2018年07月 アーカイブ

仕事は楽しいか?

 現在、日本の中心の部分で働き方を開拓しようといろいろな理論理屈をひねり出しているような印象がある。

 「仕事は楽しいか?」と国民に聞き、無理矢理、「楽しいです」と言わせようとする理論理屈だ。

 よく、僕は「仕事は楽しいですか?」という内容の質問されることがあり、中でも「スギノさんは仕事が楽しいですよね?」と言われることが多い。そういう雰囲気が言動や振る舞いに出てしまっているのだろう。それは天真爛漫に楽しいですという感じではなく、必死に少し血相を変え気味で取り組んでいる様が相手に伝わって、そう感じて頂けているのだろう。それはとても嬉しいことで、その姿勢でこれからも仕事を続けていこうと考えているし、むしろ、そういう感じ以外で仕事ができないとも言える。これは何よりも幸福なことで、仕事が苦しいと感じている人にはどうしても理解できないようだ。僕の場合、これがデザインの仕事だからと限っていないところがまた、そういうタッチの人にしてみれば信じがたいことであり、「仕事って稼ぐため以外に何の目的があるの?」と言われた日には、僕はその人に何も返答ができないことに最近、気がついた。だって、この違いは理屈では解消・解決しないし、そういう人の感覚が僕は分からないのだ。

 例えば、日曜日に仕事をすることが信じられない方にしてみれば、「そんなに稼いでどうするのか?」という捉え方になるだろうし、遅くまで仕事をしていれば「好きな仕事ができて羨ましいですね」と嫌味チックな語感さえ混じるケースもある。僕はとにかく「自分の仕事」に対して客観的に俯瞰で捉えることができない。つまり、365日、僕と仕事の間には余計な雑念や通念が介在しないのだ。結果、これで生計を立てているわけだが、生計を立てるために仕事をしていると、自分と仕事の間に隙間ができてノイズが入る。これが最高に気持ち悪い。だから、手が届かないゾーンに対して仕事を求めない。公募展などに作品を応募して自分の実力を試したい、公認・検定・権威・属性を手に入れて仕事をより安定させたい、不動の完全ビジネスモデルに組み込まれ確固たる立場で仕事をしたい、などとは考えない。いや、考えてはいるが、絶対に実行はしないと決めているのだ。なぜなら、僕の場合、そんなノイズが仕事の邪魔になるのだ。

 仕事が楽しくない人は、ちょっとずつこのノイズを減らすと楽になると思います。

田中光さん最高!

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 秀逸な作品が無尽蔵にありますが、僕はこれが好きです。

 よくも、まぁ、ここまで、一画面で落とせるものだ。田中光さんの頭の中はどんな構造なのだろうと、呆れる、いや、敬服する。素晴らしいです。

細田守ワールド。

 細田守監督作品の世界には強力な引力がある。それは、かつて宮崎駿監督作品の中にあったモノと同じ類の引力だ。確かに大ヒットした「君の~」や漫画作品から覚醒した作品にも時代の矛先を引き込む強い引力があるのだが、細田監督と宮崎監督の作品はさらに強力で異質だ。多くのアニメ映画業界のプロフェッショナルな皆様が技術的にも興行的にも磐石のサポートをしているからこそ、これら秀逸な作品を私達は鑑賞することができるのだが、両名の作品はと特異で秀逸だ。

