2017年07月 アーカイブ

おはぎ。

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 娘がつくってくれた「おはぎ」です。

 私は「フランス料理」も「高級焼肉」も「会席料理」もあまり好きではなく、好きな食べ物BEST3は?と聞かれたら、「おはぎ」「うな重」「だし巻き」と答えています。

 美味しくいただきました。

好きなこと。

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 「好き」とはなんなのだろう?

 それは考えるより先に感じる条件反射のような感覚で、餌を前にした犬が出すよだれのようなモノ。餌は大切。

great!

 DAWダカカラデキルコト。これできたらキモチ良いだろうな。

コレコレ。

 コレコレ、ヤリタイタノハコレ。

so cool!

 素敵な世界観ですね。サウンドって大切です。

記憶と記録。

 最近、テレビに総理大臣が登場すると「記憶と記録」問題の話題ばかり。このタイプのテーマは政治ネタの鉄板で、築地問題も同じである。引いては政治の問題って、いつも「記憶と記録」について議論しているような印象を受ける。

 さて、では何故、「記録と記憶」の実態とは何だろう?

 公共の電波を使って「言ったの言わなかったの」レベルの結論が出せない、さりとて証拠も曖昧な議論をテレビで観ている視聴者としては、「政治不信」をスルーし、もっと、深層の部分での政治家各位の人間性や政治というシステムの「人間臭さ」の部分について考えてしまいます。一般国民の感覚として「政治」の世界との果てしない距離感を実感してしまいます。どう反応するのが正解なのか分からない話題を毎日聞かされる現実を、さて、発信側のテレビの人達はどう考えているのだろうか?昔ながらのテンプレート通りにあることないことをとりあえず総理大臣の困った表情を映像で流しておけば政治ニュースとして成立するだろうと考えているのならば、現代のテレビメディアからのインターネットメディアへのユーザーの大移動は必然ということになるだろう。

 改めて「記録」とは何か?と考えてみると、それらはほぼ文字や数字などの言語情報です。「記憶」とは言語情報の先にある感覚情報なので、文字や数値化できない以上、必然的に曖昧になる。この曖昧な感覚を記録する際に言語化したモノが言語情報なわけですから、五感からインプットされた感覚の中から言語情報だけを記録すると残りの記録できない部分が感覚的な情報となります。記録できなければ残せないので、それらは忘れられるか、絵や音や香として感覚の中でしか残せない情報となります。確固たる実験をして確証を得たわけでも何かのメディアに記録し続け研究してきたたわけではないので、「残せないだろう…。」という曖昧な表現になりますが、恐らく、記録できる情報量と記録できない情報量を比較した場合、圧倒的に記録できない情報の方が多いはず。また、記録する際、その情報が公明正大で100%嘘のない記録かと言えばそれも違う。では、逆に「嘘のない情報」である根拠は何か?と聞かれれば、誰もが確証を得られず曖昧になってしまうはずなのです。

 つまり、そう考えていくと「記録も記憶」も実は曖昧なのです。だから、そもそも曖昧な情報に対して白黒つけようという努力が不毛なんだと、総理大臣の困った顔を見るたびに感じてしまいます。高い支持率をキープしたいばかりにそもそも曖昧な部分を言及しようとするから、自らの首が絞まるのである。だから、選挙でもテレビの会見でも彼らの目が泳いでいるのは致し方なないのである。根拠のない、曖昧な確証を持てないことを自信満々に言葉しなければならないのだから内心は相当のジレンマだろう。

 これがスポーツや芸術の世界ならば「記憶」にさえ残ればいいのに。政治って不確実で無痛なお仕事である。故に社会にとって、メディアにとって必要不可欠なのだ。つまり、振動を吸収するバッファ(緩衝材)なのである。コナンが言うように真実はひとつではなく、言葉にできない感覚ゾーンの中で忘れられてしまうのがほとんどなのである。

ほろ苦い。

 先日の全英オープン、松山英樹プロは日本人初のメジャー制覇に挑まれた。

 3日目を終えて首位スピースとは7打差の3位。最終組から3つ前でスタートされた。恐らく日本のゴルフファン、松山英樹ファンは初日のようなバーディースタートを心から願っていた。勿論、私もである。しかし、無情にもティーショットは右の柵を超えOB。そして、1ホール目はトリプルボギースタートなった。そして、最終日の結果は14位。

