異能であれ。

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 つくり手である以上、いい仕事がしたい。この想いはデザインの仕事に従事する前から自分の中にありました。それは自己意識であり自我と呼ばれているゾーンの中。言葉にすればそのゾーンを「気質」「気性」「本質」と呼べるのだと思います。

 たとえば、医師ならば「病気の人を健康にしたい」「健康を害している人がいれば知識と技術で問題を解消したい」という本質が仕事に作用して、健康を害している人を治療することが成果。ラーメン屋さんならば、自分の味覚を研ぎ澄まし、素材や調理方法への研究・探求・追求を重ね、お客様から「美味い!」という評価を得るために精進する。これが「いい仕事」を生み出す誠実な動機です。この本質がなんらかの原因で濁ったり低下すれば当然、必然的に「いい仕事」を生み出すことは難しくなる。48歳頃からこんなこを考えるようになりました。特筆するまでもなく、当然のことであり、基本中の基本なのですが、意識を都度改めなければ、自分勝手で安易な手順に陥ることが私の場合、非常に多く、その結果、多くの失敗やトラブルを引き寄せてきた経験もこの再認識への動機になっているのです。真剣に誠実にデザインの仕事に向き合っているつもりでも、どこか違和感がある。「こんなはずではない」「もっと良いデザインができるはずなのに」「衝動・情動に任せた判断による不本意な成果、ダメだダメだ!」など、自分の不甲斐なさや力不足を嘆きながら、やはり、小手先のテクニックや中途半端なマネゴトで仕上げてしまう弱さ。世の中の声、他人の評価に過剰に警戒しなければならない度量の小ささ。慎重さ丁寧さを欠き、浮世の流れ(情報)に忙殺される緩さ。これらを一括払拭し、正しい成果を生み出せるようにと試行錯誤を繰り返しした2015年でした。そんな中、生産的で創造的な光陰が見えたとすれば、それは基本的な本質に立ち返り思考を整理することでした。

 具体的には「自分がどんな人間で、何を本質的に求めているのか?」という自己分析・自己評価です。その分析と評価に対して3つドアがあります。

 ひとつ目は、「日本語を正しく捉え、正しく書き出す」ことです。

 デザインの仕事では、絵的な表現やバランスが優先される傾向にあり、本来、絵的(イメージ)な表現と言葉(文字・文章)の組み合わせで成立させないといけないのがデザインの仕事であるにもかかわらず、絵的な表現に偏向するのです。特に私自身、美術的な素養が強いため、デザインの仕事においても絵的な解釈、絵的な思考、絵的な表現に依存し、言葉を疎かにする傾向がありました。常にどこかでその違和感を感じつつも、自分は絵的なアプローチさえしていれば、絵的な表現に特化していればデザインの仕事を成立させることができるという奢りがあったのです。28年間のデザインの仕事の様々な場面をしっかり振り返ると、その悪癖が成果を低下・鈍化させていたと気づきました。日本語を疎かにしてきた結果、表現としての自分の言葉が淀み濁る以前に、書籍や資料を読み取り、自分の中に入れる場面でもその悪影響があったのです。つまり、その影響はしっかり文章を読んで理解していないという緩さに繋がるのです。長年のデザインの仕事のスタイルやルーティーン(仕事の進め方)にこの中途半端な奢りがあったために、本来、イメージと言葉をバランス良く調和させなければいけないのがデザインの仕事であるにもかかわらず、偏った思考から生まれる偏った行動(制作)の蓄積・連続だったのです。それを強く意識できた機会は中国(上海)の仕事でした。上海のクリエーターと仕事をしながら、改めて自分の日本語力の低さを痛感したのです。しかし、自身の日本語力の弱さに気づき、日本語力を充実させたい高めたいと決意しても、インスタントな小手先の探求ではこれまでのワンパターンの繰り返しです。この年齢(51歳)になってそのことに気がつけたことはとても幸運だったにせよ、日本語に正しく真摯に向き合い、適正な能力レベルに到達するには、諦めず時間を十分にかけてじっくり誠実に正対することしかなかったのです。近道はないのです。そして、自分なりに日本語に正対し3年間、鱗はすべてはげ落ち、ようやく鮮度の高い鉱脈にたどり着き、小さな芽を少しづつ実感できるようになりました。でも、まだ幼体の状態ですから、しっかり育てていく必要があります。

 日本人として生まれた以上、日本語の意味や意義を適正に捉え、仕事に活用できるようにすること。地味でタフな取り組みですが、実は情報化が進化するこの現代だからこそ、最も大切なことなのだと捉えています。

 二つ目は「つくり手」として仕事を展開する以上、「手」が生み出すモノにとことんこだわるということです。デジタルツールの進化は今年もさらに加速するでしょう。より便利により多機能になる反面、私の「手」はどんどん退化しているような気がしています。当然、身体機能や筋肉・感覚の退化・老化は止められないでしょうが、デジタル全盛時代だからこそ、「自分の手」が何を生み出せるのか?を様々な仕事の場面で問いながら、こだわる姿勢を貫くことが重要だと捉えています。

 そして、三つ目は「五感」です。古今東西のあらゆる情報の中に存在している(生きている)一人の人間である以上、情報は2つのゾーンに分かれます。ひとつは「自分の内側」です。それは物理的な身体の内側であり、「脳」「心」「魂」と呼んでいるゾーンです。そしてもうひとつはその外側のすべてのゾーンです。日常生活領域からインターネットを介して世界の領域。過去から蓄積された、あらゆる歴史や文化の万象・万物らがすべて「自分の外側」です。この二つのゾーンを情報が行き来させ交換・変換させる機能は「五感」しかありません。ここの機能・能力・精度次第で、外側からインプットされる情報も、内側からアウトプットされる情報も大きな作用・影響を受けるということです。視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚に意識を集中し、外側から内側へ、内側から外側へより適正な信号を生み出したい。これが三つ目のドアです。

 その上で、それらを包括した上で、「つくり手として、異能であれ。」という言葉を年賀状に記しました。異能とは「異才」です。常に適正な「共鳴と孤立」の振幅を繰り返し、自分の中の「異能」を高めていきたいという狙いを2016年に明記しました。

 さて、今、この時からそのスイッチを入れるわけです。この年末、どんな成果を生み出せているかが非常に楽しみなのです。