2016年01月 アーカイブ

蚊が一匹。

 今週、木曜日の夕方頃から、左目の中に一匹の蚊が現れた。

 目を酷使している仕事だから、さらに、51歳という年齢を考慮すれば、このテの症状は仕方ないのかなと落ち込んだ。しかし、これまでこのテの目のトラブルは皆無だったので、とにかくこの蚊が仕事中に気になる。モニターの上を縦横無尽に飛び回る。何をするにも左目を開けている以上、上下左右、視線に合わせて飛び回る蚊野郎。

 念のため大事をとり、本日眼科さんに行って検査してもらったところ、やはり、老化による「飛蚊症」だと先生に診断された。結論はこの蚊を撃退する方法はないということ。薬も治療も不可。「そうか」と二度目の消沈。しかし、先生に明確に診断されたら、素人が何も対処できるはずもなく、1ヶ月後の再検査だけを予約して帰ってきました。

 この蚊を撃退する殺虫剤がほしい。

 眼科さんでは眼孔(瞳孔)を開くために目薬をされたので、今、左目だけでこのモニター画面を見ると、真っ白に見えてしまいます。よってこのブログは右目だけで書いているのですが、唯一、安心したことは、裸眼検査。眼科の裸眼検査は初めてなので、裸眼視力と眼圧を入念に検査してもらいました。

 眼科の裸眼(視力)検査では、前の人達の検査を見ているとどうやら「視力1.5」以上は計測していないらしい。それ以上は「よく見える」「正常」という結果になるのでしょう。でも、最近、私は老眼もあるし、毎日、目は酷使している仕事だから、裸眼視力も低下していたら、と心配していました。しかし、結果、1.5のCマークがクリアに見えましたので、検査してくださった先生も、「裸眼は問題ないですね。」と言ってくださり一安心でした。視力検査コーナーを終えて診察室横の椅子に座って待っているとき、さっき検査で見ていたボードとの距離は2倍以上あったのですが、さっき見た一番小さいCマークが見えましたから、裸眼はどうやら、以前のまま「ケニア人レベル」のようです。

 問題はこの一匹の蚊野郎です。

不屈の男。

 アンジェリーナ・ジョリー監督の「不屈の男 アンブロークン」という映画があるらしい。

 あらすじは、元五輪選手の主人公が太平洋戦争で赴き、洋上で墜落。飢えとサメの襲撃に耐えて47日間漂流し、その後、日本軍の捕虜となり理不尽な暴力を受ける。しかし、戦後はその暴力を許し、80歳で長野五輪の聖火ランナーに参加するという物語である。日本軍の捕虜虐待が描かれていることから、「反日的」という捉え方がされ、日本国内での配給・興行が検討されていたらしい。政治的な背景よりも、人間ドラマとしての和解をテーマと解釈し一部の芸術系の配給会社が単館で公開するらしい。

 情報化時代、世界がひとつになったと連呼していても、その情報はどこかで誰かが主観的な意図や理論理屈で選択しているのです。ビックデータが表層に漂う無味無臭の浮遊物だとしたら、情報の真価はどこにあるのだろうか?というビッククエスチョンが頭に浮かぶ。それは、大海を悠然と泳ぐクジラのように人知を避け、自由にどこかを回遊しているかもしれない。

 映画表現ひとつ、まだまだ、国境(文化圏)の目に見えない壁は高いのです。

糸の切れた凧。

 とにかく、糸(意図)の切れた凧は大空高く舞い上がる。

 僕は何事も出発地点の志しや狙いをすぐに忘れ暴走・迷走してしまう傾向が強い。悪癖であることは頭で理解していても、体は舞い上がる。いつも心に「初志貫徹」の四文字を掲げながら、その旗を掲げなら暴走してしまうのです。しかし、この年齢になり、何故?「目的が手段」に置き換わる瞬間に気づかないのか?「良かれ」と信じて試行錯誤を繰り返し、探究心だ!挑戦だ!と自分の心を高揚させながら、実はそんなのただの「空元気」であり「虚栄」だった実感。だから、凧はどこまで舞い上がるのです。

