2017年08月 アーカイブ

考える人。

 今日、「「考える人」は本を読む」という本を注文した。

 この著者、河野通和さんを知ったのは糸井さんのサイト。糸井さんのサイトは師匠からの情報で、文章を言葉を上手く使いたければ、いや、文章と言葉を自分のモノにしたければ、いや、文章と言葉に誠実に向き合うには「ほぼ日刊イトイ新聞(WEB)」に触れなさいというアドバイスを素直に受け止めたから。結局、私たちは「自分のスタイル」に比重を置く思考の癖が強く、受け入れる情報も自分のフィルターで見事に「自分寄り」に分別しているのです。「いやいや、そんなことはない。広く深く情報に触れていますよ!」とか、「こう見えて、選り好みをせずに公平に探求していますがね。」とか言う人に限って、狭く浅く、好みの入口が狭い。言葉は常に表裏一体、コインの表と裏なのです。

 僕は「考える人」とは「感じている人」だと思っていて、専門知識の豊富さや巧みな論理よりも、自分の感覚にとことん素直な思考が本当の思考だと思っています。

 「本気でものを言うつもりなら、言葉を飾る必要があろうか。」とゲーテが言っています。

 感じることを怠ると、考えることしかできなくなります。それだけは嫌です。

大義名分。

 以前、長浜のガラス文化のシンボルとしてガラス作品のコンペがあった。経緯はあまり熟知していないが、結果、駅前のホテルの入口付近に最優秀作品が建造された。ガラス文化のシンボルという大義名分がその場所に鎮座していた。個人的に作品として特筆することはないまま、駅前通りを通る度にこれがシンボルなのかと考える。この毎日、目に触れるということがシンボルの役割でもあるのだから、形が存在しない大義名分よりも遥かに価値はある。

 しかし、駅前に新しいビジネスモールが建造されこの夏オープンした。この開設に伴い周辺の道路も広く整備された。その一連の流れなのか、ホテルの駅前にあったシンボルがいつの間にか無くなっていた。なるほど、もっとシンボルのあるべき場所に移転されたのだと感じた。例えば、新しいモールの中の広場とか、どこか長浜のガラス文化のシンボルとして適正な場所にこれを機に移転したのだと。

 昨日、娘を長浜駅まで迎えに行く。駅前のロータリーはタクシーや送迎の車で混雑するので、裏手にある、モールの裏口付近、コンビニの駐車場に停車して新快速の到着を待つ。少し雨でも降ったのだろうか夜中の10時過ぎ、その付近はひんやりと心地よい空気が漂っていた。人の通りもまばら。そのコンビニから道路に歩いて行くと、ふと、左手のテナントビルとコンビニの間の空き地にシンボルを発見。目立つ場所と言えば目立っていたが、どう見ても長浜のガラス文化のシンボルの場所としては似つかわしくない、コンビニとテナントビルの隙間に移動されていた。さて、この状況をどう捉えたものか?ホテル前から移転して裏手の空き地にあるシンボル。大義名分の捉え方は十人十色としても、ちょっと寂しい気持ちになりました。

銭形平次。

「男だったらひとつにかける かけてもつれた謎を解く」

 これは古いテレビドラマ「銭形平次」の主題歌の冒頭である。

 不意にいつもこのフレーズが頭に浮かぶ。その理由は曖昧だが、何か理由があるはずだ。

 「ひとつにかける」とはどういう意味なんだろう?僕の解釈は「失敗してもいいから自分の答をひとつだけ頭で想い浮かべ、思考してみなさい、行動してみなさい。最初から謎の解き方は誰にも分からないから、ひとつの答を仮定し、まず、謎を解くことに意識を集中すればいいんじゃない?」と捉えている。

 多くのネットの中にも書籍の中にも発信者の「答」がある。「こうして私は巨万の富を得た」「ビジネスの現場ではこうあるべきだ」「仕事とは、人生とは」どれも美しく強い答である。しかし、どれもこれもひとつに収束し整理し整え、ダイヤの原石を研磨するようにはいかない。芸大生の頃、彫刻の実習で顔像をつくった。粘土をつかってモデルの頭の原型をつくり石膏で型をとり、樹脂を流して頭像をつくるという実習だった。粘土で頭像をつくるのは初めての経験で、人の頭や顔の絵は限りなく描いてきたが、立体的な作品づくりは初体験だった。まぶた、鼻、口、耳、首をねんどを捏ねたり削ったりしながら制作した。手を入れ確認する作業を実習時間中、延々と繰り返した。先生には「人の頭の構造をよく観察している」という評価をいただけたが納得いく作品ではなかった。

 粘土の塊を前にして躊躇するか、自分の答を探すために決意して手を動かすか、謎を解くことは苦しい。しかし、楽しい。

類語辞典。

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 少年の頃から勉強は好きではなかったが、辞書や百科事典は大好きだった。学校の勉強と辞書はワンセットだと思っているヒトにしてみれば、なんのことやらだが、勉強のために辞書を読んだり、百科事典で調べ物をするとかじゃなく、知識を増やしてテストで100点と取りたいとかでもなく、辞書が好きだった。しかし、「類語事典」という事典があることを最近になって知り、とにもかくにも1冊欲しくなって本日購入しました。ブログを読んでいて、ああ、またこいつ小難しい言葉を使ってやがる、と感じたときは、この類語事典の作用・影響です。

