2018年01月 アーカイブ

35年モノ。

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 これは18歳の冬に買ったヒーター。当然、部屋にはこたつはあったがエアコンなどなかったので空気がとてつもなく冷たい。うん、河内の冬は寒かったのです。寒さに耐え切れず寮の近くの電気屋さんで買った一番安いヒーターでした。大阪河内で4年、東京で5年、吹田で4年、そして、長浜に持ってきました。ずっと、毎年、冬になると仕事場で使っています。春になれば丁寧に掃除をしているので故障は一切なし。今日は今年一番の寒波がやってきたということで仕事中はずっとこれで暖をとっていました。かれこれ35年モノのヒーターである。昔の製品って壊れないですね。

無人のコンビニ。

 シリコンバレーでアマゾンが無人のコンビニをオープンしたらしい。さすがのアマゾンもオープンまでに様々な技術的苦難の連続だったらしく、実際、レジのスタッフをAIに置き換えるまでには相当の苦労があったらしい。どの程度の苦労だったのかは想像もつかないが、新聞の記事で分かる範囲としては商品の認識を店内のモニターで徹底的に管理する技術が最大の壁だったらしい。さて、人間がいるかいなかについてはさほど大きな問題ではなかったらしく、じゃあ、今、コンビニで毎日商品を確認したり現金を受け取りおつりを渡すという業務は、どうやら大きな問題ではなかったのだ。長浜にもコンビニは多い。早朝、釣りに行く時はかならず朝食や飲み物を買っている。恐らく若い学生さんだろう最小限のテンションで対応してださるが、もし、逆の立場だったらそうなるだろうな、こんな早朝にパンとドリンクを買うお客の相手って大変だなぁと感謝しながら買物している。が、そんな気遣いも必要なくなる日が来るのだ。ひとりのスタッフがたくさん並んだお客様を意識しながら、細かい商品を確認しながらオロオロと対応している風景もいずれ過去のモノになる。と同時にコンビニで働いているレジ打ちの仕事はAIに代用される。コンビニのオーナーにしてみれば、バイトのシフトややっかいなスタッフに心労が蓄積することもなくお店を経営できるから理想と言えば理想だが、AIがオーナーになる場合もある。つまり、土地と店舗とAIがあればコンビニが成立するのだ。よく映画で強盗がピストルをつきつけレジから現金を強奪するシーンを観るが、それも過去の話になるのだ。

 どんどんどんどん、AIがヒトの仕事を代用していけば、生活は便利になりクリーンになり円滑になるが、それほど世の中を無人にしたいと考えているヒトは自分自身はAIでは代用できないという根拠や自負があるのだろうか。あるんだろうなぁ。あるからつくるんだろうなぁ。利便性や理想を追いかけて行くと、そこは無人になるのだろうか。それほどヒトはやっかいな存在なのかな。

犬も歩けば。

 「犬も歩けば棒にあたる」という言葉がある。ヒトとて歩き続けていればなんんらかの棒にあたるもの。ただ、犬は棒を探して歩いていたわけでもなく、漠然となのか明確な意識を持って棒にあたることを想定したのか否かという部分が気になった。この言葉を最初に語ったヒトのニュアンスやフィーリングを「歩く」を「生きる」に置き換えて推測してみる。

 恐らくその犬は毎日の散歩コースを飼い主といっしょに歩いていたような気がする。野良犬ではなかったような気がするのだ。だって、棒にあたる犬を見たヒトでなければこの言葉は生まれなかっただろうし、その棒が犬にとって何か価値のあるモノだと感じなければ「あたる」とは表現しないはず。ある日、飼い主が愛犬と一緒に散歩していた。特にどのコースを散歩したいとは考えず、毎日のルーティーンだったはず。犬も日課だから元気に歩いていただろう。理想的な犬の散歩は犬が飼い主と同じ速さで歩き、決して飼い主の前には出ないのが飼い主と愛犬の良い関係だそうだが、うちの愛犬が僕と並走していた記憶は一度もない。常に綱をグイグイと引っ張り自分が行きたい方向に進んだ。常に前のめりなタイプだった。一度、散歩中の路上で綱を外したことがある。たった一度だけ。普通、テレビに登場する優秀な犬だったら、綱を外しても飼い主の廻りをウロウロしたり、電柱を見つけてマーキングするだろうと思って綱を外した。数メートル先に娘もいたので恐らくその辺り止まるだろうと。しかし、綱を外した瞬間、彼は今まで見たことのないような瞬発力で一直線で疾走した。耳も疾走モードだからペタンと寝て、尻尾もしっかり巻いていた。彼はそのまま交差点に向かい、当然、赤信号で止まることなく一切速度を落とすことなく道路を横断しかけた。しかし、当然、車が右側から現れ急ブレーキで止まってくださり、彼は前輪に巻き込まれる直前で四つんばいになり停止していた。本能で全力疾走し、本能で車の危険を感じ、その場に停止したのだ。僕はドライバーに怒られて愛犬を抱えその場から撤収した。僕が安易に綱を外したことが原因だ。その日から散歩中に何があっても綱を外していない。