 翌日、新聞で松山英樹プロの結果に「ほろ苦い結果」という表現を使っていた。

 いやいや、世界ランク2位で望んだ全英オープン。スピースの一人旅の中、3日目も惜しいパットを何回も続けながら3位に順位を引き上げ、私達に「もしや?」どころではない、「メジャー制覇」という夢を観せてくれ、大きな期待を最終日まで維持させてくれた松山英樹プロ。その実力や戦歴についてはもやはや誰も何も語れるレベル(戦いっぷり)ではないのである。青木さんや丸山茂樹プロでさえ。言わば、「初めて人間が月面に立つ」クラスの期待を抱かせてくれれている松山プロが、苦しくも痛恨のトリプルボギーがあり14位に終わったとは言え、どんなライターさんか知らないが「ほろ苦い」はないだろう。そんな軽率な表現はないだろう。長い日本のゴルフの歴史に金字塔を建てようかというプレイヤーに対して、もう少し敬意を表して言葉を選んでほしい。新聞のライター・編集長・校閲の人達に松山プロの心情など想像も推測も憶測でさえ分かるはずがないのだから、もっと、別の言葉で松山プロの4日間の戦いを讃えてもらいたかった。

 という新聞のほろ苦い記事だった。

類は友を呼ぶ!?

 「類は友を呼ぶ」という言葉がある。

 考え方や趣味趣向が似ている人は共感しやすく、集まる傾向が強い。

 当然、言葉には多面性があり、良い意味では技量や思考に優れている人達が集まり、切磋琢磨することで新しいイノベーションが生まれたり、革新的なビジネスモデルを生む集団になる。良くない意味では、烏合化し誹謗中傷やゴシップ的な的を得ていない議論に終始する傾向が強くなり、烏合の外に対して過剰な警戒心や敵対心が生まれる。協調することは必ずしも有益で意義のあることではないのです。集団や組織の中でライバルを見つけ自己を高めようとする考えと、人の揚げ足やウィークポイントにフォーカスし他人の評価を貶めようと考える人とでは、当然、成果や本人の活性度合いが極端に変化する。

 分かりやすい事例として「SNS」がある。当然、開発者の狙いは生産的なネットワークをつくるためだったのだろうが、多面性が悪しき結果を生むこともあるようです。組織や集団って「企業」「国」「地球」「人類」などなど枠を広げていくといろいろな規模があり、当然、ある人は生産的にある人は破壊的に捉えているので、その関係性が「良い友」なのか、「悪い友」なのかは自然の理に委ねるしかない。SNSも最終的には本人次第なのだが、必ず関わる以上、多面的な捉え方をする必要がある。だから、素性も知らない、お互いポテンシャルも十分に分かりあっていない相手をそれが仕組みだ常識だと思い込み「友達」だと軽率に認定するわけにはいかない。そんな軽率な意思決定から有益なネットワークが生まれるはずがないのだ。

 昨晩、「海外視察」だという大義名分の元、ヨーロッパを旅する6名の地方議員集団がテレビに登場していたが、990万円という視察費用(税金)をドブに捨てていた。ご本人達は議員であるという属性に完全に依存し、大義名分を傘に着て、テレビ人間が直接問い正したが、ただ、その場を取り繕うしか術がなくともて痛々しく目に余る映像だった。いや、必ずしも議員・政治家がすべてこの「類」だとは思いたくないが、たまたま、この6名は公的な資金を私欲のために浪費するしか、己の存在価値を示す術がなかったのだろう。

 だからと言って、孤立し単独行動が気高く意義があるとは思わないし、小汚い野良犬で終わるのか、孤高の一匹狼で生きるのか、やはり、本人次第なのである。

 そういう捉え方で言えば、昨晩から読み始めた村上春樹氏の新作は、ねっとりと感覚に絡みつく。このテイストは意図・意識せずとも村上氏の得意技なのだろし、本質的に人間の中にある「同類を引き寄せたい衝動」を巧みに利用しているのだろうと捉えると、物語に不思議な共感が生まれ登場人物に感情移入させられてしまう。非常に「上手い!」としか言葉が思い浮かばない。恐らく、ドライな気質の人が読めばこの文体はカリフォルニアの空ように爽快感を生み、ディープで粘度の高い人が読めばコスタリカの密林のように息苦しくなるのだ。作用と反作用を見事に利用している、数少ない日本が世界に誇れる書き手さんなのだろう。

