翻訳か。

 「翻訳」か。

 僕の文章は何故?乱雑なのかとずっと考えてきました。考えてきたというよりも、悩んできました。話をするように書けないのは、何故?と。

 例えば、デザインの仕事で打ち合わせをする。チラシを制作するために、内容や主旨の説明をお客様に聞いた上で、いろいろ質問をします。内容や主旨について知らない分野であれば、予め予備知識も用意していきますが、それらは一般教養レベルでお客様との打ち合わせの潤滑油程度。お客様から聞く情報や資料を確認して、始めて充分な情報を得ることができるのです。その際、原稿と合わせて大切なのが情報の「優先順位」です。

 多くの情報の中から優先順位を確認しなければ、レイアウト(紙面づくり)において、的を得たデザインにならないからです。重要な情報を軸に他の情報と合わせて、優先順位を確認することで、紙面づくりの設計が円滑になり、さらに、強調する部分や印象的なデザイン処理を施す部分が明確になります。

 当然、原稿と合わせて、説明を聞く中で、「イメージ」についての情報交換もします。具体的なテーマやモチーフなどについても、その場でしっかり質問しておく必要があります。特に商品の魅力を訴求する上で、この「イメージ」をしっかりお客様と共有する必要があるのです。

 そこで、「原稿」・「イメージ」がチラシの材料として適正かを頭の中で整理するのですが、ここで、言葉をイメージに変換したり、逆にイメージを言葉に変換する作業を行います。長年、この作業を繰り返してきましたから、変換作業など朝飯前だと高をくくっていました。変換する際、自分の中の基準にそれなりの自信があったからです。それは過去の経験値や他者からの評価をベースに積み上げた価値基準であり判断テクニックだったのです。しかし、最近、それが大きく揺らぎました。積み上げたブロックが地震で崩れた感覚です。

 この「揺れ」はけっこう根本的な「崩れ」になりました。

 その地震の後、再構築の兆しが見えたきっかけがある書籍の中の言葉でした。

 「話言葉(思考)を書き言葉(文章)に翻訳する。」というアドバイスでした。

 これまでそのような感覚が今まで皆無だったため、大きな鱗が落ちた気分でした。まだ、気づきだけで、具体的に翻訳技術を習得できたわけではりませんが、この気づきが仕事にどう作用するのかとても期待しています。犬も歩けば棒にあたるのです。ありがたいありがたい。これを機会に揺れに強い耐震性を獲得したいものです。