あさっての方向から。

 歳だなぁ~と思う瞬間がある。それは、想定外のことや予期せぬ非常事態があまり起こらないこと。痛い目に会わないかわりに突然のサプライズも極端に減ったことだ。これも情報化社会の良い面と悪い面で、いつも想定内のことしか起こらない。軽率な「チョンボ」や「イージーミス」は元々原因が100%私にあるので比較的致命傷にはなりにくいし、仮に力不足が原因で失敗を招いてもなんとかなってしまうのがこの傾向をさらに促進している。これを「安定」「均衡」と呼ぶこともできるのでしょうが、それはそれで退屈してしまう。つまり、適度な刺激と適度な満足感が欲しいのだが、このバランスが非常に難しい。「そこそこ」「ボチボチ」「まずまず」というニュアンスが嬉しくもあり苦しくもある。

 どこからともなく凶悪な敵が現れ、どこからともなく無敵のヒーローが倒してくれる。そんなドラマチックな状況を心のどこかで求めてる感覚。そんなことは映画や小説の中だけのお話で、現実に生死に関係するような事態は非常に困る。しかし、だから、誰もがそんな状況を疑似体験できることを渇望しているのです。勿論、私もなのです。そういう想いを自分で物語にしたら少しはこのモヤモヤが晴れるかもしれないと期待しつつ、自分の中の「最大の敵」とはなんだろう?そして、「永遠のヒーロー」ってなんだろうなどと考えています。

 最近の映画は完全懲悪路線が緩み、善意と悪意が混沌としている。「ダークヒーロー」などという言葉が横行して久しいほどだ。一見、悪っぽいタイプが善行したり、どう見てもエリートヒーロータイプが影で悪行に手を染めていたり。だって、スーパーマンとバットマンが戦ってしまうわけですから、そりゃ、エイリアンとプレデーターだって戦うわけです。例えば、ゴジラ。誰もゴジラの真意は分からないが、ビルを壊しながらも凶悪・巨大な人類の敵と戦ってくれるゴジラ。それはゴジラの勝手気ままな本能のはずが、いつしか海に帰っていく頃には人類のヒーローになっている。ここに善意とか悪意はなく、ただただ、生物の本能のみが事象となり物語となる。「老人と海」である。

 レクターがハンス・グルーバーがジョーカーが巨人がゾンビが純粋で完全無欠の悪ならば誰も肯定することなく受け入れないし、物語として成立しないわけで、ダースベーダーさえ共感してしまう、人間の本質が実はもっともこの世の中で「悪」であったりする。誠に突き詰めていくと「光と影」の関係を描くのは難しい。

 ある場面では「善(光)」なのに、別の場面では「悪(影)」がにやけているからだ。そのスイッチングがいまだこの年齢になっていもままならない。優れた物語を生み出してきた古今東西のクリエイターってほんとにこの苦悩を完璧に乗り越えて、自分の中の善も悪も制御・操作・支配できたんでしょうね。でなければ、「アトム」は生まれないのだから。