急いで…。

「急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。」という書籍がある。

 その書籍の構成をネットで確認すると、さほど食指は震えない。

 唯一、「急いで」というフレーズをタイトルに入れているセンスに心が反応しました。

 つまり、現代は「ゆったり」「ボチボチ」「のんびり」ではダメなのだ。比較的、私はせっかちである。カミさんや大学時代の友人に言わせると「比較的レベル」ではないという評価になるのだが、自分ではこのスピード感がちょうど良いと感じている。確かに「迅速」「テキパキ」というニュアンスではなく「そそっかしい」「軽率」「荒い」タイプだと言われ続けてきた人間なので、「急いで」というフレーズに心が反応してしまったのだろう。

 さて、「急ぐ」というニュアンス、どの程度急ぐのだろう?参考までに、家族で大阪に出かけますという状況で、各々が準備をする。だいたい出発時間は午前9時と決めている状況。私の場合は準備を整えて8時45分頃に車に乗り忘れ物がないか、また、車の汚さを家族に指摘されないかと気が付いた部分の泥を拭ったり、車内が臭くないかなどゴミをチェックする。すると、二人の娘がその5分後ぐらいにやってくる。そして、10分前ぐらいには3名は車の中であと1名を待つ状態。当然のようにカミさんは来ない。「トイレに行っていた。」「忘れ物をチェックしていた。」「どこかに電話していた。」という娘からの報告を聞きながら車の中で待つ。そして、出発予定時間の9時になる。当然、カミさんは来ない。まぁ、この程度なら日常茶飯事なので私も娘もイライラなどせず普通に待っている。5分経過して、ぶつぶつ言いながらやってくるカミさん。「雨が降るかもしれなから全部ドアを閉めてきた。」とつぶやきながらシートに座る。すでに私と娘達はニヤけている。「忘れ物はないよな?」と確認すると、「あっ!トイレ行くのを忘れた!!」と急いで家に戻るカミさん。

 どうやら、一生で使える時間は皆、公平ではないようだ。

 だから、何事も急がねばならないのです。

新しい名刺。

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 昨日、営業用の名刺がなくなったので、只今、データを制作し印刷入稿した新しいデザインです。表面に「ナスカの地上絵」、裏面は「ドクロ」。両面のビジュアル選びに特に根拠はなく、感覚で写真を選びました。あまり理由とか意味とか考えても名刺ってじっくり見るツールではないですし、むしろ、第一印象勝負だと思います。

知る人ぞ知る「スヤキ」。

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 先週の金曜日に伺った谷野製麺所様(近江鉄道水口城南駅周辺)で「スヤキ」をいただいてきました。

 まず、スヤキは初めてだったので定番スタイルでいただきました。これで¥300!特に調理の際の味付けはなしでモヤシと麺の程よい炒め加減が絶妙。通の食べ方はいろいろあるとのことでしたが、お店のオーナー様のアドバイス通り、胡椒とソースを少しかけていただきました。さらに大盛り(¥500)を注文すると、後半に出汁が出てきて、後半から出汁にこのスヤキをつけて食べるのが通らしいです。次はそのパターンでいただこうと思っています。やはり、さすが、麺の味は安定度抜群でした。昔ながらの製法で長年製造してこられた製麺所ならではの逸品です。谷野製麺所様の「スヤキ」、これこそここでしか食べられない限定グルメ麺です。

ラフスケッチ。

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 あるコンテンツ用のラフスケッチ。歴史上の人物ではあるが、このようにラフスケッチを何枚を描いてイメージと合わせていきます。イメージが細部まで固まれば、あとはどんな画材で描いていくかで完成度が変化します。歴史上の人物イメージだから少しモリモリの油絵タッチがいいかなと思っていますが、シャープなイメージも欲しいのでフォトショップかもしれない。そんなことを考えながら、細部(アクセサリーや着物の柄など)を決めるためにラスケッチを何枚も描いていきます。

二人でひとり。

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 ほんま、その通り。唐突にネットで発見して、7秒後に購入ボタンを押しました。