 彼も15年目。もう散歩には行けない。

 やはり、棒にあたる程度の生き方が良いのだ。そして、犬にもヒトにも綱は大切なアイテムなのだ。本能に任せ疾走する姿は優美かもしれないし、その姿は理想で自由そのものなのかもしれないが、棒にあたるためには基本歩くこと。歩くことの大切さを教えてくれた愛犬の想い出話でした。ゆったり歩いていれば何かに当たるのだから。生きるとはそういうことが大切。

Bug(バグ)。

 創世記のコンピューターの回路に蛾が入り込み誤動作を起こす原因になったことから、プログラムの不具合・欠陥・誤動作を「バグ」と呼ぶようになった。人為的なコードのミステイクが本来の原因なのだが。美しいコードを連ね意図する機能を再現するプログラムだが、常にバグが潜む可能性が消えない。僕はプログラムを1から記述する知識も経験もない一般ユーザーなので、バグの影響で致命的なビジネス上の失敗やトラブルを蒙った経験はないが、仕事としてプログラムを記述しているエキスパートのヒト達にしてみれば、完璧無比なプログラムを目指している最中に不本意なバグが混入することは死活問題。バグのおかげで多大なる被害や費用不遜を引き起こされたらたまったものではない。

 さて、デザインの仕事ではどうか?

 むしろ、美しいデザインとは完璧なコードのような法則や方程式は存在しない。その美しさや価値を評価する基準はほぼ感覚である。当然、理論や理屈は必須であり、基本的な構造を成果として生み出すためには必要不可欠ではあるが、理論と理屈で汲み上げたデザインが僕は美しいとは思わない。そもそも起案・発案・着想の段階で言語的数値的な素材から良いアイディアが生まれるケースが少ないのだ。感覚が常に優先するため、つくり手が五感から得た情報を言葉に変換する作業からデザインは生まれると僕は捉えている。

 当然、バグから良いアイディアが生まれる場合もある。

 完璧なプログラムを装備したAIがいつしか「デザイン」を生み出す時が来るのだろうが、その時、僕はそれを「デザイン」と感じることができるのだろうか?テレビや新聞で「AI」という言葉を聴くたびにそのことがとても気になる。

攻撃性。

 映画「ローガン」を観ていてドキリした言葉があった。悪役の博士がこう言っていた。

 「人間に攻撃性を学習させることはできない。」と。

 映画の世界だから設定次第で「学習できる。」でも良い場面だが、博士は神妙な表情でそう言い切っていた。その言葉にこの映画の大きな真実・真理があるように感じた。

 さて、「人間の攻撃性」とは具体的に何だろう?言葉を変えると「闘争本能」になるのだろうが、そもそも石器時代から人間はその種を存続させるために闘争本能を活用してきた。言語が生まれた頃からか、産業革命の頃かは分からないが、人間は「理論」を生み出す。アインシュタインがフロイトに問うたように「ヒトは何故戦争をするのか?」という極論について、この両者でさえ明確な答は出していない。つまり、理論でヒトの本能は定義できないのだ。そして、学習とは「攻撃性」を抑制することなのだ。

 ノーランの「ダンケルク」を観た。多くの映画監督は必ずその経歴の中で「戦争」をテーマにして作品を必ず生み出す。最初の戦争映画が何か僕には分からないが、大学時代からたくさんの戦争映画を観てきた。そこには「愛するために自命を投げ出す美学」が様々な手法で描かれ、共感できる手法もあるがそうでない作品も多い。ヒトがヒトを殺めるのに真理など存在しないと思いたいが、それも状況次第なのだ。しかし、ノーランはノーラン独自の視点で「戦争」を描いていた。いくつもスルーしている黙認しているゾーンはあるものの、辛辣に誠意をその映像美に刻印していた。本当の攻撃性とは誰かを殺めることではなく自身が「勇ましい」ことなのだと。

