ほぼ日刊イトイ新聞

 ほぼ毎日、糸井重里さんが運営しておられる「ほぼ日刊イトイ新聞」を読んでいます。「ほぼ毎日」という切り口が糸井重里さんらしく、当然、記事の暖かさと誠実さは文章のお手本のようで(当然)、私には決して近づけない程の孤高な高さを感じてしまいます。こんな文章が書ける人になりたいと思うわけです。

 その中で「主観と客観」についての記事がありました。

 日常生活の中に氾濫する「客観」に自分自信の「主観」を押しつぶされない、手放さない、紛失しないように気をつけようと、いつものことながら、糸井さんらしい後味と余韻が残る素敵すぎる文章でした。

 「アート」の価値は主観だからこそと、言葉にできるにはそれ相当の根拠や要因が必要だと思います。「アートなんとか」とネーミングするだけで、「あとはご自由に!」的なイベントやプロジェクトをよく見かけるが、その全容と詳細を確かめるまでもなく、中身(主観)が弱い、表面的(客観)に終始したハリボテ企画に残念になる。残念になるのは期待しているからであり、一本でも筋の通った作品や心を震わせてくれる人に出会えたなら、それだけで満足なのだが、なかなか、主観のありかにたどりつけないことがもどかしい。ただ、自分の理解力のなさ加減と感度の鈍さに閉口することが多い。

 「良いつくり手になるには、良いモノをたくさん見る」という指南に、仕事でも人生の場面でもよく出会うが、「何をどう見ればいい?」については誰も紐解いてくれないから、結局、試行錯誤から始めて、自分だけの「良いモノ」に出会うしかない。誰から「良いモノ」だと教えてもらったことが、自分の「良いモノ」だという確率は経験上、非常に少ないからです。この部分に主観の軸があるのでしょう。

 さて、「アート」の価値についていくつか思うことがあるが、まだまだ、ブログで書けるほど整理できていないのが正直なところで、「ほぼ日刊イトイ新聞」でいろいろな良いモノに出会えているのだろうが、口の中に入れて噛み始めた段階です。美味しいのか美味しくないのか?栄養になるのかならないのか?ちゃんと自分の身体が吸収してくれるのかしてくれないのか?イトイ新聞を読み始めてから思うことは、より深く広く迷いのゾーンが広がったということ。

 逆に迷っていなかったことが短絡的で軽率だったと反省することしきりです。

 今の結論は自分の中にある優柔不断で天邪鬼な「主観」だけど、大切にしたいと思っています。