 特に細田監督の作品、まだ、「ミライ~」は観ていないので分からないが、主人公や登場人物(人物以外も含む)の物語が展開する世界の設定がかなり特異だ。それらのベースとなる場面設定や物語の舞台が何気ない現代の日常から、絶妙なタイミングで異空間に突然転移する。主人公に感情移入している私達はその絶妙なタイミングで今まで現実的に体験したことのない世界に放り込まれ、主人公に感情移入して共感しながらもその状況に戸惑うのだ。その設定は細田監督のどのような経験から生まれるのか?ここの部分が興味の最大の的だ。人はそれぞれ学生時代から社会人になりいろいろな経験を積み、いろいろな世界をそれなりに経験している。書籍で得た知識からも様々なイマジネーションを獲得して「自分」を形成させている。これほどに情報が氾濫した世界において、「よほどの特異性でなければ驚かないぞ!」と身構えてはいるが、いやいや、世界は広く、人間の歴史が紡いできたすべての万象と比較すれば、そんな自負など一滴の雨の雫に等しい。しかし、一人の人間のイマジネーションがこれほど多くの人に感動を与えるということは、よほど、相当、類稀なる潜在能力の持ち主だと言わざるを得ない。でなければ、因果関係が成立しないばかりか、あまりにも受身の私達が微細だ。

 イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンが言っている。

 「優れた作家は優れた2つの力を持っている。新しいモノを馴染み深く見せる力と、馴染み深いモノを新しく見せる力だ」と。

 確かに、奇想天外、荒唐無稽、支離滅裂、いずれも実は想定内なのだ。

 むしろ、自分の中にある、深海の底から蠢きながら湧き出てくる何かを掬い取ることがつくり手として重要なんだろう。古来海の中、アミノ酸からDNAが形成された瞬間のような、何か特別なタイミングである。

働き方改革。

 本日、下記のような内容のセミナー案内がメルマガで届いた。

 「働き方改革」という言葉をよく聞くけど、そもそも僕らってどうして働いてるんだっけ?
たまにはゆっくり考えてみよう。自分は何がしたいのか。自分だけで気づけないときは、楽しそうに働いている人の話を聞いてみるのもいい。かもしれない。各分野のプロフェッショナルと一緒に、あなたの「働く」の意味を見つめなおすイベントです。

とのことだ。「働く意味」とは何だろう?

 また、「働き方改革」について公的なホームページの中の記事にはこう書かれている。

 我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。こうした中、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題になっています。「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

 となっていました。「良い将来の展望」とは何だろう?

 WEBサイトにはこのタイプの文章が多い。当然、「セミナーへの勧誘」や「パブリックリレーション」が目的だから具体性に欠けるのだろうが、すべてが「多様」で結論が霧の中だ。どれだけ優れた成功事例を知ったところで、大義名分を頭で理解したろころで、本質的な「改革」は実現・達成できないことは誰でも知っている。いずれも大地に足が着いてない仕組み・理屈だからだ。

 だから、外側の仕組みや構造を改革するのではなく、多様性を受け入れて、内側をチューニングすることが大切だと僕は考えている。手持ちのコマを極端に増やすことはできないし、自然環境や社会環境がそう簡単に改革できるはずがないのだから。しっかり内側の音を聴き、心の音階を整えたい。

外来魚回収BOX。

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 中身を確認したが、「回収」はできていないようだった。この河口付近で良く釣りをしている人を見かけるが、その皆さんは回収に協力しているのだろうか。理論理屈がいっぱい込められた一見立派な箱ではあるが、中身は空だった。つまり、現実はそういうことなのかもしれない。

不自然な日本語。

 ホームページでもメールでもSNSでも、不自然な日本語を見かける。それは、海外企業の日本人向け商品ページであったり、メジャーブランドを偽るフィッシュメールだったり、文章力について意識の薄いSNSユーザーだったりする。

 いずれもどこか不自然な日本語なのだ。それは主語が無かったり、文章の流れが大きく主題から脱線していたり、結局、結論が曖昧で何を伝えたい文章だったのか分からなかったりする。しかし、全体は掴みどころがなく歪な文章なのだけれど、微妙に「悪意」の含量加減だけは感覚で分かってしまうのだ。この加減、すべて無意識だとしても必ず意図・意思が存在しているとしたら、言葉に変換する際のメンタル面(心理状態)とフィジカル面(体調)のバランスって重要です。ヨーダの「フォースのお話」は古典に習い、とことん的を得ているということなのだ。

