2016年03月 アーカイブ

水がテーマ。

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 テレビドラマで「精霊の守り人」を知り、コミックスを購入しました。

 原作者が上橋菜穂子さんで、原画がなんと藤原カムイさん!

 藤原カムイさんの他の作品は大好きだっただけに、「ああ、こういう風につながるのか」と妙なマッチングにびっくりしました。コミックスを読んでから、上橋さんの小説を入手しようと思っています。

 コミックスの冒頭に原画を担当された藤原カムイさんのコメントがあった。この作品のコミック化の依頼があったときは、この仕事を引き受けるか受けないか悩んでおられたそうです。しかし、原作をしっかりと読み、この物語の根底にある「水」というテーマの存在を知り、自分の中のテーマと一致したそうです。そして、原画の担当を快諾されたそうです。

 「水」というテーマをカムイさんが以前からもっておられたことを知り、壮大な物語にはしっかりとした揺るがないテーマがあることを改めて実感した。多くの人の心に指示される優れた物語とは、大く深いテーマの存在が不可欠なんです。その世界観がコミックスになり、アニメになり、テレビドラマになるというこの普遍の好循環。優れた物語を創作するつくり手の条件とは、その人の中に存在しているテーマと深い関係性があるのです。それは植物の種のようなモノで、誰の心の中にもあるが、何かを生み出しつくらなければ発芽しない。種なんだから芽を出すためには、やはり「水」が必要なんです。どこか、「人」と「テーマ」は「水」と「種」のような関係なんでしょう。

 さて、自分の中にはどんなテーマが流れているのでしょう?

 どうしたらそれを掬い上げる、物語を生み出すことができるのでしょう?

 もし、何も流れていないとしたら、つくり手としては失格なんだろう。

 このテーマ探し、誰の助けも借りることはできない。

 意識して探すモノでもないのかもしれないし、

 さりとて、追えば得られるモノでもなく、待てば手の中に落ちてくるモノでもなさそうです。

 とにかく、つくらねば。ただ、つくり続けることしでしかテーマは探せないような気がします。

水準器。

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 これほどまでにデジタルデータ優勢の時代、水平を確かめるのは小さな水泡。

 人の心もこの水準器のような水平さを確かめるツールがあればいいのに。

バルサ

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 昨晩、綾瀬はるかちゃんの「精霊の守り人」というドラマの第1回目を観た。優しいクローン役から一転、このヒロイン役には仰天しきりである。NHKが創り上げたファンタジー、この第一印象から大河ドラマの二番煎じかなと思いきや、第1回目を見終わって感じることは、かなりの「良い違和感」と「タフな物語」だと期待にひとり膨張している。

 「良い違和感」とは、少し、曖昧で独創的な舞台物語の設定をしているのにも関わらず、登場人物が生々しく、逞しいという印象で、違和感という表現は決して適正ではないかもしれないが、他に適正な例えが浮かばないぐらい「良い何か」を今後の展開に期待している。そんな物語の始まりだったからだ。

 「タフな物語」とは、精霊の設定である。「精霊」と言われて、「守り人」と言われて、最初に連想したのが、やはり、空想の世界の産物で、非現実的な夢物語で終始物語が進みそう?という不安が浮かんでしまうのだが、実際、1時間第1話を観た感覚では、それぞれの主要登場人物がこの物語の舞台設定の中で、それぞれの思惑を抱え生きているという、その「生き方」に共感を覚えたからだ。これは観る人のイマジネーションとコンセントレーションに依存する部分かもしれないが、「綾瀬はるかちゃん主演だから」とか、「またまた、藤原さんが新しいヒール役で怪演の予感があるから」という物語のパーツの部分ではなく、「精霊を守る」という物語の奥深い、分厚い骨太のメッセージを感じられ、その部分がイマジネーションとコンセントレーションを強く刺激したのだ。

 物語を紡ぐ上で、そのベースとなる設定や登場人物の設定はさることながら、経済観念や精神的な通念・常識・セオリーがとても大切である。何故?つくり手はこの設定を選択し、このような状況を生み出したのか?それを紐解くコマが主人公であり脇を固める登場人物である。

 「精霊の守り人」で検索すると、どうやら原作はマンガ作品だったようで、この番組を見るきっかけが
新聞の数行の記事だけだっただけに、それだけの情報で、「綾瀬はるかちゃん主演の新ドラマ」という部分だけで食いつき、出会えたわけですが、一度、この原作も入手してみたいと思っています。