 風を受けて舞い上がるにしても、誰かがその糸をしっかり握っていてくれないと凧ではなく、ただのゴミ(浮遊物)です。その誰かこそが実は僕(人間)の一番大切な存在なのです。仮にその誰かを「親友」と呼ぶのなら、幸運にも僕にはその親友が3名いてくれる。いずれも昭和39年生まれの3匹の龍です。ほんとにありがたい存在。そんなことを実感する時、僕も誰かの「糸を握る誰か」であったらいいなぁと思います。

 いつもいつもキレのいい一刀両断をありがとう。

ウッドレース。

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 名称も知らず闇雲に検索するとこれがヒット。そうそう、欲しいのはこれ「ウッドレース」!

 こんなもの買って何をするのか? それは、チェスのコマを作りたいのです。チェスの腕前など大して強くないくせに、「チェス」というゲームを愛する気持ちが高い(無駄に過剰に)。強くなりたいという気持ちはあるものの、それよりも、とにかく自分で木を削ってコマを全部作りたい。そして、そのコマで誰かと勝負をしたいのです。勝っても負けてもいいのです。とにかくゲームが楽しいのです。

人脈硬化。

 企業組織に属していると「動脈硬化」ならぬ「人脈硬化」を発生しやすくなるらしい。

 インターネット(SNS)がその処方箋になると一見、捉えられがちだが、デジタルデータに対して人間の扁桃核(脳の一部)は情報源として捉えることができないという実験データがあり、どれだけ「世界と繋がてっています」という類の情報を文字やイメージで捉えようが、脳はそんなに単純な構造でははく、有益な情報とは認識しないらしい。結果、SNSの活況は「時間と通話料金の浪費」を生み、おいしいのはスマホメーカーと通信会社という構図があるとその報告者は警告している。まぁ、そこまで極端に神経質に捉えずとも、「誰かが便利だ」という言葉に倣うのは、「絆」を強くすると捉えられなくない側面もあるので、「信じるものは強し」と解釈も一理ある。しかし、情報源として、有益な情報として脳が反応していない以上、有益なネットワークではなく、実は「血管内の脂肪」を蓄積しているだけになっているとしたらネット情報に対して警戒する視点も必要かなと捉えています。そうなれば、企業組織に属している人だけが「人脈硬化」の対象ではなくなるのだから、やはり、健康管理は自己責任において、世の中の一見強そうな規範や通念を疑うこと(柔軟体操)から始めるべきなのです。

 さて、人脈が硬化するとどういう症状があるのでしょう?コミュニケーションが硬化しているということは、血液同様、円滑に潤滑に酸素が筋肉や臓器に行き渡らないという結果を招き、当然、諸機能が低下する。引いては壊死を免れない。これを人脈に適用すると、自分の存在価値や特質をいくらネットで言葉を重ね訴求しても伝わっていないことになる。結果、ギコチナイ関係が生まれ、健全なコミュニケーションが壊死し、「絆」だと信じていたモノが「脂肪」だったと知ることになりかねない。そして、いつしか孤立するという展開です。すでに、メディアの中で認知度の高い、つまり、メディアという山でわずかながら高い位置にいる人ならば、重力が作用し、勝手に情報は下がっていくが、フラットな平地の関係ならば、お互いの情報発信に重力が作用すれば、情報は当然下がる。この「メディアという山」の存在があればこそ、インターネットは有効なツールとして機能しているのだから、重力と自分の位置関係(あくまでもメディアの山のみのお話)を見誤ることは避けたい。

 「人脈硬化」は「勤力(筋力)低下」も誘発するらしいので、注意が必要です。

クリマ・クラフト・パーティー2016

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 来週の日曜日はここに、「集まろう」と思っています。楽しみです。

→クリマ・クラフト・パーティー2016

キャットウーマン。

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 「キャットウーマン」のスピンオフ企画もあるそうです。ぜひ!実現して頂きたい!!

