万次さん。

 非常に迷ったのですが、原作を愛読しているファンとして、例え、世の中の評価が良くなかったとしても、この作品は観ておく必要性を感じ、心して映画「無限の住人」を観た。

 ほぼ、ネットに書かれている評価通りで、見終わって心が震えるような作品ではなかった。ある程度、予測・想定・覚悟していただけに、意外とニュートラルな心持ちで最後まで観ることができた。

 では、何故、原作のような感動や衝撃が映画にはなかったのか?配役や場面、セリフのやりとり、シーンのディテールなど、言い出したら止まらないぐらいの別物だった以上に、致命的なポイントが3つあることに気がついた。漫画原作のファンならこの3つのポイントは頷けるだろうが、映画を観ただけなら比較できないのでピンと来ないかもしれない。

 全ての登場人物に原作との違和感があり過ぎて、いかに原作がつくりあげた存在感が凄まじく秀逸だったかを改めて認識しながらも、何より、ポイントは「万次さん」である。背中の「万次」という文字のこと、隻眼の特殊メイクの処理品質、身長と体格、刀の構え方・打ち方などなどは言うまでもなく、原作の万次さんが絶対しないことを映画の万次さんは平気でやっていた。

 一つ目、万次さんは山道を走らない。

 二つ目、舌打ちはしない。

 三つ目、血栓虫にしゃべりかけない。

 この主人公の設定は監督が決めたのか、演出家が決めたのか、主役本人が決めたのか一般人には知る術はないが、原作を読み込んでいるのなら、この3つは絶対やってはいけないことだ。何故なら、これをやってしまうと万次さんではなくなるからだ。物語の進行上、致し方なかったのだろうが、それでも、移動の表現なら、カット割りで編集できるだろうし、セリフ回しも「舌打ち」を除くことはできる。さらに、「血栓虫」にしゃべりかけるってことは、それ自体に意味が生まれる。例え心の声だったとしても、セリフとして言葉として外に出てしまうと別の意味が生まれるのです。これら3つの判断ミスで、映画の中の万次さんは、原作の万次さんとは別物になってしまっている。日本の最高チームが映画製作に取り組んでいるはずなのに、肝心要の「万次さん像」が原作から継承できていないように感じた。非常に残念である。

 ハリウッドでワンピースが映画化されるらしいが、恐らくこちらも原作とは別物になるだろう。漫画が映画になるとき、かならずこのような不具合が生じる。この場合、不具合ではなく、興行作品として必要な要素であり改造ポイントなのかなとも捉えているが、それでも、原作を越えることはない。だから、実写版の映画作品を観る時は「絶対に越えないモノ」という覚悟が必要。

 現代では、漫画作品がテレビアニメ化・映画化・小説化されたりするのは一般的な流れになっているが、この流れが逆流することはなく、テレビアニメ・実写映画・小説が「後始末」「消化試合」のような状態・状況になっているのは、それぞれテレビ関係者・映画関係者・作家さんたちは容認しているのだろうか?それとも、この流れを逆行きできない差し迫った大きな理由が何かあるのだろうか。

 漫画作家のイマジネーションに俳優を割り当て、物語を再構築し、映像化することで、何故、ここまで全体的な存在感が劣化していまうのだろう。恐らく、監督や製作が真のファンではないから、演じる役者達が漫画作品を理屈で捉え、仕事として捉え、取り組んでいる以上、漫画作品を越える映画物語は生まれないのだろう。むしろ、それほどまでに「漫画」という表現方法は他に類を見ない孤高の表現手法なのだとなる。

 子どもの頃からそんな秀逸な漫画作品を身近に感じながら、リアルタイムで過ごせたことを今更ながらこの年齢になり本当に幸運だったと感じている。

 つまり、漫画作品の最大の魅力は「誰とも共有する必要がない」からなのだろう。それを、劇場で多くの人に観せるためにとか、広告(視聴率)ありきのテレビで楽しませようって理由がある以上、原作の「光っている部分」を失っても理論・理屈をカタチとして残さなければならないのだ。この流れに無理があるのだから当然といえば当然だ。