 飛び道具が発明される前、火器が開発される以前、最強の武器は「槍」だった。刀やナイフと比較して、手にあまらない、一人の人間が制御できる最強の武器である。その達人とくれば、必然的に時代背景もおぼろげに見えてくるし、刺客の武器や武術を観た上で、この物語に蠢く悪とは、さて、どこまで生粋の悪として展開していくのだろう?という期待が膨らむ。まして、その俳優が藤原さんである。

 あと21話。かなり期待は大きい。

表情を描く。

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 芸大の頃、たくさんの魅力的な人に出会った。美術学部だったので、当然、自分の絵に対してプライドを持っている人が多かった。たかだか18歳では技術や知識は充分ではないが、とにかくプライドのある人が多かった。ある男が講義中に私がノートに描いていた絵を見てこんな言葉をくれた。

 「表情を描くのが上手いな」と。

 大した経験もない、ただ、好きな絵だけを描いてきただけなのに、リスペクトしている男からのこの言葉は胸に染み込み、心の中に響いた。その時から、私は「人間の表情?」について改めて考えるようになった。

 と同時に、この大学を選んだことに無類の喜びを感じていた。

 さて、人間の表情を描くというテクニック。自然や生物やオブストラクトのようなスタイルや奥義がない。昨今、「生き生きした主人公を描くテクニック」などという類のマンガテクニックの指南書を見かけたりするが、人間の喜怒哀楽は千差万別であり、怖い顔をしていても心情は悲哀であったり、爆笑していても怒り心頭という状況もある。表情を描くということは、表面的なテクニックではなく、モチーフと誠実に向き合い、ダイレクトに同期しなければならない。

 リスペクトしていた男の描く絵はとにかく「存在感のある上手さ」があった。しっかり油絵と向き合い、多くの時間を費やしてきたことが一目瞭然で、よく、彼が描く後ろにタチ、眺めていた。私など、芸大に入学して油絵セットを初めて購入し、ピカピカの道具で油絵の実習にのぞんでいるレベル。一方、彼の道具箱には見たこともないような種類の絵の具やオイルが無造作に入っていて、パレットなど、油絵の具が何層にも重なり硬化し、不思議な一枚の絵のようだった。彼から見れば私など、ヒヨコにもなれない卵ちゃんだったころだろう。

 しかし、そんな彼からの改めての言葉だったため、ただただ、嬉しかった。

 改めて「表情を描く」とは?

 「あなたも絵画を始めよう!」「あなたもイラストを!」「あなたもマンガを!」という類のテクニック本には一様、スタイルや形式が手順として掲載されいる。画面を十字に四分割してアウトラインを引き、モチーフを中心に置いて、水平垂直に注意しながらという一連のパターンである。一般的な美術品と呼ばれている絵画の登場人物にはあまり実は表情がない。かのモナリザだって、「微笑み」というタイトルを知らなければ、微笑んでいるように私は見えなかったし、ゴッホの自画像(包帯を巻いた作品)だって、苦悩しているようには見えない。絵画の中にある心情とは、実は鑑賞者の心の中にあるモノだから、見る人のコンディションで変化するのだ。本当の心情など作者しか分からないし、作者とて、絵筆を持ちながら、どういう心情だったかを整理して、「ああ、この喜びの心情をこのタッチで、この配色で!」などとは描いてなかったはずである。

 つまり、「表情を描く」ためにはセオリーやスタイルがないのである。あるのはただ、モチーフと同期させて、手を動かすのみ。モチーフがなければ、自分の心情と手を同期させるだけなのである。これが自然体であり、「笑った表情を描くぞ!」と、目の大きさや口のサイズや角度を考えても、それは、生きた表情にはならない。「ぎこちない笑顔」になるだけだ。技術的に上手い下手だけが絵の評価基準ではないのは当然のこととしても、私が描いたノートの落描きを見て、彼にそれが伝わったということが、本来の絵の価値(役割り)なのだと思います。

 30年以上前のことなのに、そして、すでに彼は他界しているのに、絵をイラストを描くたびに、必ず彼の言葉が「始まりの半鐘」のように心に響く。

ここが鬼門。

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 この土曜日、恐らくここが鬼門になるでしょう。

ズレ。

 長年、デザインの仕事をしていると自分の感覚が他人と比べ、ズレていると感じることが多い。しかし、いつもいつもズレていては商売は続けてこれなかっただろうし、ワガママな考えや行動を繰り返していれば、結果、孤立してしまっていたでしょう。