スマホの機能イメージ。

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 イメージ写真や動画などの素材を提供している「アマナイメージ」さんの商品データです。公式ホームページはことちらです。

 「スマホ」デバイスの機能イメージ写真です。しっかり作っておられる魅力的な写真素材です。

魚釣り談義。

 昨晩、酒の席である方と「魚釣り談義」になった。

 その人の見解は、魚釣りとは自然の中でひとり、竿を出し、魚が釣れても釣れなくとも、水面を観ている時間や自然の音に耳を傾けることが一番大切であるという捉え方でした。仕事のストレスから心を解放させることが目的であるべきだから、魚釣りは気持ちをオフモードにして釣果など気にせず、ゆったりと対峙するべきだと。確かにその見解に共感できる部分は多い。しかし、私の魚釣りはそのスタイルの対極にあり、仲間達や知らない人達と同じフィールドで魚のサイズや数を競うことが楽しいと捉えていて、ゆったりまったりもいいが、あまり楽しいとは感じないという結論だった。趣味に対する考え方の相違だと言えばそれまでだが、僕の気質は今のところ、ゆったりまったりに心が高ぶらないのです。魚釣りひとつでもこのような違いが生じるのだから気質の違いは興味深い。

 この観点で一番気になるポイントは「仕事のストレス」です。私は別に仕事のストレスを解消したいから魚釣りをしているわけではなく、ビジネス書によく登場する「ストレス」の定義についてもあまり共感できない。手順が違うというか人間関係や仕事上のノルマなどを「負荷」と捉えてはいないのです。だから、魚釣りでストレスを解消するという手順・発想になりにくいのだと実感しました。ここの部分、冷静に自問しても「たてまえ」ではなく本質の部分なのです。

 確かに仕事上のトラブルや想定外のハプニング、自分の力不足ゆえの未熟ゆえの焦燥感や後悔は常につきまといますが、それは正確には「ストレス」ではなく、ただの問題点なのです。「いや、まったりのんびりした魚釣りもいいけど、釣り仲間同士の真剣勝負も楽しいですよ。」という心理の裏には「ストレス解消」に対する捉え方の違いがあり、酒の席でそこまで紐解き言及する必要もなく、曖昧にやり過ごしたが、その談義でより自分の気質が実感できました。楽しい「魚釣り談義」でした。

 今年は年頭から仕事に追われて、まだフィールドに行けていないのでイライラは蓄積していますが、さてこのイライラは「ストレス」なのかな?

フォースと共に。

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 第1話(4話)の公開から40年が経過し、現在第7話(7話)になる映画「スターウォーズ」。だから、フォースと共にあれというよりも、僕の人生が「スターウォーズと共にあった」となります。さすがに11歳の頃に第1話をリアルタイムで観てはいないが、この作品の誕生から現在に至るまで「宇宙映画=S.W.」というベーシックな部分は揺るがない。この「揺るがない」という捉え方には、その他のSF映画と比較してどこか何か「モノタリナイ」という捉え方のニュアンスが含まれるのですが、正直、好きか嫌いかで判断すれば、S.W.以外に好きな作品は多くあり、嫌いか?となれば絶対的な存在感がそれを許さないとう不思議な作品。まして、定番などと評価することさえもできない。好き嫌いという判断で言えば、「嫌いになどなれるはずのない作品」なのである。だから、「共にあった」という捉え方になります。

 昨晩、第5話をDVDで観たが、その気持ちは当然揺るぎようがないほどの圧倒的・絶対的存在でした。その不動の鉱石、シンボル、ダイヤモンドがこちらの「ヨーダ氏」。この物語の中核的存在です。この存在を描いている映画は少ないように感じますし、よくぞ「ヨーダ氏」を生み出したとさえ、なのです。人間のイマジネーションが生み出せる成果物の中でもこの「ヨーダ氏」は飛び抜けて至高で特別な存在なのです。

良いのか悪いのか?