矛盾。

 この数年、僕はとにかく強い「盾と矛」を探していた。それは言葉のスキルであったり、特異な専門技術であったり。自分の経験と外部から得た情報をかき集めて、とにかく強い「盾と矛」を探して武装しようとしていた。しかし、この作業では答が出せない。出せないばかりかどんどん葛藤や焦燥だけが募り、それは、まさに「矛盾」だった。内なる感情に蓋をしてさらけ出すこと真意を言葉にすることを避けてきただけなのです。それを気づかせてくれた一冊の本に昨日出会った。今、それが手の中にあります。すると、矛盾が消え、内側の自分の声が聞こえるようになりました。ほんとに「本」は素晴らしいです。そういう本をつくりたいです。

 その本は株式会社電通のコピーライーター梅田悟司さんの「言葉にできるは武器なる。」という書籍です。

夏の伊吹山。

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 お盆休みは1日だけ伊吹山に行ってきました。5合目ぐらいからガスが発生していましたが、暑くなく快適な登山でした。山頂は多くの登山者で賑わっていました。この季節ならではの花が咲き、もとても綺麗でした。

エンハンスメント。

 「エンハンスメント」。そもそもの意味は「改良すること。また、増大、増進、強化」、「天然石が本来もつ性質を最大限に引き出すため、加熱処理などを行なって、宝石としての価値を高める工程」なのだが、人体の増強というテーマでもこの言葉が注目されているらしい。それは、人工臓器や感覚の低下を人工的に補強することで身体機能を飛躍的に伸ばすことなのだそうです。あまり、聞きなれない言葉ではあるが、確かに技術の進歩が人間の生命に及ぼす作用や益は想像以上に大きく覚醒している現実もあるのだ。

 老化や事故による身体の損傷、癌などの不徳の事態を進歩した技術力で回避できたのなら、生命本来の寿命の上限を飛躍的に超える可能性が高いのだ。当然、人間としての尊厳や自然の摂理に対する感情との兼ね合いがあるだろうが、それでも本能が生命の延長を求めたのならヒトは最新テクノロジーでその生命を制御するだろう。ただ、そこまでして個体の生命を延長し倫理や哲学的な判断はどうなる?という疑問が残る。仮に私がそうしたいと願った場合、費用の問題もあるだろうし、生命に対する捉え方は個体それぞれだろうからYESとNOに別れる複雑な問題である。そこまでコストを賭けた延命に意義があるのかないのかという疑念の前に、そんな費用は用意できないだろうし、故に「NO」という結論が予想される。もし、個人資産に余裕があるのならこの老眼だけはなんとかしたいと考えるかもしれないし、人工心臓を埋め込んでまで枯れたゴーヤのような自分の四肢を見るのは辛い。まだ53歳だから「自分の死」を先送りにできるのだろうが、もう53歳だからと自問自答すると、「エンハンスメントかぁ~」と神妙な気持ちになってしまう。

 倫理や哲学、理論や理屈って頭の中で粘土のようにいろいろな形になってしまうから、答は出さないのが大前提だし、だから、覚悟も決意も必要ない無限ループの世界である。ただその現実に反して衰えていく肉体をなんとか増強したいという願い・理想については、バベルの塔の住民だけ語れる戯言、得られる特権であり、いつまでもその空想の世界で戯れていてもらいたいと思います。

 故郷は遠くにありて想うもの、理想とは理想でありつづけるからこそ価値がある。と思うのです。何もすべてを実現するだけが人間の英知ではないような。生命は有限であることをエンジョイできるヒトでありたいと思います。

セレンゲティ平原。

 日経新聞に総合研究大学院大学学長の長谷川真理子さんがショーン・B・キャロル著の「セレンゲティ・ルール」と書籍を紹介していた。セレンゲティ・ルールとは生物に共通する制御メカニズムの法則である。そのひとつに「二重否定による制御」というのがあり、何かの量を制御するのに、一つの量があるのではなく、ある量を増やすように働く要因と、それ自身を制御する二つの要因があり、それらがうまく作用することで全体のバランスを制御していて、コレステロール量も、がん細胞の増殖も、アフリカのセレンゲティ平原の有蹄類の個体数も、みな同じなのだそうです。単純に「BがAを抑える」のではなく、「Aを増やすBがあり、Bを抑えるCがある」ので、Aが正常に維持されると。生態系は複雑で鍵になる生物がいなくなると、それがXを引き起こし、それがさらにYを引き起こし、という具合にどんどん連鎖が起こるだそうです。「風が吹くと桶屋が儲かる」のかに対する説得力のある書籍なのだそうだ。ヒトが行っている経済活動も、生物間の相互作用の一つであり、競争、密度、サイズの影響など、想像力を働かせれば、経済活動にも当てはまるだろうと長谷川さんは締めている。