映画「ダウンサイズ」。

 「僕は僕なんだ。」

 この台詞に辿り着くまでの途方もないイマジネーション。

 今のところ、映画「ダウンサイズ」の僕の評価は上限が見えない。つまり、青天井なのだ。

素敵な仕事場。

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 インテリアのイメージ写真を探していてたまたま発見。いつかこんな仕事場にしたいな、などと気になったので、目標として忘れぬようブログにアップ。

THE SHAPE OF WATER

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 美しい物語と美しい絵、美しい心。なにごとも難しくややこしく考え過ぎると美しさがなくなるようです。分かっているけど、「美しさ」とは何か?と、正解を求めてしまいます。でも、それは考え抜いた末に生まれるモノじゃなく、純粋な感覚の中からしか生まれてこないモノなんだと思います。

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 1994年7月4日、渡米した。目的は英語留学で大学の寮で3ヶ月ほど生活していた。デザインの仕事を離れ、ひとりでいろいろなことを考えることができた価値のあるひとときだった。空港に到着すると大学の関係者から手配してもらったタクシーの運転手がゲートで待っていた。空港から大学の寮まで送っていただいたその車中、気さくな黒人ドライバーが「今日はアメリカの独立記念日だ!知ってるか日本人?」と言われ、そうか独立記念日だったのかと再認識した。30分ほどの車中、ドライバーにN,Y,に来た目的などを質問された。24年前のお話である。

紅に染まる。

 「紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない。」

 高畑充希ちゃんが熱唱しているCMがとても気になった。完全にCMとしては成功事例だ。

 ところで、「紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない。」について少し考えてみたい。ロックバンドの歌詞だから深堀りしても核心に触れることはできないだろうし、その領域は歌詞をつくったヒトのみが巡遊闊歩できるゾーンだから、外部の一般ユーザーはKEEP OUT.

 だが、時代背景から推測するとまず「紅に染まる」ということは夕陽で照らされているのか?それとも何か業火の前に立ちすくんでいるのか?もしくは「血」?どういう状況かは分からないがとにかくこの「俺」は紅に染まっている。歌詞の語感からどう考えても平穏な状況ではないし、緊急事態であることは推測できる上、座り込んでいる態勢でもワナワナと打ち震えているわけでもなく、茫然自失状態で仁王立ちのようだ。そして、深深と胸中にこみ上げてくる「誰も慰めてくれない」という実感。つまり、この「俺」は孤立しているのだ。以前なら誰かが同じ状況、紅に染まった状況では慰めてくれたのだが、何かしらの理由でもう助けてくれるヒトも手を差し伸べてくれるヒトも消え、慰めてさえくれない状況なのだ。

 では、この状態を「俺」は悲観しているのだろうか?それとも孤高の存在となり高揚しているのか?という分析である。もし、前者なら歌詞にまでして誰かに伝えようとは考えないのではないだろうから、紅に染まった状況で、孤立したこの「俺」は、世界で唯一無二の存在になったことに対してとてつもなく高揚しているような印象を受けた。

 普通に生きていたらなかなかこんな状況にはならないが、この「俺」はよほどの世界に住んでいるのだろう。そして、そしてである。その歌詞を真摯に受け止めその高揚感を共有しているファンがいる。このシンクロはとても美しい。崇拝なのか尊厳なのか心頭なのか分からないが、「紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない!」と聴いて何かしらの共感を抱けるヒトのイマジネーションは「美しい」としか表現ができない。アートゾーンのお話だ。そんなことをCMを観ながら感じてしまった。

 ちなみに僕の場合、「わかってもらえるさ いつかそんな日になる ぼくら何もまちがっていない もうすぐなんだ!」という歌詞に初めて出会った瞬間から、いつも心の一部分が振動していて、今でもその振動は止まっていない。つまり、これも歌詞の裏にあるアートゾーンのパワーなのだ。