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 「人相が悪い」「目つきが悪い」とよく人から言われる。しかし、本人はいたってフラット、むしろ、悪意などさらさらない状態にもかかわらず、外見でよく「キツイ」「キビシイソウ」「怒っている」という印象を指摘されます。あながち本質の部分も、全体的に比較すればその傾向になのかなと反省・後悔しつつも、なかなか、本質を変えるのは難しいと捉えています。

 先日、風呂上りにテレビを観ていると、カミさんが笑いながらツイッターで発見した上記の写真を私に見せた。何故、笑っているのか尋ねると、この犬の写真に今のテレビを見ていた表情がそっくりだと言う。人の表情を犬に例えるのはいかなものかと感じつつ、改めてこの目つきの悪いハスキーの表情を見ると、まぁ、確かに目つきは悪いが、個人的にカッコイイという捉え方もできなくはないと感じた。

 さて、この犬の表情に例えられた人間本人としては、「良し」なのか「悪し」なのか解釈に迷う。

進化する「いいね」。

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 よくある「いいね機能」がグラフィカルに進化するらしい。これらがそのランクをグラフィックボタンで差別化させているとのこと。言葉の限界を絵がイメージが超えたという捉えています。楽しい取り組みです。

ポジティブシンキングな都道府県。

 そのランキング調査は、インターネットにより全国の20歳~59歳の男女1,457人(各都道府県から31人ずつ)を対象に行われたらしい。調査時期は2015年12月。という内容のメルマガが到着していた。

 ポジティブシンキングというテーマに対して具体的にどのような調査がされたのか?も興味があるが、各都道府県の31人をどのように選定したのか?という部分にも興味が沸いた。その調査の結果、最もポジティブシンキングな都道府県は「鹿児島県」だったらしいが、この結果を、この情報に対してどのような反応をするべきなのだろうか。以前、吹田から長浜に引っ越してきた時、新聞に「日本一住みやすい街 長浜」という情報を知り、同様の疑問が沸いた。人口とインフラの関係からその「住みやすさ基準」は算出されいたという補足説明があったが、それが直接「住みやすさ」と断定してもいいものかという疑問が残った。今回の「ポジティブシンキング」という基準についても多種多様で多面的な捉え方ができるだろうし、わずか31人の調査でこのようなネットの記事として情報として公開してもいいものか?と感じた。

 テレビの視聴率、国民調査、読者アンケートなどの物理定数は常に「100%」でモノゴトを査定する。この捉え方は選挙の投票にも作用し、票さえ集めればそれが正解であるという多数決心理の真骨頂である。確かに背景・根拠は曖昧でも、数値で比較すれば一目瞭然だから、意図する成果に数値がなびくように仕組みを整えれば既成事実は完成する。もしも、世の中の情報がこの類の既成事実ばかりだとしたら、最初にあるのは着想や想いではなく、そう仕込みたいという情報収集が優先されているような本末転倒な仕組みが横行しているのではと捉えている。

 つまり、世の中の順回転が、好循環だと捉え鵜呑みにしていることにすべて誰かの意図が反映されているとしら、それを見極めてからでないと、自分の行動の指針にはならないのかなという危機感である。この思考パターンはネガティブシンキング傾向にあるとしていも、一旦、冷静にフラットに情報を精査する必要があると思います。

 スマートフォンのスマートは「賢い」という意味が込められているが、私は未だにガラケーを仕事に活用している。確かに多機能なこのデバイスは「賢い」のだが、「便利」だとは感じられない。これは固執した捉え方で私が「賢くない」から「賢い」ツールに嫉妬しているのだろうとモヤモヤしていることは正直な心情です。しかし、とどのつまり、ツール選びに「賢さ」という利点は曖昧過ぎて、ポジティブシンキングになれないのです。世の中の大きな潮流に対して意固地になり、天邪鬼な判断ばかり続けているといつか足元をすくわれることになるだろうとは警戒しいますが、最後の最後で五臓六腑に落ちこてこないモノは消化できないのが生物のサガと、無粋な言い訳で自分を守っています。

 さて、滋賀県は何位だったのだろう?