 仮想空間のデジタルVRコンテンツの中に本質的な攻撃性が存在しなのは究極の美学であり理想なのかもしれないが、五感をテクノロジーで誤魔化すことに、さて、ヒトはいつまで満足できるのだろうか?手の中にある電子機器のスイッチをOFFにした時、本質的な攻撃力がONになるような気がしています。

いい絵、いい音楽、いい人生。

 「いい絵」「いい音楽」「いい人生」はどこか似ている。

 この「いい」の部分は物質的な価値や権威や根拠とは無縁で、感覚的に「いい」のである。

 マスメディアやインターネットの中では絶対的に「伝える使命」があり、伝わらないと死活問題になるわけですから、どんな方法を講じても伝える必要があります。その作業を左脳は受け持っているわけで、使命感を前面の出している生真面目なタイプのヒトはそのルートで理想を追いかけている。あまりにも長い人生でそのルートを追いかけてこられたヒトというのは、そこにのみ価値観が収束している。むしろ、それ以外の価値観を習得できていないので、頭ごなしに実直でないヒトを否定してしまいます。今まで僕はそういうタイプのヒトをとことん否定してきた。というか無視してきました。本質的に共感できないので無視するしか術がなかったのです。でも、少しだけ見方のアングルを変えるとそういうタイプのヒトの背景や根拠が実感できたのです。言葉や行動に表れる部分だけを捉えて安易で軽率な判断をしていたのは僕だったからです。それに気がついてから感情的になり軽率な言動や行動が極端に減りました。つまり、理論理屈で「共感」や「思いやり」を捉えて、断片的な姿勢・態勢だったことを改めようと努力し試行錯誤しています。

 当然、書籍や他人の言葉に対しても同じ捉え方になりました。

 「いい絵」とは技術的に優れ思考が整理され然るべき手法で生まれているだけだと断片的に捉えていた節がありましたが、いやいやそうではなく、描き手はそうなるべき状況と真意があり、意図する以前に、そうなるべくしてそうなった絵なのだと。だから「いい」と捉えられる。

 「いい音楽」も然り、それは技術とか理論理屈とは別次元の、いや、次元などとは無縁の演者の本質や真意が自然に溢れ出しているからこそ、「いい」と実感できるのです。最近の事例では「ONE OK ROCK」のライブが正にそういう時間でした。

 当然、それらの捉え方が「いい人生」に結びつくわけですから、「いい仕事」を展開するためにはこの感覚をより高める必要がある。と言っても無碍に整理したり定理化したり言語化するのではなく、常に変化を受け入れられるように余裕をつくっておく事が理想。

 その先に必ず「いい人生」があるような気がしています。

苦手と得手。

 僕には多くの苦手ゾーンがあります。ヒトは僕の得手の部分だけを賞賛し評価してくださいますが、いやいや実のところかなりのポンコツなのです。このジャッジを一番冷静にしてくれるのはやはりかみさんです。もしも、かみさんがいなければ僕のような豚は煽てられ続け、登れもしない高い木に登り、間違いなく墜落して致命傷を受けていたはず。それを戒めてくれる存在がかみさんなのです。美辞麗句ではなくそれは何をどう解釈しようが揺るがない真理なのです。だからこそ人生のパートナーとして出会っただと捉えています。一部、共有する部分もありますが、お互いの素養・ポテンシャルは相反しています。当然、言葉ではとことんぶつかり衝突するわけですが、それさえ理想的なバランスなのです。自分勝手な人間がそう認めざる得ない、言葉にしているのですから、これは誰に何を言われようが僕の真実です。

 世の中の夫婦や恋人がどうかは知りませんが、テレビのゴシップを観たりする状況では、そこで語られている問題があまりにも安易過ぎて芯を喰っていないような気がします。理論理屈では運命共同体なわけですから、理想も同じ、趣味趣向も同じ、完全無敵な共感体制が理想であり、捻れたり誤差が生じたり些細な綻びが人生を左右する大問題のように誇張されていますが、そんなことは「肩の上のフケ」のようなモノ。自分の中の「苦手と得手」を実感できていれば、どうバランスをとればいいのか分かるはず。それが致命的な結論になってしまうのは、お互いにその結論を求めている意外に他ならないのです。つまり、そもそもの大前提が間違っているというか、捉え方が未熟なのだと。とは言え、僕が成熟していたという意味ではありません。だって未だに何をどう捉えても成熟には程遠い人間なんだから。むしろ、「未熟」を受け入れているから相手のことを考えようとするわけです。ここが最大の分岐点です。小手先の知識や経験値に翻弄され奢り固執していることに気が付けば、理想的な「未熟」「未完成」の状態でいることができるのです。未熟だから焦り憤り悲哀を引き寄せるのですが、その状態からただ逃避したいだけのヒトにはもう変化する機会は巡ってこないわけです。なぜなら「変化」とは「恐怖」だからです。

