけない。そんなことその道の人ならば十二分に承知している、ものの、いざ自分が取り組んでいる案件で、商品やサービスや施設などの魅力的な写真を撮影しようとすると、いきなり巨大な分厚い壁が出現する。イマドキの写真撮影は一眼デジタルが進化し、それぞれのメーカーでモチーフや状況に合わせた、撮影プログラムモードが用意されているので、フィルムカメラの時代から比較すると格段にツールは進化したと言えます。しかし、カメラがいくら進化しても写真が同様に進化し品質が上がるということではない。訴求力のある魅力的な「強い写真」を撮影するためには、やはり、基本的な撮影の知識や技術が不可欠で、それらをベースにシャッターを切る人の感覚や緻密なプランやテクニックが、強い写真を生み出すのです。

 例えばこの写真、何気なく検索していて目に止まったサイトの写真です。ワンピース商品など無縁の私でさえ、この写真の強さには心が動く(止まった)ぐらいだから、女性の方なら共感できる強さがある写真だと思います。外人モデルが着ているからウエア商品もよく見えるということは誰でも理解しているが、実際、身の丈に合った販売促進の展開をしようとすると、このレベル・クラスとの現実的な格差に愕然とする人は多いはず。なかなかのハードルの高さがあります。勿論、コストのかけ方が違うわけですが、コストをかける価値があると判断できる条件・状況だということや、そう判断するべきだと思える素養も含めて、すべて強い商品写真を生み出すために必要な捉え方なのでしょう。

 何気ない商品写真ではありますが、強い写真だと感じました。

手首。

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 いやいや、しかし、年齢も50歳を超えるといろいろな部位にガタがきます。腰に老眼に50肩にと連続で畳み掛けるように不具合が押し寄せてきます。腰と首のヘルニアもなんとか克服し、老眼も老眼鏡で対応し、50肩も優秀なインストラクターの方のアドバイスで完全復活した。最近ではようや自宅のトレーニングルームで懸垂もできるようになり一安心していたら、10月になり気温の低下と共にどうも左手の手首がおかしい。普通に仕事をしたり釣りをしたりしている状態では問題ないのですが、ちょっとひねったり無理なねじりを入れると「ピリっと」痛い。手首のストレッチは欠かしていないのですぐに気がついたが、とりたてて何か無理な動作をした記憶はない。腰痛なら仕事中の姿勢が悪いことや、バス釣りで手こぎのボートを5時間漕ぎ続けていることなどが明らかに原因だったし、50肩はボルダリングのトレーニングでホールドに片手でぶら下がったり、片手で懸垂をしていたことが原因でしたので、それをやめれば完治に向かうことができた。しかし、左手首?何故だろう?と考えてみると、どうやら仕事中のキーボードの使い方に無理な状態があることに気がついた。

 ボートや懸垂のような激しくディープな動きではないが毎日仕事中に行っている動作なので、年齢と共に鍛えているはずの部位だが、老化とも相まって無理をしている部位に負担が集中していた。それが私の場合、毎日のパソコンワークの左手の使い方だったようです。

 仕事を迅速に行うために、元々レフティーの私は文字入力以外は左手がキーボード、右手はマウスというポジションで仕事をしている。デザイン制作用の専用ソフト(イラレやフォトショップなど)の場合、特にショートカットやテンキー入力はほぼ左手。マウスはポインターの移動ぐらいにしか使わず、クリックする程度。作業中、マウスを離してしまうよりも、キーボードの操作は左手で行った方が作業効率がいいからなのです。しかし、ショートカットキーの基点である「Ctrlキー」を左手の小指で押しながら、他のキーを押す。また、右側の「Ctrlキー」を左手の親指で押しながら、他のキーを押す。数分の作業なら負荷などないのですが、これを3~4時間連続で行うと、さすがに左手のねじれと負担は大きい。という結論です。当然、作業を加速させたいときはこの不自然な左手の動作が延々と続くわけですから、毎日こんな作業をしていれば少しづつ腱が伸びちゃった!ということなのでしょう。

