苦手と得手。

 僕には多くの苦手ゾーンがあります。ヒトは僕の得手の部分だけを賞賛し評価してくださいますが、いやいや実のところかなりのポンコツなのです。このジャッジを一番冷静にしてくれるのはやはりかみさんです。もしも、かみさんがいなければ僕のような豚は煽てられ続け、登れもしない高い木に登り、間違いなく墜落して致命傷を受けていたはず。それを戒めてくれる存在がかみさんなのです。美辞麗句ではなくそれは何をどう解釈しようが揺るがない真理なのです。だからこそ人生のパートナーとして出会っただと捉えています。一部、共有する部分もありますが、お互いの素養・ポテンシャルは相反しています。当然、言葉ではとことんぶつかり衝突するわけですが、それさえ理想的なバランスなのです。自分勝手な人間がそう認めざる得ない、言葉にしているのですから、これは誰に何を言われようが僕の真実です。

 世の中の夫婦や恋人がどうかは知りませんが、テレビのゴシップを観たりする状況では、そこで語られている問題があまりにも安易過ぎて芯を喰っていないような気がします。理論理屈では運命共同体なわけですから、理想も同じ、趣味趣向も同じ、完全無敵な共感体制が理想であり、捻れたり誤差が生じたり些細な綻びが人生を左右する大問題のように誇張されていますが、そんなことは「肩の上のフケ」のようなモノ。自分の中の「苦手と得手」を実感できていれば、どうバランスをとればいいのか分かるはず。それが致命的な結論になってしまうのは、お互いにその結論を求めている意外に他ならないのです。つまり、そもそもの大前提が間違っているというか、捉え方が未熟なのだと。とは言え、僕が成熟していたという意味ではありません。だって未だに何をどう捉えても成熟には程遠い人間なんだから。むしろ、「未熟」を受け入れているから相手のことを考えようとするわけです。ここが最大の分岐点です。小手先の知識や経験値に翻弄され奢り固執していることに気が付けば、理想的な「未熟」「未完成」の状態でいることができるのです。未熟だから焦り憤り悲哀を引き寄せるのですが、その状態からただ逃避したいだけのヒトにはもう変化する機会は巡ってこないわけです。なぜなら「変化」とは「恐怖」だからです。

 苦手なことが多い僕ですが、それを補佐し示唆してくれるパートナーの存在は正に「金棒」なのです。だから、僕も有能な秀逸な磐石な誰かの「金棒」になろうと精進するわけです。これが人間社会の基本構造だと思います。

 まぁ、「得手」の部分は何をどう揶揄されようが、誰に何を言われようが、チタニウムのようにダイヤモンドのように傷つかないので、このまま現状を維持し、本年もさらなる覚醒を目論みたいと思っています。