 そう考えると、私の感覚の「ズレ」はデザインの仕事を展開する上で必要だった、多少ズレてはいたが仕事の成果としては良い作用もあったということになります(自己完結)。かなり、自分を擁護している考え方ではありますが、デザインの仕事にはつくり手の感覚や理屈など、適当に適正にズレている必要があると捉えています。

 例えば、日本の「音楽シーン(ビジネス)」について他人の感覚とのズレを強く意識することが多い。老若男女が「ワーキャー」言っているグループがいる。ここでそのグループを特定して個人的な分析を披露したところで、誰も得をしないのでそのグループ名は書きませんが、私はそのグループがテレビに登場しても一切魅力的だと感じない。しかし、世の中には熱烈なファンがいて、ライブに集まりグッズを購入し、当然、CDも破格の販売力がある。その現実・事実・根拠があるから、テレビ番組にその皆さんがゲストとして登場した際、司会者や他の芸能人さん達はその皆さんに対して「そういう扱い」をする。これは歴(れっき)としたビジネスモデルなのだから、私個人レベルで何をどう感じようが体勢に影響などない些細なこと。しかし、仕事の場面でその感覚がマイナスに作用すると判断すれば、私はその想いを伏せてニュートラルに世間一般の評価をしている人になる。この変わり身の術、非常に不本意ではあるが、その場面で自分の感覚を鋭利に尖らせる必要はないと考えています。尖らせなければならない部分を使うのはあくまでもデザインの仕事だからです。

 このように日常の些細な出来事や場面で感じる「ズレ」は、自分の未熟で足りない部分を明確に分からせてくれるという利点もある。

 そのグループの魅力を私は感じられないほど正真正銘の「おっさんなのだ」とか、これがカッコイイと感じられないのはただの食わず嫌いで、ちょっと色眼鏡を外せば魅力が見えてくるのかもしれないという、リセットする機会だと捉える利点です。若い頃なら、未熟者やビギナーだからと許されたことでも、この年齢(51歳)になればそれは常識として許されないゾーン。そもそも常識への理解がズレていたからこんなタイミングでこんなブログを書いているのですから、それでも、こんな私でもリセットできる体勢・コンディションにしておくことは大切だと考えている。理論・理屈で社会から孤立するよりは、ズレている本質をひきずりながら飽くなき「世渡り上手」でいたい。

 デジタルツール(ソフトやデバイス)をデザインの仕事で活用するようになって、得したことは技術レベルが低くともツールが補正してくれる点である。アナログツールを活用していれば、スキルが足りないと「ゆがみ」「ねじれ」「ズレ」が生じるが、デジタルツールでは完璧に補正してくれる。シフトキーさえ押していれば、垂直・水平が狂うことはない。しかし、それゆえに、意図的な「ゆがみ」「ねじれ」「ズレ」を生み出しにくくなってしまう。これは常識では「良いこと」なのだが、ズレている人間からすれば、意図的に「ゆがませたい」「捻りたい」「ズラしたい」という気持ちまで、矯正されているようでストレスなのです。

 私はこの意識をデザインの仕事で必要なバッファ(余裕)だと捉えているが、常識では「水平・垂直が美しい」、その根拠は「安定していることを美しいと人は感じるから」という理屈で片付け、その先、その裏、その下にある「不安定な美しさ」「歪な美しさ」「0.1%の美意識」を受け入れない人も多い。

 とても正確で物理的で緻密なお話をすれば、デジタルツールで制作したコンテンツを印刷した場合、刷版も印刷用紙も湿度や気温で微妙に歪んで伸縮している。350dpiで印刷した場合の4版(CMYK)の版は網点の集合であり、それぞれの4版はそれぞれの法則で角度が意図的にズラしてある。だから、美しい印刷物が仕上がるのです。

 また、モニターについても、それぞれの解像度があり、昨今の4K・5K画像でさえ、どんなに徹底的にカラーマネージメントを管理しても、見る視点や角度、部屋のライトの種類、日光との兼ね合いで同じ状態で再現は不可能なのです。まして、人間の網膜は血流と視神経の新陳代謝の影響で、時間毎に変化している。視神経と言われているぐらいだから、感情やその日の気分や体調でも毛細血管は伸縮し微妙に変化している。変化すれば当然、色の認識・認知にズレが生じている。