 で、このサポーターの購入となりました。無理な使い方はいたしかたなしとして、できるだけ、痛い部分を意識しながら、リラックスできる作用もあるようなので、痛みが伴わないポジションと動きで作業の流れを安定させようと思っています。

 どうも、若い頃(なんて言いながら、はるか30年以上も前の話)のイメージ(心意気)が身体に染み付き、ちょっとぐらい無理をしても平気な我が身という過剰な意識があるようで、確実に身体は老化・劣化・鈍化しているのだから、その状態で最高のパフォーマンスを出すのがテクニックというもの。「奥義」とまではいかないが、身体機能が低下していくことをしっかり意識下に置いて、その状態・状況で最大・最高の工夫や対応をしたいと思っています。

 昨日テレビで観た映画で主人公の師匠と呼ばれている方がこんな言葉を言っておられた。

 「春は桜、夏は星、秋は月、冬は雪。それらを見ながら美味しい酒が飲めなければ、心に迷いがあるからなのだ。」と。なるほど、奥義とはそのあたりの感覚からやって来るモノなのですね。

 「誰かを想う慢心より、己の傷心の存在を受け入れろ。」とも言っていた。誰かに何かを伝えたいという心の在り方は、己の意識や存在価値を確立させなければ絵空事で終わるということ。確かに「お前がそれを言うな!」というケース・状況はよくあることです。自身もそうなっている可能性は非常に高く、自身の傷心を麻痺させるために慢心に意識を委ねる傾向、確かにありますね。

 昨晩から読み始めた書籍の冒頭に、自分が吐き捨てたガムが街路樹にあたり跳ね返って進行方向に転がりそれを自身で踏む、という滑稽な男の話が書かれていた。自業自得の仕組みである。「衝動」がいかに良くない結果を自身に引き寄せ、冷静な「心」がいかに自身にとって有効かという仕組み。この手首もそれが露呈した結果なのでしょう。

真っ直ぐ引く。

 1ヶ月前ぐらいからカミさんが本格的にゴルフを始めた。私のゴルフ歴は24年ですから、12月のラウンドに向けてスイングの基本やプレイ中のルールについて自分の実践してきた経験の中から、基礎の部分をじっくりとレクチャー・指導しています。当然、私のゴルフ人生で誰かに1から(0から!?)ゴルフを教えたという経験はないので、初心者にゴルフを教えるという非常に難易度の高い展開に苦しんでいます(これほど苦しいとは!)。これが自分のことならば、ナイスショットもミスショットも自己責任ですし、どこをどのように修正すればいいのかなど、自己分析が容易なのですが、相手がカミさんとなると想像以上に難しいことに、今更ながら頭を抱えています。ゴルフというスポーツの全容からクラブの知識、ボールの捉え方のテクニック、コースの知識などなど、何から優先し、どのように説明して練習させるかという、結構なハードルの高さを痛感しています。

 そんな折、ショートコースをいっしょにラウンドしながら、そして、打ちっぱなし練習場を織り交ぜながら、実践経験を積んでもらっている段階なのですが、一応教える側としてちゃんとしたスイング、ちゃんとしたコースマネージメント(っぽい)セオリーを実践して、ちゃんとしたショットを披露なければと、それはそれなりにプレッシャーを感じながら自身、ラウンドしています。しかし!とにかく!自分のパターのポンコツぶりが止まらない。そもそも、好きなクラブではないのですが、「パターが上手い人」ではないことが、こうも露骨に露呈するとは情けなさを通り越して、パターについて何も教えることがない、に近い状態に陥っています。とにかく結果が伴わない。