思考力と論理力。

 普段、何気に使っている「思考力と論理力」という言葉。「仕事が忙しくて思考力が低下する。」や、「状況が複雑すぎて私の論理力では対応できません。」などの場面で使われます。面と向かって思考力や論理力が弱いとか安易に言葉にしてしまうと「お前は何様なんだ!」「お前の思考力はさぞ素晴らしいのだろうが、」などとコミュニケーションが破綻してしまいますから注意。例えそう心で思ったとしてもあまり言葉にしない方が無難でもあるデリケートなゾーンです。

 逆に相手からの大切な質問や状況説明をうわの空で聞いてしまい、十分に理解できず曖昧で無気力な返事を返してから、「ヤバイ!いい加減な返答をしてしまった!」「恐らく、今の返信に失望しているだろうなぁ、なんとか挽回せねば!」などと後手に回るケースもしばしば。しかし、そもそも「思考力と論理力」ってどうして鍛えればいいのか、いや、それ以前に「思考力と論理力」ってどんな「能力」なのか?という疑問に最近、ぶちあたった。

 その言葉を学校で習ってからすでに確実に30年以上経過しているわけですが、さて、「思考力」とは具体的にどんな能力なのだろう?「論理力」とはどういうケースで機能・作用しているのだろう?という疑問に対して自問したところ、曖昧で抽象的な結論・解答しか出てこなかったことに愕然とした。

 日頃から会話で普通に使ったり、企画書の資料作成には使っている言葉なのに。そこで、自分自身の「思考力」と「論理力」をテストしようとある問題集を購入した。その中の問題を一部紹介します。「思考力」と「論理力」の問題です。

 いずれも2分以内に正解が出れば、IQ(知能指数)は130以上ということでした。まぁ、時間制限はテスト問題ゆえの制約ということで気にせず、挑戦してみました。結果、2分ぐらいはかかってしまいましたから、IQの基準から言えば130に少し足りないという結果でした。ちなみにIQ100が絶対的な平均値であり130という数値は平均値りも30%高いゾーンだということ。勿論、年齢差があるのですが、「IQ=130の人口は全人類の0.5%程度」という検索結果もありました。しかし、IQは学力とは違う能力なので、あまり気にしなくてもいいと言うものの、テスト問題に登場してきた基準だけに、モチベーションの根拠にはなりました。

 さて、問題はこうです。問題集から抜粋します。

 まず、「思考力テスト」です。

 ここに二つの砂時計があります。ひとつは7分用、もうひとつは11分用です。この二つを使って27分を計ってください。

 という問題でした。

 二つ目、「論理力テスト」はこんな問題でした。

 「二人のうそつきは誰だ?」という問題で、下記の6名の言葉から犯人を推理する問題です。条件として二人の犯人は嘘をついている。それ以外の4名のうち2名はいいかげんなことをいう調子者で嘘も本当も適当に言っている。そして、残りの2名は本当のことを言っているという前提です。6名の言葉から犯人を推理してくださいという問題でした。

サナエ 「私かマサトのどちらかが犯人ということね」

カズキ 「ボクは犯人だ。だから知っている!ショウは犯人じゃないんだ」

マナ  「カズキは犯人だわ」

ユイ  「犯人は男女1人ずつよ!」

ショウ 「ユイは犯人じゃない」

マサト 「ボクが犯人だとしたらユイも犯人ということになってしまよ」

さて、誰と誰が犯人でしょう?

 しかし、気まぐれにコンビニで買った¥580の本でこれでだけ楽しめるのですから、魅力的で有益な書籍を企画して商品として制作するって大変な作業だと思います。

 正解よりも、この問題を解きながら「思考力」と「論理力」を再認識し実感できたことにとても価値を感じました。

米原の湖畔より

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 本日の琵琶湖。米原付近の湖岸道路より打ち合わせの合間に撮影。今日は雪の予報だったので曇天になり雪がチラつくのかなと思いきや、晴天。今年の冬はほんとに暖かいです。この画角には写っていませんが、越冬中のマガモやコハクチョウも浅瀬で水中の藻を啄んでいました。

初心者になろう。今年こそ。

 「初心者になろう。今年こそ。」

 このフレーズはグーグルからのメッセージなのですが、とても心に響きました。どう響いたのかについてですが、このメッセージを生み出したつくり手、ライターなのかデザイナーなのかエンジニアなのかは分かりませんが、「今年こそ、新しいことに挑戦しよう!」ではなく、「初心者」という主人公設定がにくい、そして、旨い。じんわりとまったりと共感してしまいました。