非論理的思考。

 「論理的思考力を鍛える33の思考実験」という書籍がある。新聞広告にはイラスト付で、このような質問が事例として紹介されていた。

 質問:「暴走したトロッコの先に5人の作業員がおり、線路を切り替えれば1人の作業員がいます。このときあなたは線路を切り替えますか?」という質問である。そのまま放置すれば5名が暴走したトラックに惹かれ、線路を切り替えれば1名の作業員が惹かれる。という状況です。この問題は論理的思考力の世界では有名な質問だそうで、この書籍ではこの類の質問が33個紹介され、論理的思考力を解説しているのだろう。

 確かにこの状況、論理的思考力が鍛えられるだろう。こんな極端なハプニングではないにしても、日常生活においても論理的に判断しなければならないケースは以外と多く、日々のルーティーンで判断できているうちはいいが、このような極端なケースでは自分自身がどんな判断をするのか?確かに興味深い。

 しかし、もしこの場面に私が遭遇したら、思考力のスイッチを入れる前に5名の作業員の方へ全力で駆け出し、なんとかトラックの暴走を気づかせようとするだろう。この質問の状況ならば、線路を切り替える余裕があるのだから、トロッコは切り替え地点にはまだ到達していないはず。そして、暴走している様子は目視できているわけだ。さらに、トロッコが暴走しているレベルだから、新幹線ほどスピードは早くないはず。さらに、5名の作業員も線路を切り替えた先の1名の作業員もその場所から確認できているとしたら、論理的思考力のスイッチを入れる前に、線路を切り替える切り替えないを考える前に5名の元へ全力で走り出すだろう。

 まぁ、論理的思考力って本を見ながら比較的余裕のある状態でゆったり考えましょう的なノリだから、迷いが生まれるわけです。思考力ってどんなにテクニックがあり能力が優れていたとしても、余裕のある机の上の戯れである。

 実際、トラブルの場面に出くわしたり、瞬間的に判断しなければならないケースでは、「さてさて、論理的思考力で・・・」などという余裕はない。それはもう感覚の世界で本能で判断するのが正解だと思います。現場でトラブルに遭遇したらスイッチを入れるのは論理的思考力ではなく、直感的な判断と筋肉への命令を最優先で意識する「非論理的思考」が決め手だと捉えています。こういうタイプの人間は、予測不可能なので、後先考えず、線路の上に石を並べトロッコを脱線させてるかもしれません。ジョン・マクレーン刑事のように。

DAWか。

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 やはり、ここを避けていては前に進めない、DAW。長年、つかず離れずの間合いだったが、いよいよガチでダイブして、こっち側に引き寄せてみようと思います。

論理学者の独り言。

鶏が道路を渡ったのか、道路が鶏を渡ったのかは、あなたの基準系次第である。
アルバート・アインシュタイン

「論理学者型の人はかなり珍しく、全人口のわずか3%を占めていますが、「平凡である」ことが何よりも惨めだと思う論理学者型の人達にとって、これは良いことです。持ち前の発明力や創造力、独特の視点や力強い知性を誇りにしています。哲学者や建築家、または空想好きの教師が多く、歴史の中で数々の科学的発見に関与してきました。」と、これはあるWEBコンテンツでもあるアンケートの分析結果です。つまり、そのアンケート(100問)の問題を答えて出た分析結果でした。過去にこのタイプの分析を受けた経験はあるが、「論理学者タイプ」という結果は初体験でした。

 改めて「論理学者」っていう言葉に親しみが湧き、いろいろな論理学者が気になり始めています。

 分析結果の文面の中で、妙に納得してしまった部分が「わずか3%」という数字。漠然と私のタイプはそうなんだろうなぁ~、いや、そうありたいと願っている部分も作用したのだろう、その結果が「論理学者」だと、逆に他の15タイプは何だったのかとも考えてしまいました。

 論理学者タイプだからなのかもしれないが、私は良く論点を反転させることがある。意図的にか本能的にかスイッチを切り替える瞬間、具体的にどうしているのか、脳の中でどんなスイッチングが発生しているか全く実感できていないのですが、ふっと自分の状況に対して捉え方や視点を反転させる。ユーモアや仕事のアイディアもこの瞬間に生まれることが多い。ある状況ではその反転が「逃避」だったり、ある場面では「攻撃」だったりするのですが、この間合いのつくり方がかなり常識から逸脱しているような実感がありました。良い言い方をすれば「フットワークが良く個性的」だろうし、悪い言い方をすれば「逃げ足が早くズルい」となる。例えば、企画会議の席でも、「賛成と反論」のタイミングを意図的にコントロールする傾向が強く、相手の論点が良く見えるのです。むしろ、相手の話を聞いている際、「論点しか」見ていないので、メモなど取らずとも何時間相手が話をしようが、話の流れは完全に記憶している。弊害としてディテールや感情面を完全に無視するため、論点と感情が混合している曖昧な意図は見事に無視してオートマチックに忘れます。つまり、あまりこの人の話は面白くないなぁ~というケースはほぼ論点が曖昧な人であり、感情的で語彙が強い人でも論点が崩れていなければ共感するし魅力を感じる。この「見切り」が初見の相手でも3秒以内。合わせて、表情やふるまい(挙動)も、電話ならイントネーションや言葉のリズム・音階も意識して聞くが、論点はロックオンする。

