攻撃性。

 映画「ローガン」を観ていてドキリした言葉があった。悪役の博士がこう言っていた。

 「人間に攻撃性を学習させることはできない。」と。

 映画の世界だから設定次第で「学習できる。」でも良い場面だが、博士は神妙な表情でそう言い切っていた。その言葉にこの映画の大きな真実・真理があるように感じた。

 さて、「人間の攻撃性」とは具体的に何だろう?言葉を変えると「闘争本能」になるのだろうが、そもそも石器時代から人間はその種を存続させるために闘争本能を活用してきた。言語が生まれた頃からか、産業革命の頃かは分からないが、人間は「理論」を生み出す。アインシュタインがフロイトに問うたように「ヒトは何故戦争をするのか?」という極論について、この両者でさえ明確な答は出していない。つまり、理論でヒトの本能は定義できないのだ。そして、学習とは「攻撃性」を抑制することなのだ。

 ノーランの「ダンケルク」を観た。多くの映画監督は必ずその経歴の中で「戦争」をテーマにして作品を必ず生み出す。最初の戦争映画が何か僕には分からないが、大学時代からたくさんの戦争映画を観てきた。そこには「愛するために自命を投げ出す美学」が様々な手法で描かれ、共感できる手法もあるがそうでない作品も多い。ヒトがヒトを殺めるのに真理など存在しないと思いたいが、それも状況次第なのだ。しかし、ノーランはノーラン独自の視点で「戦争」を描いていた。いくつもスルーしている黙認しているゾーンはあるものの、辛辣に誠意をその映像美に刻印していた。本当の攻撃性とは誰かを殺めることではなく自身が「勇ましい」ことなのだと。

 仮想空間のデジタルVRコンテンツの中に本質的な攻撃性が存在しなのは究極の美学であり理想なのかもしれないが、五感をテクノロジーで誤魔化すことに、さて、ヒトはいつまで満足できるのだろうか?手の中にある電子機器のスイッチをOFFにした時、本質的な攻撃力がONになるような気がしています。