2018年05月 アーカイブ

僕の贅沢。

 僕の贅沢は些細なことが多い。

 そのひとつが「日曜日の昼寝」。12時30分頃から午後2時まできっかり90分。

 この程度のことが「贅沢」だと感じられることが実は一番贅沢で健全な証拠だと思うのです。だって、いろいろ悩み事や心配事があったり、体調が悪かったりすると、日曜日の昼間から90分爆睡ってできないものです。うんうん、贅沢贅沢。

本日の僕。

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 本日、国のある機関への申請書を提出するために、プロフィール写真を撮影した。それがこれ。そして、下記のようなプロフィール原稿を添えて提出しました。

1964年生まれ。54歳。滋賀県長浜市在住。
大阪芸術大学美術学科を1986年卒業。
東京・大阪のデザイン制作会社勤務を経て、現在、株式会社アクト代表。
企画・デザイン・印刷・WEBサイト・映像制作などの仕事に取り組んでいる。

 素っ気のない写真、素っ気のないプロフィール文ではありますが、髪の毛を増やしたり顔色を良くするなど自由に写真を編集することはできるし、プロフィール原稿もあれやらこれやらと盛りだくさんに書き出せばキリがない。盛ることも偽ることも一切諦めて限りなく「素」を心掛けました。

企画書づくり

 仕事柄よく企画書を読む。勿論、企画書をつくることもデザインの仕事のひとつなので、仕事を始めてから長く企画書について試行錯誤を重ねてきた。大阪で広告代理店のクリエイティブ局の方と組んで企画の仕事をしていた頃は、ほぼ、1年中企画書のことを考えていた。いろいろな企業様から新規の依頼があった場合、長年、取引関係があるクライアントでも年間の広告計画を刷新したいと依頼があれば年間企画をつくるなどなど。また、新しい案件を獲得する目的や「おつきあい企画書」を制作も仕事(営業)のひとつだった。この企画書をつくるという仕事、なかなか慣れていないと取り掛かりが分からない。マンネリ化してもいけないのだが、ある程度企画書づくりには手順があり、資料や情報を整理しコンセプトワーク文をそれらしくした程度では仕事案件になる実現率が低い。当然であるが、案件を安定して確保・獲得するためにはそれ相当の内容・品質、そして、提出する際のプレゼンテーションの「間合い」が結果を左右するのだ。「企画書づくり」というキーワードで検索すれば、今でこそいろいろな手法やコツ・ヒントがヒットするが、20年以上前は完全アナログの世界で、実際の企画書づくりの内容もさることながら、冊子としての企画書を制作・製本してクライアントに提出できる状態にするにもかなり高いテクニックが必要だった。

 さて、では企画本体の部分だが、安易なアイディアや市場のニーズを考慮していない時代の潮流から逸れた企画書は言語道断としても、的を得るためには頭のコンディションを常に良い状態にしておかなければならない。ここが実は一番大変で苦労するのだ。とにかく、「企画書をいついつまでにください!」という連絡が突然やってくる。精通していない分野の企画であれば、基礎知識やその分野のセオリーや常識レベルの知識をすべて短期間で理解・消化しなければならない。この準備を怠るとアイディアは出てこない上に企画書本体の品質は上がらず、陳腐で安直な内容になってしまう。つまり、依頼・要望があってから時間の勝負と提出する間合い・タイミングが仕事の実現率を大きく左右するのだ。内容も当然、訴求力があり独自性があり時代性もなければならないし、荒唐無稽な仮定・仮説の連続では共感も信頼も得られない。まさに、デザインの仕事を展開するためには、「企画書づくり」はスルーできないのだ。

 当然、しっかりと企画書を制作する時間の余裕さえない場合も多く、「なんか良い企画ないですかねぇ?」と無茶振りされて「そうですね、また、考えてみますね。」では仕事は生まれない。その場その瞬間に相手の意図を瞬時に汲み取り、日頃から暖めて整理しているアイディアや企画のアウトライン案などを即座に返してこそ、信頼関係を築く糸口になるのだ。軽率に「なかなか、そんな都合のいい企画ってどこにもないですね。」などとは口が裂けても言葉にしないという強い覚悟と緊張感が必要なのだ。

 しかし、デザイナーやクリエイターにもいろいろなタイプいて、予算や原稿内容(主旨や仕様など)が確定した段階から仕事だと捉えているヒトはその前段にある「企画力」を習得できない。この意識がないと「デザイン」をオペレイト(作業)だと捉えてしまいがちなのだ。だから、「ブレインワーク」という観点がなく、当然、企画会議など成立しない。とは言え、企画会議にセオリーはないし、こうあるべきだなどいう正解もないのだが、「ブレインワーク」を言葉ではなく体感・実感で習得しているヒトとは会議に花が咲く。また、良い企画が良い仕事を生み出すとも限らず、「置き」の企画書が採用され、「攻め」の企画書が見事にスルーされる場合もあるから、具体的に何をどのようにどの程度習得すればいいのか理屈では全く分からない場合も多いのだ。だから、一辺倒に教えることもできないし、手順を説明することも難しい。これがデザインの仕事における「企画書」の実態なのである。

日本理化学工業

 仕事とは何なのか?