 ああ、こうブログに書いてみると、やはり、自分はメンドクサイ奴なんだと痛感します。反省(汗)。

テレビを熱く語る。

 昨晩、ある俳優さんが最近のテレビドラマについて熱く語っておられた。

 「最近は素晴らしいテレビドラマがない。」と。

 テレビ業界が以前のような活況を失い陳腐化していると。さて、それは現実だろうか?私はテレビ業界のことは全く知らないし、まして芸能人の世界など無縁である。子どもの頃はテレビを良く観る子どもだったし、多くの影響を受けてきた。その影響が今のデザインの仕事に作用していると捉えているし、多くのタレントや俳優さん達の言葉や演技からも人間形成の素となる刺激を受けてきたと捉えている。それは認める。

 日本人が英語を苦手とする理由のひとつにヒアリング能力があげられるらしい。当然、英語圏で生まれた赤ちゃんは親の言葉を毎日聞きながら育つため、言葉としての英語に違和感がなく、日常生活をする上でも言語は必要だから脳の発達と連動し英語を習得する。同時に英語を音として捉え、発音やニュアンスと感情面の連動も感覚で捉えるため、これらが連鎖・連携して英語を使いこなせるのだ。日本人も同じ環境で日本語を習得するのだが、英語と日本語では文法の違いや語感の違いが結構あり、同様にイントネーションや音としてのリズム・テンポを聞き分けるヒアリング能力もテクニック的に違うらしい。よって、生まれてから3歳までの間にどの言語圏で育ったのかで聴覚のタイプが決まるのだそうだ。だから、音として言語を認識する時期が過ぎると、知覚野で捉えてしまい本来のネイティブな英語を習得する障壁になるのだそうだ。

 さて、テレビも同様に親の言葉と同じぐらいテレビから様々な影響を受けている私達は英語脳同様に「テレビ脳」という能力部位があり、それぞれの時代毎に絶対感覚で体感しながら、対峙しているのだ。と思い込んでいる。

 しかし、「英語脳」も「テレビ脳」もそれほど真剣に熱く捉えるような存在ではない、ような気がした。それは私がテレビ業界の人間ではなく、死活問題と無縁だからなのだが、いつの時代も英語は英語でテレビはテレビなのである。熱く語ろうが冷静沈着に捉えようが、ひとつの仕組み・システムである。栄枯盛衰と時代性や経済情勢などと無理やり相関させれば、熱くも冷たくもなるだろうが、熱くなりたいから意図的に熱く語る。冷静冷徹にふるまいたいからそう捉えているだけのような気がする。つまり、私達が熱く捉えているモノも冷静に捉えているモノも実態は同じで、いつの時代も仕組みやシステムは同じでそれに関わる人のテンション・感情・ポテンシャルで変質しているようみ見えるだけで、さほど、熱く語ったところで現実的には今も昔もほぼ同じモノなんじゃないだろうかと、昨晩のテレビを観ていて感じた。この感受性も結局、たまたま、昨晩はそういう気分だっただけなのだろう。この距離感というか間合いが人生を左右したり、人間関係を決めてしまうと考えると、感情面をコントロールすることってとても大切だという結論に達し、心地よく寝ました。

 物事の伝え方と捉え方はできるだけシンプルに「S(主語)+V(動詞)+O(目的語)」の構造で。

カラフルな街。

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 なんの特徴もない街だったが住人が自宅にいろいろな色を自由に塗った。すると、たったそれだけの演出工夫でその街には観光客が訪れるようになったらしい。

 街灯もライトアップしたサインもない街があった。夜になると完全な闇が訪れる。住人達はこのまま廃れていく街を見かね「世界で一番星が美しく見える街」というPRを展開した。すると、満点の星空を観るために観光客が集まった。