 でも、理論・理屈ですべてを片付ける人は「ズレ禁止」で満足できる幸福者なのです。ある意味、それが正常なのかもしれませんし、原理や仕組みを知り過ぎない方が低いレベルでいられ、満足の度合いが相対的に高く多くなる利点もあります。闇雲に過剰に追求し探求しても、常に正解は形を変えているのだから目や耳や心を背けて伏せている方が楽チン。

 ただ、ズレていると、私のように「メンドクサイ人」になってまうので、この長文、最後まで読んだ人には大変申し訳ないですが、人は結果、素直で素朴な方が幸福を手に入れるチャンスは多いと思います。最後までズレズレのブログでした。ゴメンナサイ。

素敵なアイテムなんだけど。

 素敵なアイテムなんだけど、ちょっとお値段が高い。¥3,980(税別)なら買うのですが。

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 デザインも良いし、アイディアもある、素材感も申し分なしなのですが、お値段設定がちょっと高めです。「デザインとセンス」って商品選びの「決め手」のようで、やはり、「お値段」が優先。誰かが市場の相場価格帯を操作しているわけでもなく、原価、開発コスト、制作コストから「お値段」は算出されているはずですから、「お値段」が価値の実態なのです。実は。

 「デザインとセンス」も「手間」だと捉えると、開発・制作に費やした「時間」と「お値段」の関係性が商品価値を生み出す公式となる。この単純な公式に個人の「好み(主観)」が入り混じり、市場の相場価格帯が決まるという仕組み。

 素敵なアイテムなんだけど、ちょっとこのお値段では私は手が出ない。

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1万時間の法則。

 アメリカの研究で人が何かのスキルを志し、その熟練度との関係をデータ化し計測したところ、何かに没頭する時間が1万時間以上の人は、そのスキルに一定レベル以上の熟練度がみられたそうである。

 私の場合、幼稚園に入る前からチラシの裏に絵を描いていた。たわいもない落書きレベルの絵ではあるが、時間があれば鉛筆かマジックで描いていた。そのまま学校でも勉強の合間、図工の時間は勿論、マンガに出会ったあたりからその頻度は加速する。一番勉強をした中学3年生の頃でさえ、勉強の合間でも、気分転換にデッサン風の鉛筆画やマンガの主人公を模写していた。芸大に入学するとさらにその頻度は多くなり、一日の中で絵を描く時間は格段に増える。社会人になりデザインの仕事を始めた頃でも、グラフィックデザインの仕事をしながら、イラストレーターの仕事も合わせて展開していたので、ラフスケッチから着色までを絵を描く時間と想定すると、かなりの時間、私の人生では絵を描いてきたことになる。

 仮に50年間、1日平均1時間の絵を描いていたとしても18,250時間となり「1万時間の法則」にあてはまる。芸大生の頃やイラストレーションの仕事を長年展開してきたため、1日10時間以上、絵を描いていた日も相当あるので、恐らく推測ではあるが、5万時間以上は絵を描いていた計算になる。

 ただ、「熟練度」という捉え方で「絵」「イラスト」を捉えた場合、「上手い絵」が必ずしも有益な成果とは限らない。絵の評価は個人の主観に依存するため、絵を描くテクニックは熟練度が高いが、その絵に価値があるという直接的な比較が難しい。

 さて、「好きこそモノの上手なれ」という言葉があるが、私にとって絵は「好き」であり、全体平均から比べると「上手い」レベルとなるだろうが、だから仕事が増えるとか、だから生活が豊かになるとか、人生が充実したとかという成果に直結しているとは考えにくい。

 もし、私が医学の道を志し、多くに患者さんの治療や命を救ってきたのなら、専門的な知識や技術は有益で崇高だと捉えることができるが、「絵が上手い」ことが世間一般に価値があったとは捉えにくい。なのに、何故?絵を描いてきたのだろう?と、ずっと考えてきた。描くことがただ「好き」だから、描いてきただけなのか?実はその想いの下層に大きな意義や価値があるのだろうか?と。

 意義も価値もなければ、私は人生の相当な時間を無駄に過ごしてきたことになる。この疑問、文章にして書き出しても、言葉にして誰かに相談し助言を求めても、多くの書籍に解決の糸口を求めて探求・追求しても、明確な答はない。なかった。

 現在の結論として、やはり、「絵」に対する疑問の答は「絵」の中にあるような気がしている。