 何かに挑戦する以上、かならず、最初は皆初心者ですから、その時のワクワク・ドキドキを忘れることなく、挑戦・探求し続けている方から生み出されたメッセージだと捉えました。小さな達成を繰り返したり、大きな偉業を達成したりすると、まわりからの高い評価を一回でも受け、人間誰しも、プライドが生まれます。そのプライドは努力や試行錯誤の結果であり、挑戦したことの証なのですが、一回生まれたプライドは挑戦意欲や探究心の活性化を抑制するデメリットもあるようです。知性・知識があるゆえの理論・理屈が行動を鈍化・退化させるというパターンです。

 私の場合、長年(28年)、デザインの仕事に取り組んできましたから、成功も失敗も多種多様です。失敗した時は後悔や反省を繰り返し、次の行動への活力に変換しやすし反面、達成感や成功体験はどうしてもその余韻に浸ってしまい、次の行動への躊躇を誘発します。年齢を重ねるごとにこの傾向は強くなり、体力・気力の老化に同期して、いつのまにか躊躇の塊になる。当然、新しいことへの挑戦もなく、まして、「初心者になる。」という気概は不必要だと判断してしまうのです。経験値があればあるほど挑戦や変化が煩わしくなるのでしょう。私のような年齢(51歳)に対して、そういう気持ちを根底から奮起させてくれる素晴らしいメッセーだと感じました。

 やっぱ、Googleはただ、考えているだけじゃなく、行動(発信)し続けている素敵な企業です。

こんなキャラかな。

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 現在、構想している物語の主人公の二人イメージです。もう少し年齢や性格を仕草や表情で微調整して仕上げようと思っています。さて、このイメージが大陸に響くか否か?

ゴリラ君

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 なかなか、楽しいビジュアルです。いずれ人間以外の生物やAIとコミュニケーションできる時代が来るのでしょうし、そうなった時、人間はどうあるべきなのかな?

十三の街並み

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 昨年の暮れ、十三のクライアントさんで打ち合わせをするため、阪急の十三駅で降り、徒歩で本社までいく途中に撮影した街並みの写真です。以前、上海に仕事で行った時、この風景に似た街並みを見た。その時の記憶がふっと蘇り、懐かしさを感じて撮影しました。現代、日本の街並みは千差万別・多種多様です。その時代時代にいろいろな家のコンセプトがあり、建築手法も様々な変遷を経て、結果、現代の日本にの街並みには多様な佇まいがあり、同様に様々なライフスタイルが混在していると思います。人間の身なり・風体・ふるまいにもその作用あり、それらは社会全体の潮流だとも言えます。トレンド・流行について、私のようなデザインの仕事をしている人間は敏感にならなければならないのですが、こと「衣食住」に無頓着なため、恐らくその影響がデザインの仕事にも少なからず作用しているのでしょう。改めてこの街並みの写真を見ながらそんなことを考えています。

 以前、ある女性クリエーターに「スギノさんはなんとなく日本人らしくない」と言われたことがある。その時、その言葉を深く考えることもなく、気にもとめていなかったが、自身の中にある思考パターンや知識・経験値・趣味趣向の一枚裏にある気質が作用し、その類の言動や振る舞いやモノゴシとして露呈した結果なのでしょう。その評価が良いのか悪いのか?有益なのか無益なのか、自身は判断できませんが、「日本人なのに日本人らしくない」という評価をどう捉えるべきなのかと、それからよく考えるようになりました。

 脳の思考パターンには「左脳タイプ」と「右脳タイプ」があり、それぞれ別の思考パターンがあるという情報をよく書籍で読みますが、最近読んだ書籍の仮説には「上層」と「下層」があり、上層からは理性の信号が出ていて、下層からは本能の信号が出ていると書かれていました。五感からの情報をこの二つの層からの信号で判断し、有益無益・趣味趣向・正誤に分けて思考を整理しているらしい。デザインの仕事は創造的な思考が主軸だと捉えているので、自身、「右脳・下層連携型」なのだと分析しています。しかし、そう考える反面、自由奔放な衝動・情動・着想でさえ、上層からの理性信号にほどよく抑制され、微妙なバランス感覚を維持しようとする作用があるのです。致命的な判断を下すことなく、安定した仕事を展開できているということは、思考と行動をしっかり二極で捉えることができているのだと捉えています。絵や写真でもシンメトリーな構図に人間は「安定感」を感じるというセオリーがありますが、その傾向も無意識に二極的に捉えた脳からの信号の作用なのでしょう。

