記憶と記録。

 最近、テレビに総理大臣が登場すると「記憶と記録」問題の話題ばかり。このタイプのテーマは政治ネタの鉄板で、築地問題も同じである。引いては政治の問題って、いつも「記憶と記録」について議論しているような印象を受ける。

 さて、では何故、「記録と記憶」の実態とは何だろう?

 公共の電波を使って「言ったの言わなかったの」レベルの結論が出せない、さりとて証拠も曖昧な議論をテレビで観ている視聴者としては、「政治不信」をスルーし、もっと、深層の部分での政治家各位の人間性や政治というシステムの「人間臭さ」の部分について考えてしまいます。一般国民の感覚として「政治」の世界との果てしない距離感を実感してしまいます。どう反応するのが正解なのか分からない話題を毎日聞かされる現実を、さて、発信側のテレビの人達はどう考えているのだろうか?昔ながらのテンプレート通りにあることないことをとりあえず総理大臣の困った表情を映像で流しておけば政治ニュースとして成立するだろうと考えているのならば、現代のテレビメディアからのインターネットメディアへのユーザーの大移動は必然ということになるだろう。

 改めて「記録」とは何か?と考えてみると、それらはほぼ文字や数字などの言語情報です。「記憶」とは言語情報の先にある感覚情報なので、文字や数値化できない以上、必然的に曖昧になる。この曖昧な感覚を記録する際に言語化したモノが言語情報なわけですから、五感からインプットされた感覚の中から言語情報だけを記録すると残りの記録できない部分が感覚的な情報となります。記録できなければ残せないので、それらは忘れられるか、絵や音や香として感覚の中でしか残せない情報となります。確固たる実験をして確証を得たわけでも何かのメディアに記録し続け研究してきたたわけではないので、「残せないだろう…。」という曖昧な表現になりますが、恐らく、記録できる情報量と記録できない情報量を比較した場合、圧倒的に記録できない情報の方が多いはず。また、記録する際、その情報が公明正大で100%嘘のない記録かと言えばそれも違う。では、逆に「嘘のない情報」である根拠は何か?と聞かれれば、誰もが確証を得られず曖昧になってしまうはずなのです。

 つまり、そう考えていくと「記録も記憶」も実は曖昧なのです。だから、そもそも曖昧な情報に対して白黒つけようという努力が不毛なんだと、総理大臣の困った顔を見るたびに感じてしまいます。高い支持率をキープしたいばかりにそもそも曖昧な部分を言及しようとするから、自らの首が絞まるのである。だから、選挙でもテレビの会見でも彼らの目が泳いでいるのは致し方なないのである。根拠のない、曖昧な確証を持てないことを自信満々に言葉しなければならないのだから内心は相当のジレンマだろう。

 これがスポーツや芸術の世界ならば「記憶」にさえ残ればいいのに。政治って不確実で無痛なお仕事である。故に社会にとって、メディアにとって必要不可欠なのだ。つまり、振動を吸収するバッファ(緩衝材)なのである。コナンが言うように真実はひとつではなく、言葉にできない感覚ゾーンの中で忘れられてしまうのがほとんどなのである。