 苦手なことが多い僕ですが、それを補佐し示唆してくれるパートナーの存在は正に「金棒」なのです。だから、僕も有能な秀逸な磐石な誰かの「金棒」になろうと精進するわけです。これが人間社会の基本構造だと思います。

 まぁ、「得手」の部分は何をどう揶揄されようが、誰に何を言われようが、チタニウムのようにダイヤモンドのように傷つかないので、このまま現状を維持し、本年もさらなる覚醒を目論みたいと思っています。

五感から言葉へ。

 20代の頃、養老孟司さんの書籍「唯脳論」に出会い、それまでに自分の中でモヤモヤしていたことのほとんどが美しく辻褄が合った実感がありました。養老さんは解剖学者でありながら論文で権威となることを止め、書籍という手法で素晴らしい言葉を残されています。その頃の僕は養老さんの豊富な知識や経験値のひとつひとつに感激していたわけですが、そもそも専門知識のない一般人に何故、養老さんがそこまでの言葉を連ねられたのか?という疑問はまだありませんでした。刺激的な言葉のひとつひとつに感激感動し、自分の思考と相関させて酩酊しただけだったのです。しかし、僕もそこそこ年齢を重ねることができ、別の観点で養老さんの言葉を捉えることが少しだけできるようになったようです。最新刊の「遺言」はそういう観点で楽しく読みました。

 その書籍の中、多くの提言があったのですが、やはり、気になるところは現代のデジタル仮想空間に対する提言です。「人間の都市化」については「唯脳論」から養老さんが提言しておられることですが、今回の「遺言」でもさらにレイヤーを重ね重厚に言葉を選び、示唆しておられました。人間社会は「恐怖」を排除している故に空虚になっている。失敗や想定外のトラブルを排除し、一見、美しい理想的な社会を目指している一方で、本来、五感が捉えているあらゆる情報の中で「都合の良い部分だけ」を切り取って再構築いる。そして、都合の悪い部分を理論理屈で処理し、法規で排除するためにデジタル化という手法に盲進邁進しているのです。私のデジタルオンラインゲーム嫌いも根の部分にその感覚があるのですが、何をどう捉えても「その手のゲームは楽しくない」のです。ゲームメーカーさんの開発者に対して失礼な言い草ですが、あれは不毛だと僕は捉えています。アナログ人間の個人的な好みだということは否めないのですが、まったく好きになれない。よりも、山や琵琶湖に出向き、同類達と楽しい時間を過ごす場所こそが僕のいる場所だと捉えています。自然の中で五感が受け取った様々な変化に対して、僕自身がどう対応するかに本質的な楽しみがあり、その中にこそ「僕の答」があると捉えています。

 本年はできるだけ時間をつくり自然の中で想定外のトラブルに直接向き合いながら、僕自身がどう反応できるかをエンジョイしたいと思っています。いずれ、五感は鈍化していきますが、決して、デジタル信号に心を奪わぬよう、常に適正な判断(言動や行動)ができるように兜の緒を締め、ふんどしを締め直したいと思います。

 「五感から言葉へ。」とはそういう想いでチョイスした言葉です。

明けましておめでとうございます。

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 新年、明けましておめでとうございます。

 我が家の愛犬チョップ君も15年目となり、本人はかなりボケてきてきましたが、その反面、愛らしくなり今まで得られなかった家族からの愛を一身に受けています。本性・本能だから、そこら辺によくいる小型犬のようなタイプではなく、むしろ野犬のような性格でしたのでなかなか愛情を受け取るタイプではなかったのですが、こうなると可哀想と可愛いが混在して、ああ、生物の一生は辻褄が合うようになっているのだと捉えています。

 「五感から言葉へ。」決して、犬だから言葉は発しませんが、人間も同じ。そのふるまいや表情や行動を自制し律することで適正な存在を示せるのだと思います。理論理屈を抑制し先入観や固定観念やさまざまなバイアス(思考の癖)を無くし、五感が得たことを素直な言葉に変換できるように今年は試行錯誤したいと思っております。災いを引き寄せる言葉を控え、自重しながらも、言うべき言葉を選べるように留意したいと思っています。