 常日頃、「攻撃は最大の防御だ」と自分に命じ貪欲に探求しつつ、実は「防御」前提の「攻撃」となり、自分が思っているほど「思い切った思考や行動」になっていないのかもしれません。「ブレーキ」と「アクセル」の制御で捉えれば、典型的な「安全運転」なのかもしれません。

冬の奥琵琶湖

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 年末、奥琵琶湖のクライアントさんのところへ撮影と打ち合わせに行く途中の琵琶湖です。琵琶湖には四季折々素敵な風景がたくさんあるのですが、特に奥琵琶湖のこの風景は素敵です。「奥琵琶湖は北欧の風景に似ている」という言葉を聞いたことがありますが、自分は北欧には行ったことがありませんから、その実感がありません。しかし、その言葉が実際に北欧に行った人が奥琵琶湖の風景を見て得た実感だとしたら、その「素敵さ」はあながち、なのだと捉えています。特に年間を通じて奥琵琶湖には素敵な表情が多いのですが、特に冬の季節は好きな表情が多いです。

がちゃこん君パネル

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 年末に、近江鉄道さんの彦根駅と八日市駅と近江八幡駅に納品した「がちゃこん君パネル」です。パネル面は地元の看板屋さんにカラー出力してアルミの複合板に貼りこんで頂き仕上げていただきました。それを切り抜いて裏面に自立用の木枠を接着しました。3体制作するのにのべ3日間ほどかかりました。平面やデジタルの仕事も楽しいですが、モノヅクリも楽しいです。

異能であれ。

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 つくり手である以上、いい仕事がしたい。この想いはデザインの仕事に従事する前から自分の中にありました。それは自己意識であり自我と呼ばれているゾーンの中。言葉にすればそのゾーンを「気質」「気性」「本質」と呼べるのだと思います。

 たとえば、医師ならば「病気の人を健康にしたい」「健康を害している人がいれば知識と技術で問題を解消したい」という本質が仕事に作用して、健康を害している人を治療することが成果。ラーメン屋さんならば、自分の味覚を研ぎ澄まし、素材や調理方法への研究・探求・追求を重ね、お客様から「美味い!」という評価を得るために精進する。これが「いい仕事」を生み出す誠実な動機です。この本質がなんらかの原因で濁ったり低下すれば当然、必然的に「いい仕事」を生み出すことは難しくなる。48歳頃からこんなこを考えるようになりました。特筆するまでもなく、当然のことであり、基本中の基本なのですが、意識を都度改めなければ、自分勝手で安易な手順に陥ることが私の場合、非常に多く、その結果、多くの失敗やトラブルを引き寄せてきた経験もこの再認識への動機になっているのです。真剣に誠実にデザインの仕事に向き合っているつもりでも、どこか違和感がある。「こんなはずではない」「もっと良いデザインができるはずなのに」「衝動・情動に任せた判断による不本意な成果、ダメだダメだ!」など、自分の不甲斐なさや力不足を嘆きながら、やはり、小手先のテクニックや中途半端なマネゴトで仕上げてしまう弱さ。世の中の声、他人の評価に過剰に警戒しなければならない度量の小ささ。慎重さ丁寧さを欠き、浮世の流れ(情報)に忙殺される緩さ。これらを一括払拭し、正しい成果を生み出せるようにと試行錯誤を繰り返しした2015年でした。そんな中、生産的で創造的な光陰が見えたとすれば、それは基本的な本質に立ち返り思考を整理することでした。