 わずか1時間程度テレビ番組で知ったこの会社様の物語。

 「必要とされている」ことに喜びを感じられなくなったら仕事は作業になる。

 「仕事」とは生きるためのあらゆる意味での「現実」なのだ。

 「現実」から目を背け、何か別のモノに置き換えた瞬間、「仕事」は代価を得るためのただの無味乾燥な手段になってしまう。代価を得ることはとても大切なことなのだが、日本理化学工業様ではそのことも含めた「何よりも大切なモノ」が存在し、見事に会社としての機能を発揮し成果をあげている。

 健常者であることが、これほどに苦しいと感じた「日本理化学工業」様の物語だった。

ひらめき。

 論理的な思考は大切。しかし、理論や理屈は何回も何回も同じ場所でクルクル廻っているイメージがある。一見、正解や結論を求めている態勢だが、実はクルクル廻ることが狙いで回転の速度や複雑さをお互いに相関しながら思考の枠から外へ出ることを諦めている印象。情報を整理したり体系化することは絶対に重要な意義のあることなのだが、いつも同じ立ち位置で景色が変わらないのは閉塞感があり辛い気持ちになる。例えばいくら会議で「活性化」というテーマを協議審議しても結局会議の枠の中で次回へ結論が持ち越しになる。結論を出すことは勇気がいるのだ。ビジネスの現場なら勇気に代償が発生するし、政治の世界なら自分の立場を失いかねない。日常生活でも結論を出した人は小さな責任が発生するので、井戸端会議や地域の組織化された協議の席でも結論は控え、総意や多数決の場に結論を出すことが、結果、キャリーオーバーになる。確かに責任を背負うのは誰しも経験するところだが、勇気と責任の関係はとても密接で「自己責任」という重荷をできれば抱えることなく浮世を適正に流れていきたいと考えるのが常。そうして組織は常に結論を先送りにしてエネルギーや叡智が枯渇していく。資金源が豊富なうちはそれでもいいかもしれないが、ちょっとその態勢はつまらない。
 誰でも「ひらめき」がある。些細なアイディアでも偉業への道筋かもしれないし、組織で全否定され多数決で否決された結論からビックビジネスの芽が出ることもある。そんな「ひらめき」を「ひらめき」として意識するには日頃からどんな思考パターンでいればいいのだろう?「ひらめき」は論理的思考からは生まれないとして、では、どんな場面でそれは発生するのだろう?いつでも自由に起動できるひらめきを生み出すスイッチがあればいいのだが。そんな便利なスイッチはアマゾンにも楽天にも売っていないし、検索してもヒットはしない。
 「ひらめき」と同位に「企画」という言葉がある。最近、改めて「企画」と実用性の関係を整理しようと思っている。思考と感覚を相関させながら、僕の中にあるであろう「ひらめきスイッチ」を整理したいと。

どこでも、誰とでも。

 尾原和啓著「どこでも誰とでも働ける45の仕事術」という本がある。新聞広告で発見してちょっと気になっています。
 広告コピーには「どこでも通用する人間になりたいという思いに、グーグル、マッキンゼー、楽天からベンチャーまで12回の転職を重ねた著者が応える!」という力強い言葉が記されている。具体的に仕事のジャンルは広告には書かれていなかったので、この著者は「どんな仕事現場」でも対応可能なのだろう。逞しい方である。
 新時代、「AIに負けない働き方」や「どんな職場の会議でも活性化できる3つの方法」などとても魅力的な情報が論述・紹介されていそうな書籍なので、気分的にタイミングが合えば買うだろう。ただ、このタイプの情報は「どこでも誰とでも働きたい人」向けのようなので、著者は広く深い経験値からどんな仕事にも適用できる基礎知識やベーシックな対人能力を紹介しておられるのか?有名大企業12社での特殊な経験から独自の仕事術を開眼され、どんな仕事現場にも通用する方程式を発見されたのか?元来、マルチタスクの申し子なのか?想像推測しにくい。必ずしも「どこでも誰とでも」が幸福や裕福に繋がっているとは限らないし、実際、著者の経験値を具体的に紹介されている文章を読んだところで、次の日から「さぁ!僕もこの著者のように転職してキャリアアップだ!」とはなりにくいし、むしろ、仕事ってどこでも誰とでも働けるという最大公倍数的思考よりも、自身の思考力や行動力など知識やスキルを絞り込んでこそ達成感が上がるはず。こんな最大公約数的な解釈が理想だと僕は捉えている。少なくとも小さい新聞広告の紙面を見て読んで、こんな御託を並べられたわけだから、すでに書籍としての力があるのだ。
 僕は会社勤めは2社しか経験(7年間)がないので、「これが僕の仕事術です!」と披露できるような美しい定理・理論はない。あるのは24年の無数数多の失敗談と試行錯誤の歴史だだけ。これをキャリアと呼ぶには不完全で物足りない。未だに未完成状態の進行形渦中ど真ん中。だから、この書籍の美しい定理や著者の華やかなキャリアに嫉妬し、拒絶反応を起こしているというわけ。54年も生きてくるとちょっとやそっとでこの心の捻れを矯正できない。ゴニョゴニョ言って最後に保留する最悪の消費者なのだ。