 自慢げに有名ブランドのパターだとうんちくだけを話しながら、グリーンの上ではカミさんとパット数が変わらない。たまには負ける時さえある始末。おいおい、私のパターテクはこんなにポンコツ!?という結果の連続なのです。挙句の果てに、前回ショートコースをラウンドした最終の18ホールでカミさんはグリーンエッジからパターでチップイン。私はワンオンしていながら3パットでトータルスコア4と負けてしまった。なんとも象徴的なラストホールでした。もう、苦笑いしかひねり出せませんでした。辛い。ホントに辛い。これがゴルフの恐ろしさ。

 そこで、私の有名ブランド(キャメロン)パターをカミさんに渡し、カミさんに貸している私の旧パター(500円パター)と交換して、自分が練習をし始めた。なんという利己的な!ジコチュウ野郎だ。しかし、キャメロンではカップに入らないのだから仕方ないのである。

 すると、私のキャメロンで練習を始めたカミさんが「このパターは真っ直ぐ引けない。」と言い出した。うん?何を偉そうにと思いつつ、確かに!キャメロンに変えてから方向性が極端に悪くなった。グリップの太さやヘッドの形状など、いつものことながら頭デッカチになり、理屈・理論で使いこなしてます感を無理やり出して、キャメロンだからというタテマエ・テイサイで自分を納得させていたことに気がついた。確かにそう言われれば、古い500円パター(カミさんに貸している)と比べ、バックスイングの時、インサイドに引くことが多いとに愕然。「高価なパター」、「有名ブランド」、「プロも使っているから」にうつつを抜かしいい気になり、自分が使いこなせていないことを黙認していただけだったのです。

 だから、ここは素直になり、500円パターはカミさんに戻し、私は別のパターを物色することにしました。とりあえず、このキャメロンは奉納することにしました。

 恐るべし、カミさん。

4秒。

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 なるほど、その時間は4秒なのか。

京都大火編。

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 映画「るろうに剣心~京都大火編~」で登場した土屋太鳳さん。この映画、従来のもっちやりした時代劇の枠からかなりいろいろなモノがはみ出している。エンターテイメント、アクション、登場人物、物語の流れ、主人公の魅力などなど、時代劇である以上に何かどこか大きく深い。漫画が原作だということについて、イマドキの流れだと言ってしまえばそれまでですが、それにしても、他の漫画原作の実写映画化とは何かがどこか、トビヌケテイル。

 テレビで第2弾を観た段階で、今週、第3弾が放送されるわけですが、見終わったタイミングでその何かについて自分の中で一回整理したいと思っています。

 物語の中には刀を扱う侍と銃を扱う警察官が登場するのですが、混迷の時代、多くの血が流れた日本の歴史をロマンチックに描きつつも、第3弾でその物語がどこにたどり着くのかとても楽しみです。映画自体はヒットしたそうですから、多くの方が劇場でこの物語の魅力を大いに吸収されたという証です。しかし、銃を撃つ日本人の姿はしっくりこないのに対して、刀を握る日本人は絵になる。人生で1回だけモノホンの日本刀を握らせてもらった経験があるが、とても、映画のように振り回せる代物ではなかった。それに、日常生活であんな武器を常に腰にさしている人が生活していたという文化もおどろきである。どんな映画でも戦いのシーンが見事に作り出されているが、実際、その時代、刃を交えるというモノ同士の心境については、私には全く想像できない。まして、一方は刀、一方は銃で対戦する多くの軍勢がぶつかりあうシーンなども、実際、同じようなこと、それ以上のことがこの日本の国内いたるところで起こっていたと思うと、現代の日本とは凄まじい歴史の上に成立しているのだと思った。お互いの武器と武器で殺し合うということについて、まったく無縁の生活をしている現代、刀や銃は何に置き換わったのだろう、などと考えながら第2弾を観ていました。

 いまさらながらではありますが、第3弾、とても楽しみです。

 タケルさんも素敵だが、さすが、フジワラさんもその存在感を極めておられる。