 具体的には「自分がどんな人間で、何を本質的に求めているのか?」という自己分析・自己評価です。その分析と評価に対して3つドアがあります。

 ひとつ目は、「日本語を正しく捉え、正しく書き出す」ことです。

 デザインの仕事では、絵的な表現やバランスが優先される傾向にあり、本来、絵的(イメージ)な表現と言葉(文字・文章)の組み合わせで成立させないといけないのがデザインの仕事であるにもかかわらず、絵的な表現に偏向するのです。特に私自身、美術的な素養が強いため、デザインの仕事においても絵的な解釈、絵的な思考、絵的な表現に依存し、言葉を疎かにする傾向がありました。常にどこかでその違和感を感じつつも、自分は絵的なアプローチさえしていれば、絵的な表現に特化していればデザインの仕事を成立させることができるという奢りがあったのです。28年間のデザインの仕事の様々な場面をしっかり振り返ると、その悪癖が成果を低下・鈍化させていたと気づきました。日本語を疎かにしてきた結果、表現としての自分の言葉が淀み濁る以前に、書籍や資料を読み取り、自分の中に入れる場面でもその悪影響があったのです。つまり、その影響はしっかり文章を読んで理解していないという緩さに繋がるのです。長年のデザインの仕事のスタイルやルーティーン(仕事の進め方)にこの中途半端な奢りがあったために、本来、イメージと言葉をバランス良く調和させなければいけないのがデザインの仕事であるにもかかわらず、偏った思考から生まれる偏った行動(制作)の蓄積・連続だったのです。それを強く意識できた機会は中国(上海)の仕事でした。上海のクリエーターと仕事をしながら、改めて自分の日本語力の低さを痛感したのです。しかし、自身の日本語力の弱さに気づき、日本語力を充実させたい高めたいと決意しても、インスタントな小手先の探求ではこれまでのワンパターンの繰り返しです。この年齢(51歳)になってそのことに気がつけたことはとても幸運だったにせよ、日本語に正しく真摯に向き合い、適正な能力レベルに到達するには、諦めず時間を十分にかけてじっくり誠実に正対することしかなかったのです。近道はないのです。そして、自分なりに日本語に正対し3年間、鱗はすべてはげ落ち、ようやく鮮度の高い鉱脈にたどり着き、小さな芽を少しづつ実感できるようになりました。でも、まだ幼体の状態ですから、しっかり育てていく必要があります。

 日本人として生まれた以上、日本語の意味や意義を適正に捉え、仕事に活用できるようにすること。地味でタフな取り組みですが、実は情報化が進化するこの現代だからこそ、最も大切なことなのだと捉えています。

 二つ目は「つくり手」として仕事を展開する以上、「手」が生み出すモノにとことんこだわるということです。デジタルツールの進化は今年もさらに加速するでしょう。より便利により多機能になる反面、私の「手」はどんどん退化しているような気がしています。当然、身体機能や筋肉・感覚の退化・老化は止められないでしょうが、デジタル全盛時代だからこそ、「自分の手」が何を生み出せるのか?を様々な仕事の場面で問いながら、こだわる姿勢を貫くことが重要だと捉えています。

 そして、三つ目は「五感」です。古今東西のあらゆる情報の中に存在している(生きている)一人の人間である以上、情報は2つのゾーンに分かれます。ひとつは「自分の内側」です。それは物理的な身体の内側であり、「脳」「心」「魂」と呼んでいるゾーンです。そしてもうひとつはその外側のすべてのゾーンです。日常生活領域からインターネットを介して世界の領域。過去から蓄積された、あらゆる歴史や文化の万象・万物らがすべて「自分の外側」です。この二つのゾーンを情報が行き来させ交換・変換させる機能は「五感」しかありません。ここの機能・能力・精度次第で、外側からインプットされる情報も、内側からアウトプットされる情報も大きな作用・影響を受けるということです。視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚に意識を集中し、外側から内側へ、内側から外側へより適正な信号を生み出したい。これが三つ目のドアです。

 その上で、それらを包括した上で、「つくり手として、異能であれ。」という言葉を年賀状に記しました。異能とは「異才」です。常に適正な「共鳴と孤立」の振幅を繰り返し、自分の中の「異能」を高めていきたいという狙いを2016年に明記しました。

 さて、今、この時からそのスイッチを入れるわけです。この年末、どんな成果を生み出せているかが非常に楽しみなのです。