 どこにである温泉街があった。都市圏からそこそこ離れた温泉街。温泉が出る以外に特筆するような魅力はなかった。しかし、住人が広告代理店に街おこしを依頼し美しい温泉街の広告を展開した。その広告展開が成功し何もない温泉街にたくさんの観光客が訪れるようになった。

 認定され注目され観光客が訪れると産業が活性化し具体的な新しい販売促進計画が生まれる。決して本質的に機能的に優位に立てる条件でなくとも、工夫次第で人の心が引き寄せられるのだ。その成功事例が情報となり二番手三番手が現れると人の興味や好奇心は分散され均衡しフラットになる。あとは持久戦だ。

 廃れるよりも人が集まりビジネスが活性化することで産業が生まれ雇用が生まれ街の価値が一見高まったような気になるが、本質は同じで演出(外観)だけが変化していたのだ。

 デザインの仕事はこの演出の部分を担っていて、本質を変化させることはできない。どう見せるか、どう伝えるか、どう解釈してもらうかについて取り組む仕事だ。ではカラフルな街も星が美しい街も片田舎の温泉街も演出を変え、人の注目を集め街は活性化したが、これで成功なのか?正解なのか?過剰なおもてなし精神が海外の人には敬遠される場合もあるらしく、一方的にな好意が嫌気として受け取られるケースも増えているらしい。

 このカラフルな街の写真を見ていると、そんなちょっと思惑が捻れている印象を受ける。表面的な文化を創出したものの、根づかないハリボテ文化は短命に終わる可能性が高い。文化(文章化・言語化・理論化)される前あったはずの「地の利」を感覚で捉えておかないと、いつかペンキ(装飾や演出)が剥がれた時、本質が以前より劣化せぬようその部分だけは死守しなければならない。

トロボー君。

 私は高校時代は硬式野球一色だった。1年生の春から3年生の夏まで高校野球が生活の中心だった。しかし、良い想い出は少ない。

 練習でも試合でもココイチの大切な場面で、まったく良い結果を出せないプレイヤーだったからだ。健康管理術もトレーニング術も過剰過ぎてケガを引き寄せてしまい、なんともみじめな経験の連続だった。そんな状態だから、いつしかメンタル面もとことんネガティブになっていった。しかし、根が頑固だったため退部せずに3年間続けることができた。それを諦めない強靭な精神力と捉えるのか、ただ惰性で可もなく不可もなく流す持続性・持久性だと捉えるのかは判断しかねるが、結果、取り立てて成果もなく、当然、良い思い出が少ない。

 そんなチキンな野郎だったから監督からはトロい(鈍感な)坊主ということで「トロボー君」と呼ばれていた。心底、悔しいかったが現実はその名前の通りトロい坊主だったので受け入れるしかなかった。

 社会に出てからもこの高校時代の記憶が、思考するにも行動するにもこのネガティブさが軸になることが多く、いろいろな場面で作用している実感がある。仕事で失敗した時や想定外のトラブルに遭遇した場面で私の中の「トロボー君」が状況判断をしようとするのだ。「どうしよう?どうしょう?」と萎縮し、テンパってしまう情けないトロボー君なのである。

 しかし、仕事が上手く行き始めた頃、一時期このトロボー君が現れなくなった時期があった。何をやっても上手くいくし、思考や行動もしっかり連動し、当然、成果も想定以上だった。「ああ、これでトロボー君は消え、何事にもポジティブに取り組めるぞ」と思い上がった状態だった。すると、その自信からか私は見る見る口が悪くなり、行動が自己中心的になっていった。それでも仕事が優先だからこれでいいと考え、誠実さや慎重さや謙虚さを欠き、欺瞞と自惚れで相手の気持ちが分からなくなり自論や自分のスタイルに固執していった。結果、そんな小さな自負など、狭い会社組織の井戸の中でケロケロ鳴いていた蛙だったのだ。

 都会のデザイン制作会社を離れ自営スタイルで独自の営業展開を始めると、また、いつのまにかトロボー君がオドオドした自信なさげな表情で私の中に現れた。今では彼と仲良くやっているし、傲慢になることも人を傷つけるような言葉選びも、トロボー君がマネージメントしてくれているような気がしています。

 トロボー君の合言葉は「fight or flight?」。時には戦わないことも大切なのです。