MIDIキーボード

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 僕のDTMライフは非常にミニマムなモノだった。鍵盤のスキルというか、経験がないので、キーボードはハードルが高いと諦めていた。パソコンのキーで音階メロディーを入力する、もしくはソフトの鍵盤をマウスでクリックするなどで代用していた。しかし、最近それでは足りなくなったのだ。いくらパソコンの画面でタッチやピッチを調整しても実際の演奏のタッチを再現することが難しいと判断した。これも鍵盤の演奏スキルが圧倒的に足りないからなのだが、それでもなんとか自分のイメージしているメロディーを音源データに変換したいと考えた。小さなステップアップかもしれないが、鍵盤を用意できれば使わなければならないし、使っていれば少しずつスキルも上がるのではと期待している。以前、DTMの装備(周辺機器やソフトウエア)について専門店の方から助言を頂いた際、「実際、MIDIキーボードがあると便利ですよ」というアドバイスを素直に聞いておくべきだったのだ。素人の癖にプロのアドバイスを軽視した結果、当然のように壁にぶつかったというわけ。明日、このキーボードが到着するので、これまでの壁をひとつずつ破っていきたい。

農業について。

 僕は今まで農業についてあまり真剣に考えたことがなかった。というのも、いろいろなデザインの仕事に取り組ませていただいたが、農家の方がクライアントであったケースがとても少ないかったのだ。
 東京時代には毎週数本の装丁デザインを担当させてもらっていた経験もあり、ほぼ完成状態の文字原稿をすべて読み、文字原稿から装丁デザインを着想するスキルを習得させていただいた。興味のあるなしに関係なく仕事だから必然であり、初めての分野に対する拒絶反応など持っての外。むしろ、この経験から自分が知らない分野の知識への興味が強くなり、原稿を惰性で読んでいたらデザインの着想も必然的に同期するので、無理矢理にでもやる気を奮い起こさねばならないのだ。頭と身体は正直なもので、やる気がデザインの品質を決める。「僕も人間だからやる気が出てこなければ、良いデザインなどつくれないですね!」などと子どものような発想は言語道断なのだ。だから、結構、いろいろな分野の浅い知識がある。当然、通常のグラフィックデザインやWEBデザインにおいても様々なクライアント様と仕事をさせていただけたので、チラシやポスターやパンフレット、そして、WEBサイトをつくる際にクライアント様の業務や商品に対して時間の許す限り探求しなければならない。よって、広く浅くになりがちなのだが、それでも他の仕事と比較してデザインの仕事は広く浅くいろいろな知識を得る機会が多かった。
 でも、農業の案件は極端に少ない。梅の農家様から商品に貼るラベルやパッケージ、そして、WEBサイトの依頼を受けた時や米農家様からカタログの制作を直接発注頂いたケースなどはあったが、農業に対する興味が、これも職業病だという言い訳になってしまうのだが、納品が完了すれば興味が消えるのだ。
 そんな中、先日、京大を卒業され東大で農業を研究している教授さんと知り合う機会があった。ご当地の野菜などの農産物を販売するECサイトの受注を頂いた流れで、クライアント様がその教授から農業経営の実態をリサーチした上でこれからの農業のあり方について助言頂くという意図があったのだ。そのお話を同席して拝聴しながら、改めて僕自身も農業について考えている。今からスイートコーンを生産することはできないが、農業という仕事についてその実態をリサーチして、農業とデザインの関連性を探求したいと考えている。
 現在、僕の手の中にどんな種があり、それをどのように栽培してどんな成果物が生まれるのかは未知だが、この手順が農業のノウハウとどことなく酷似している実感があるからなのだ。