 非常に興味が沸く書籍である。

 「制御の法則」が記述されているとしたらDNAの中だろうし、オートマチックにこの制御が効いている状態ならば、恐らくこの著者はこの本を書かなかっただろうし、仕事だったとしても長谷川さんに何かしらの同じ危機感がなければ、著者との共感が生まれていなければこの記事は成立しない。いわば新聞の記事にも「制御の法則」が作用しているだろうし、新聞というメディア自体が「制御」そのものなのかもしれない。書籍として世に送り出す以上、この著者は生物学者である自らの存在を誰かに伝えたいと考えた結果、この書籍が生まれている。ここにも恐らく「制御の法則」が作用しているのだ。

 では、何故?このタイミングで間合いだったのだろう?

 恐らくこの著者も学長も同じ危機感を持たれ、同じ価値観で書をまとめ紹介文を書かれたのだ。本来ならばオートマチックに制御の法則が作用しているのに、その法則を崩す亀裂が見えたのだろう。この著者のように生物学者としての知識もキャリアもまったくない私でさえ、この紹介文からその「危機感」を読み取ったわけだから、この新聞記事を目にした人の中にもこの感覚を共有できるかもしれない。Aを正常に維持するために、BとCを意識しなければならない現代なのだ。

快勝!

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 こういう勝ちパターンは気持ち良い。

カラス退散

 車で走っていると、苦しい看板を見かけることが多い。

 苦しい看板とはちょっと意図と文章(伝え方)、狙いと表現がずれている看板である。

 その看板には「カラス退散」と書かれていた。恐らく状況はカラスの被害に遭っているからなんとかしなければならない。しかし、やってくるカラスを次々に銃で撃ち殺すわけにもいかず、水をかけたり音で脅したりしておられたのでしょう。それでも、効果がなくカラスがやってきてゴミをつついたり建物に糞を撒き散らす。この状況をなんとかするため建物のある敷地内に、しかも国道に向けて「カラス退散」という看板を設置されたのだ。しかし、さて、この看板の効果は?結果、どうなったのだろう?看板の効果はあったのだろうか?
 よくカラスがとまる柱にたくさんの針を敷くとか、捕獲するためにトリモチを敷いておくのなら、「カラス退散」というニュアンスではないし、丁寧に言えば「お願いです。カラスさん達、どうか退散してください!」とでもここの家主さんは言いたかったのだろうか?そもそも、「カラス退散」という看板をつくろと着想した時点ですでに実は「なんでやねん!」状態なのだが、それでも家主さんは苦肉の策として「カラス退散」という看板を設置されたのだ。

 結果、カラスは文字が読めないわけですし、わざわざ看板用の支柱を敷地内に立てて、5枚(5文字文)の看板を設置したわけだから、どうかどうか、この看板の上にカラスが来ないようにと願うばかり。

 「カラス退散」、不思議な看板である。

何故、ブーイング?

 世界陸上。

 ガトリンが金メダル。

 しかし、スタートラインのネームコールの場面でひとりブーイング。

 過去のことがそれほど気になるのですか、皆さん?

 あのスタートラインに立っている8名は世界最速の男たちなんですよ。

 なんで、ガトリンだけブーイングなの?

 ロンドンのあの観客席にいた皆様にかなり失望しました。

 ガトリン、正真正銘公明正大な素晴らしい金メダリストでした。

 ちょっとの銅メダルの人が目立っていましたが・・・。

 う~ん、やっぱり、100mは最高の競技です。痺れます。心が震えっぱなしです。

台風5号。

 毎年、長浜エリアでは台風被害は比較的に少なかったが、今回の台風5号は記録的な雨量でした。午前2時頃に避難勧告が長浜市から出て、その内容は姉川の氾濫警告でした。北部の山あいでも記録的な雨量だったらしく姉川が氾濫しました。今も長浜市北部の木之本町にも大雨による影響で土砂崩れ災害を促す警告が発信されました。避難された皆様のご無事を祈念いたします。長浜市内は姉川の氾濫による被害はありませんでした。ありがたいことです。

「わた菓子」づくり

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 昨日は自治会事業で私は「わた菓子」づくり担当でした。この手間のオレンジの機械で1時間、わた菓子をつくり続けましたが、なかなか上手くつくれません。なんとか、後半でやっとそれらしいカタチになったのですが、子ども達からの評価は純粋で自由でストレートです。「小さい小さい!」「変な形やなぁ~!」「もっとデカくしてぇ!」などと言われながら、一心不乱にわた菓子づくりに取り組んでいました。運営サイドの皆様、炎天下の中、本当にお疲れ様でした。楽しい夏の事業になりました。

凛じろうさんのパスタ

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 近江八幡の「凛じろう」さんに行ってきました。とても美味しいパスタでした。パスタの種類もとても豊富でしたので、また、別のメニューを食べに行きたいです。