しっかり考えろ!

 若い頃、よく「しっかり考えろ!」「ちゃんと考えてください!プロなんだから!」「もう少し考えれば良いアイディアが出るかもしれないぞ。頑張って!」と言われた。知識も経験値も技術も足りなければどこかで調達してくる必要があるし、誰かに聞いて正解が見つかるなら手当たり次第に動けばいい。でも、「しっかり考えろ!」と言われると「まだまだ、未熟だなぁ~」と思う反面「この人は僕に期待してくださっているからなのだ」という自分への期待も膨らむ。

 しかし、「考える」とは何だろう?つまり、僕達は「考えます!」と言いながら「考えるということを考えていない」だけなのかもしれないと考えた。「考える」とは言うものの、ほぼ「思い出している」か、「感じている」かのいずれかである。記憶と感覚で得た情報の中から何か気になる「利点」をただ選択しているだけなのだ。ということは「考えている」状況で何をしているかと言えば、「連想している」か、「選択している」かだけなのだ。「連想」を想像力という言葉に置き換えると、若干、ゾーンが大きくなるが、連想も想像も同じ経路の思考が流れている状態だ。その上で、「利点」を自分自身のモノサシで推量し選択する。これが「考える」という行為・動作の実態である。だから、「しっかり考えろ!」と言われて、ただ焦ってしまうのはこの二つの動作を明確に意識できていないから。

 まず、「連想(想像)」とは言語記憶と非言語記憶の中と五感から収集した情報を一旦、ひとつのテーブルの上に並べて確認する。そして、それらの根拠や背景、因果関係を見つけて目標・目的への利点に変換するために整理すること。
 「選択」とはその整理したいくつかの選択肢からよりベストな情報をひとつに絞り込む行為である。言葉にすればたかがこの程度の事に「しっかりと!」がプラスされるだけで、あらゆる迷いが生じる。何故か?本来、生物のDNAは利己的だからである。一方、文化的な思考は利他的である。あたまひとつ抜け出したいと考えるたびに、このジレンマがあらゆる迷いを生むのだ。

 例えば「切腹」。さて、誰が得をするのか?日本の歴史を題材にした物語にはよくこのシーンが登場するが、その都度、僕はその行為で誰が特をしたのか分からない。特攻隊が片道切符でテイクオフする時の哲学みたいな思念がドラマチックに描かれているシーンも同様で、家族や恋人にしてみれば、「できることなら行って欲しくない」が本心だろう。「切腹」も個人の自由だが、家族にしてみれば納得はいかない。だけど、物語に動きを与えるため、物語を締めくくるために「切腹」や「自爆」を美化しようとする狙いが好きではない。ディテールとして本人の心の葛藤に対して、一見、共感できそうになるものの、良識のブレーキがそれらのシーンへの共感の度合いを消すことが多い。一体、この物語の「正義」の定義は何なんだ?という良識の在り方である。

 「お前は嘘をついている。俺はその能力に長けているから一発でそれが分かるんだ!」と高圧的に問い詰める男。「俺は歴史が好きだ。お前の先祖はとんでもない愚か者だから、お前は俺の前でそんな偉そうなことほざいている。お前の家系図を調べてみな、お前の先祖達はとんでもない愚か者達だ」と男。そして、脅す男を問い詰める。「俺は嘘をついているかい?」。そして、脅す男は拳銃の引き金を引く。つまり、これが考えていない人と考えている人の関係性であり、顛末であり、人類の歴史の縮図なのだ。勿論、拳銃だけがメソッドではないが。

 しっかり連想してしっかり選択するためにも、ソース(知識や経験値などの情報)は多い方が良い。むやみやたらに誰かのテンプレートを拝借していると、「考える」能力が低下する。というこうとは、やはり、遺伝子が発信する利己的な信号に従う方がゼロサムゲームでもノンゼロサムゲームでも楽しくプレイできるという仕組みなのかもしれない。