選挙ポスター。

 営業や打ち合わせでお客様のところに行くことがよくあり、車から街角に選挙用のポスターが貼ってあるのをよく見かける。デザイン的には議員さんの顔写真が大きくレイアウトされ、所属先やスローガンがデザインされているパターンである。目立つ配色、読みやすい文字の大きさとフォント。内容的にはとてもシンプルで、それ以上それ以下でもないとてもシンプルな情報が一枚の紙に印刷されている。

 人工頭脳関連の書籍を読んでいるとコンピューターが進化すると、今存在する人間の仕事の中でいくつかが代行されるという現実を知った。決まり決まった想像的ではない事務的な単純処理は、はるかにコンピューターの方が正確で効率が良いということである。当然、それらのプログラムに連動している工作製造機械があれば、単純作業なども代行可能である。新しい何かを想像したり開発するようなテーマはまだまだ苦手で、人間への繊細で微妙な対応についてもまだまだ進化の渦中らしいが、方程式があり正解を多様な選択肢の中から判断するだけならば、人間はコンピューターに劣る場合がある。むしろ、正解が分かっている単純作業ならば、人間はその仕事を放棄していもいい時代だということである。

 さて、議員さん達の仕事はどっちだろう?私は議員経験が当然ないので、どのような仕事を任期中に展開しておられるか理解・掌握していませんが、テレビやネットの情報で知る範囲では、あまり想像的な仕事は少ないような印象がある。議案を制作し議会で審議し可決させることが主なタスクなのであれば、想像的な要素は少ないような印象がある。この流れを分解すると、情報収集と整理・設計、そして、立案・提案し議論した末、多数決で可決する。このファンクションを成立させるための、費用対効果はどうなのだろう?

 「どうなのだろう?」ということは、何かと比較していることになるのが、例えば、農業と比較してどうなのだろう?

 土を最適化し、強い種・苗を選別し、成果(商品)として育てる作業には長年のつくり手の経験則がかなりの比率で作用している。そのノウハウの中には決まりきった手順もあるだろうが、農業の相手は自然である。自然相手の仕事だから想定外の事態(トラブル)が容易に発生する。いつでも発生する。経験則はあれど、これらのトラブルに対応するためには会議をしている時間はない。毎日毎日、一瞬一瞬が勝負なのである。まして相手は野菜や穀物などの生物である。判断を謝れば成果は生み出されない。それまでの作業時間や原価を失うことになります。このような農業と比較して政治というタスクはどうなのだろう?農業より政治が単純だとは言わないまでも、人工頭脳が対応できそうなのは農業よりも政治のような気がするのです。農業も政治も素人の私が曖昧な情報だけで安易に軽率に判断できるようなテーマではないが、一般人の知識レベルでは政治のシステム・構造こそ、専用のアプリで代用できそうなことが多いような気がします。

 テレビのニュースで政治家達が巨額の資金を独断で操作したり、無駄遣いをしていることを知る度に、政治のシステムや構造を否定するのではなく、そもそも政治自体の必要性に疑問を感じてします。これは一般市民の悪気のない一意見なのですが、同じようなことを国民は感じているんじゃないだろうか。そもそも、ひとつの議案立案にかけている費用や時間、何事も金次第の世の中ですが、一般市民と比べてあまりも単位・単価が大きい割には、実際やっていることはとても単純で、無理やり大義名分を積み重ねて大きく見せているだけで、実態・実質的には公明正大なアプリを制作して代行させれば、と思うのです。

 選挙ポスターの単純明快なデザインを見る度に、ああこの人の素養はいかなものか?有名な大学で知識を詰め込み、潤沢な資金をベースに然るべき経験値を積み、大義な空間で議会という時間でそれらしくふるまっているが、本質は卓上ゲームのコマのようだと。つまり、その属性が然るべき立場を形成しているだけのIDであるならば、別段、「ゆるキャラ」と同じではないかと。選挙ポスターの写真を見る度に、ああこの人たちはそういうキャラを演じることに人生を賭けているのかもしれないな、などと感じてしまいます。ルックスのいい熱意溢れる人間性を表面的に打ち出し、それを「キャラ」にしている仕事。だから、論理が曖昧な答弁や拙い日本語を露呈しても、国民は「議員さんなのに何を言っているの?」レベルで許される。これ正にそういう「ゆるキャラ」だからなのである。

 それもそのはず、ただ、選挙で選出されただけなのだから。素養も教養もポテンシャルも関係なく、選挙ポスターなどで認知されているモノサシ加減だけで得た属性・立場なのだから。だから、選挙ポスターには「デザイン性」が必要ないのです。むしろ、あってはならないんでしょう。

 そんな仕事、ほんとに大変だと思います。相関で俯瞰で客観で自己分析さえできていれば、決して、立候補したいという結論にはならないでしょう。それを考慮してかしないでか、決意し覚悟し手を上げている証があのポスターなのでしょうから。